第一話 居候は異世界人
このお話は、同じシリーズ内の『街の事務員の日常』と世界観を同じとしています。
当然のことですが、上記の作品を読まずとも大体の雰囲気は掴めるようにしていますので、本作のみでも楽しんでいただけると思います。
※一応チェックはしていますが、誤字脱字等がありましたら、遠慮なく指摘してください。
イレ・マバル諸島からの大型帆船が、ダリンの港に接岸する。
四日に一度、決まった航路を行き来する定期船だ。
岸壁に舷梯が渡され、船から乗客と積荷が次々と吐き出されてくる。
「世話になったね。あんがと、おっちゃん」
舷梯に足をかけた一人の人間族の若者が、ヒゲ面の船員に向かって片手を上げた。
「ええってこって。故郷へ帰るときゃあよぅ、またワシに声かけろや。色々ええようにしちゃるけん」
潮焼けした浅黒い顔に笑顔を浮かべて、その船員は応じる。
訛りからして、キユレント自由国出身なのかも知れない。
「あはは。それは有難いけど、当分キルウィクに戻るつもりはないなー。
おっちゃんこそ、たまには家族のとこへ帰ってやんなよ? じゃあね」
陽気な笑い声と共に、その若者は入国手続き所へと足を向けた。
船の中で簡単な入国審査は受けているが、手続き所で正式な入国許可証を発行してもらい、通貨の両替を行わないと、外国の、特に他大陸の者は宿に泊まるどころか買い物すらできない。
肩にかけた大きな皮製の背嚢を背負いなおすと、つい先ほどまで船上の人だったその者は、港町ダリンの街並みを眺めながら歩く。
アルベロテス大陸の南部に国土を持つ、アルタスリーア王国港湾都市ダリン。それがこの街の正式な呼び名だ。
「大陸南部の国という点は同じでも、やっぱミスルラインとは全然違うなー」
控え目に表現しても、乱雑にカットされたとしか言えない赤い髪を潮風に遊ばせながら、その者は感心したように呟いた。
入国手続き所は港と街の境目にある。
岸壁からゆっくり歩いても、千も数えないうちに辿り着ける場所だ。
そこへ向かいながら、赤毛の人間族はこれからのことに思いを巡らせる。
事前に聞いていた換金相場に大きな変動がなければ、およそ二月程度は仕事をせずとも暮らしていけるだけの貯えはある。
このままダリンに住み着くのも良いが、白き王都と呼ばれているアーオノシュにも行ってみたい。
それに、いずれ何らかの仕事に就くとしても、人口の多い王都のほうが選択肢も増えるだろう。
或いは、商人の街と言われているアーセナクトまで足を伸ばすという手もある。
最悪、仕事が見つからなければ冒険者に戻ればいい。あまり、気は進まないが。
「でもなー。冒険者はもう飽きたというか、もっとこう別の生き方を……」
誰に聞かせるでもない、その独り言は、最後まで呟かれることはなかった。
何故なら、それを口にする本人の姿が、通りから忽然と姿を消していたのだから。
「……そりゃあね? 確かに別の生き方をしたい、とは思ってたよ?」
6畳のリビングで発泡酒のアルミ缶片手に、ティカが口を開いた。その顔は彼女の髪同様に赤く染まり、明らかに酔っている。
「だからってねぇ! 異世界に行きたいなんて、一言も言っちゃいないっての!」
「はいはい。そうだねー」
そう言って相槌を打つ麻美は、ティカのほうを見向きもせずに、己の作業に没頭していた。
背中まである長い黒髪を、今は適当に後頭部の辺りで纏めており、洗いざらしのTシャツとジャージというラフな格好だ。
このような遣り取りは毎度のことなのだろう、適当にあしらわれているティカも、麻美のそんな態度を気にする様子もない。
「……でもねぇ、今日はちょっとだけいいこともあったんだぁ~」
先ほどまで怒りで眉毛を吊り上げていたティカの表情が、やや蕩けたような自慢顔に変わる。
「へぇー。どんな?」
そう訊き返しながらも、麻美の手は忙しく動いている。
「えへへへ……。あのねぇ~、お尻、触られちゃったの」
「はぁ!?」
予想外の答えに、流石に麻美も手を止めてティカの顔を見つめる。
「なんで、それが“いいこと”なのよ!?」
「だぁってさぁ、お尻を触るってことは、それだけ私に魅力があるってことじゃな~い?」
言いながらティカは二本目の発泡酒のタブを開けた。呂律が徐々に怪しくなっているあたり、完全に出来上がってしまったようである。
実質350ml缶の発泡酒一本で、この状態。彼女のアルコールに対するコストパフォーマンスは、相当良い部類に入るだろう。
「はぁ……。それで、何? アンタは尻を触ってきた相手に『ありがとう』とでも言ったの?」
ため息を吐きながら、麻美はテーブルの端に置いてあった自分のマグカップに手を伸ばす。ティカのように酔っ払うわけにも行かないので、中身は濃いめに淹れたインスタントコーヒーである。
「もっちろぉん! きっちり“お礼”はしといたわよぉ! ビンタ一発ね!」
開けたばかりの缶を左手に持ったまま、ティカは右手を大きく横に振りぬく仕草をしてみせる。
その大袈裟な動きのせいで、飲み口から発泡酒が飛び散っているがお構いなしだ。
「あーあー! こぼれてる! こぼれてるって!」
悲鳴に近い声を上げ、麻美は作業途中の紙束を抱え込むようにして庇った。
「原稿についたらどうすんのよ! 〆切りは明後日なんだから!」
ルームメイトの抗議の声を気にも留めず、赤毛の異世界人は美味そうに発泡酒を一口呷り、
「あぁたしのからだにさわっていいのはぁ、あたしのだんなになるひとだけなろ!」
と、さらに怪しくなった口調で言い切る。
「……で、叔父さんにどやされて、呑んで荒れてると。非生産的なこと、この上ないわね」
原稿用紙に覆いかぶさる姿勢のままでティカを睨んでいた麻美が、まるでその場で見ていたかの如く正確に顛末を予想し、現状を一言の下に斬り捨てた。
「うるさいうるさぁい! あらしがわるいんじゃないもん! あのおろこがわるいんらもん!
だいらいねぇ……、そいつそのあろなんれいっらろおもう? 『なんら、おとこか』、よ!? あらしのむねみて!
あらしのせかいらっらら、きりすれれるろろろろぉ~」
後半は完全無欠なまでに呂律が回らなくなり、何を言っているのか分からない有様である。
しかし、麻美はこれまたいつものことなのか、ティカの言わんとしていることを察して、「はいはい」などと再び投げ遣りな返事をしながら立ち上がると、寝室へ続くドアを開けた。
「分かったから、もう寝なさい。1時過ぎちゃってるわよ?
私はまだ作業もあるし、もうしばらく起きてるけど」
「んぅー? いりりぃ~? それっれぇ、かねいくるぅ~?」
「子鐘一つよ。もう夜中なの! いいから、ほらあっちの部屋まで行きなさい」
ティカから教えてもらった、“向こうの世界”の時間表現を麻美は完全にマスターしていた。
こちらの世界の時間単位が、向こうの世界とほぼ変わらないという、奇妙な偶然のおかげで覚えやすかったという幸運によるところが大きいが。
「なぁにぃ~? きょおはぁ、べっどるかっれいいろぉ~?」
「そうそう、ベッドで寝ていいから。さ、行った行った」
「は~い。れも、これ、のんらられぇ~」
そう言って、再び発泡酒を呷るティカ。
一缶158円のビール風味のこの発泡酒を、ティカは愛飲していた。
彼女の居た世界にも、ビールに似たアルコール飲料はあったようだが、“向こう”では常温で飲むのが一般的らしく、日本のようにキンキンに冷やす飲み方がいたく気に入ったらしい。
あとは、口当たりの軽さがどうのとも言っていたが、麻美はそこまで酒類に対して詳しいわけでも、拘りがあるわけでもないので、今ひとつ理解できていない。
「二日酔いになっても知らないからね」
美味しそうに喉を鳴らしている異世界からの居候を、やや羨ましげな視線で睨め付けながら、この部屋の主である麻美は形ばかりの忠告をしたのだった。
翌朝。
リビングのテーブルに向かって麻美がペンを動かしていると、寝室のドアが開いた。
「おはよぉ……」
「おはよ」
ぼさぼさの頭に手を当てながら、ティカが元気なく朝の挨拶をする。
対する麻美は、あっさりとしたものだ。
「うー……。あたま、いたぁい」
「だから言ったじゃないの。コーヒー、飲む?」
「んー、紅茶がいいかなー」
「そ。んじゃ、自分で淹れなさい」
「ちぇー」
ふらふらとした足取りでキッチンへと向かうティカと、再びペンを動かし始める麻美。
「徹夜したのー?」
「ま、ね。二時から見たいアニメもあったし、今日は午前中に担当さんと打ち合わせしなきゃいけないし、余裕があんましないのよ」
「ふーん」
慣れた手つきでティーポットに茶葉を入れ、電気ケトルを手に取るティカは気のない返事をした。
この世界に来て一年、麻美の家に転がり込んでからは十ヶ月と少し。
当初は、テレビなるものの中で絵が動き回り、その絵が喋る“アニメ”というものに驚いた彼女だったが、今ではそれほど興味があるわけでもない。
麻美が生業としている“漫画”に関しても、同じだ。
冒険者という、創作活動とは縁遠い職に就いていたせいかも知れない。
ケトルからお湯を注ぎながら、ティカはリビングの麻美に向かって声をかける。
「手伝おっか?」
「…………遠慮しとくわ。原稿、滅茶苦茶にされたくないし」
「へへへー」
以前、ティカに作業の手伝いをさせて散々な目に遭ったことを思い出したのか、応じる麻美の声に僅かな疲れが滲んだように感じられた。
その張本人は、別段悪びれる様子もなく、ティーカップに注いだ紅茶に角砂糖を放り込み、スプーンでかき回している。
「午後にはアシの子が来ることになってるから、大丈夫よ」
「大変だねー」
キッチンからティーカップを手に戻ってきたティカが、麻美の向かいに敷いてあったクッションにぽすんと座る。
上にシャツを羽織っただけの、殆ど下着姿に近いティカを、顔を上げた麻美が一瞥するが、特に何も言うつもりはないようだ。
「あたた……。うー……。飲み過ぎたかなぁ」
右手に持ったカップの紅茶を一口啜り、赤毛の異世界人は再度自分の頭に左手を当てて唸る。
「魔法で治せばいいじゃない。『解毒』、だっけ? 使えるんでしょ?」
作業を続けつつ、麻美は何気ない口調でルームメイトの持つ力について口にした。
「そりゃ使えるけどねー。でも、こっちの世界じゃどーも魔力の回復が遅いみたいで、そうぽんぽん使うわけにもいかないの。
やっぱ、最初に使いすぎちゃったんだろうなー」
こちらの世界にやって来た際に、会う人間に手当たり次第に『意思疎通』の魔法を使ったためか、一時期ティカの魔力は完全になくなってしまった。
尤も、そうしなければ、今こうして麻美と普通に会話することも、そもそも麻美の家に転がり込むことも出来なかっただろう。
向こうの世界の感覚で、三日も大人しくしていれば回復すると思っていた魔力が、殆ど回復しなかったのを、ティカの誤算と一言で片付けるには、いささか酷と言うものだ。
「ゲームのように、魔力を回復するアイテムとかってないの?」
「そりゃあ、あるにはあったけど、副作用とかキツかったからね。“向こう”でもあんまし使わなかったなー。
って言うか、あーんな薬や泉の水なんかで、お手軽に魔力回復できるなら苦労しないわよ」
この辺りは、経験者故の言葉だろう。
以前、麻美がティカの向こうでの活躍ぶりを聞き、面白半分に家庭用ゲーム機の有名なロールプレイングゲームを、いくつか強引にやらせたことがあった。
薬草で立ち所に回復する体力や、薬一つで生き返るキャラクターを見て、赤い髪をした元冒険者は鼻で笑ったものだ。
「現実はそんなに甘くない、ってことか」
「そーゆーこと」
そう言いながら紅茶を啜るティカに、麻美は自分のバッグから頭痛薬を取り出して手渡す。
「じゃ、これでも飲んどきなさい」
「あんがと」
早速、箱からタブレット状の薬を二粒取り出して口に放り込んでいるルームメイトを見遣り、麻美が今日の予定を訊ねてくる。
「ティカは今日どうすんの? ……って言っても、叔父さんとこでバイトか」
「んっ……。うん。昼前に入って、二時から五時まで休憩。そんで五時から閉店までの、いつもどおりのシフトだねー」
頭痛薬を飲み込んだティカは、天井を見上げるように指折りスケジュールを確認する。
彼女のバイト先は、麻美の叔父が経営している洋食屋だ。そこでの、ウェイトレスがティカの仕事である。
繁盛はしているが、店自体は然程大きくなく、人手が必要というわけでもなかったのだが、麻美が頼み込んでティカを雇ってもらったのだ。
「そっか。今日の作業に目処がついたら、晩ご飯食べに行くかも知れないから、叔父さんに言っといて」
「あの子たちも一緒?」
「多分ね」
「りょーかーい」
そんないつものような遣り取りを交わし、一時間後にティカと麻美は二人揃って家を出たのだった。