第1話「届く声」
落下。
地に足着かない浮遊感は、すぐに重力に引っ張られ、落下の感覚に塗り替えられた。空気を切り裂く音は鋭く大きくなっていく。
落下。
身体に掛かる圧が重くなる。
落下。
落下速度が加速する。
落下。
反転した世界が、視界の下へとスクロールしていって、空が、飛行船が遥か空に遠のいていく。
届く訳もないのに、届く訳がないのに、つい伸ばした右腕で、包み込めてしまう程に遠くになってしまった飛行船。
不意に、甲板からボクを真っ直ぐに見つめる男と目が合う。酷く暗い世界の中で、何もかもが視界に捉える事も出来ずに流れていく世界の中で、その男だけは、確かに、間違いなく、そこに居た。
「生きろ。生きるんだ。生きて生きて生き抜いて、お前が変えるんだ、この世界を!頼んだぞ──。
既に声の届く距離ではない。それでも、言葉が確かに聞こえた。不思議なほどに鮮明に。
落下。
まだ続くであろうその言葉は、プツリと急に途切れてしまう。それと同時に鈍色の靄が体を包み込む。
一層重くなる体。もう瞼を開けることすらままならない。グルグルと廻る思考回路が途端に鈍重になっていく。
落ちる。暗い暗いその先へ。
落ちる。深い深い意識の底へ。
落ちる。広く果てしないこの世界へ。
ボクは今、落ちていく。
◆ ◇ ◆
強い光が瞼越しに、目の奥が刺激する。目を開き、飛び込んでくる白い光に慣らすこと数十秒。
快晴。青い空とそれを囲む無数の緑。葉っぱの隙間から降り注ぐ木漏れ日が温かい。理想的な程に気持ち良く、清々しい目覚めだ。
唯一つ、池にプカプカと浮かんでいる事を除いては……なのだが。
「ここは、どこ、だ……?」
頭が働かない。木漏れ日の温かさのせいだろうか、はたまた全く知らない場所で目覚めた衝撃のせいだろうか、頭の中が真っ白だ。
考えるべき事が思い浮かばない。まったく言葉が出てこない。……というか、思考する気が起きない。お腹がはち切れるまでご飯を食べた後の感覚や温か〜いお風呂で長風呂をした時の感覚と同じだ。
だが、いつまでもプカプカと池に浮かんでいる訳にもいかない。なんとか陸の方まで近づいて、さぁ地面に上がろうとしたその時だった。
「たす……け……て……」
霧の様に不確かで微かな声だった。蟻の様に小さく弱い声だった。……それでも確かに聴こえたんだ。確実に、間違いなく、誰かの力を必要とするその声が。
そこからは早かった。
バシャン!と一気に池から飛び出して、迷わず足を踏み込んだ。今さっきまでの空っぽな頭の中が嘘の様に思考する。
困っている人がいる!助けなくては!
その一心が思考を重ねる程に、無意識に思考に応える身体が地面を蹴りつける毎に、大きく強く堅くなっていく。
ベチャッ!ベチャッ!ベチャッ!と、濡れた足音を鳴らしながら、声の下へ駆ける。
走る。走って、走って……森を駆けたその先で、ボクを、待っていたのは、少女と怪物だった。
心は戸惑った──目の前にいる怪物は、明らかなまでにボクの知っているどの動物動物にも属さない。3メートル程の巨体。身体は赤く筋肉質。口は空いたままで涎を垂らし、ギラリと伸びる鋭い歯が見える。額には天を刺すかのような角。凶悪を体現するその怪物に、理性は一瞬、止まるべきか?と迷いを生んだ──が、身体に止まるという選択肢は無かった。
「たす、けて……!」
本能的に解ったんだ。
ボクならこの怪物を倒せる。あの少女を守れる。何よりも、今にも潰されかねないこの心からのお願いに、生きる事に真摯で必死なお願いに……応えなくてはならないと。
本来、理性や知性を持つ生物ならば、決して生まれないだろう蛮勇にも似た自信。助けを願う声が、躊躇を吹き飛ばし、握る拳を強くした。
身体が一歩を踏み込む。持てる力を全て使い、全身の筋肉を一つの行動の為に動かす。まるで、絶対的な命令をされたかの様に滑らかで、自然な動きだった。
「打ッ破!」
ドゴンッ!
殴る。
ボクが突き出した右腕は、怪物の左頬を殴り付け、吹き飛ばし、木へ打ち付ける。木には大きな凹みが生まれ、怪物は項垂れて動かなくなった。
脱力する。全身に巡らせていた緊張が解ける。脳内を馬の様に駆けていた思考が、ものの数秒にしてスピードを失う。
目の端に映った倒れ込んだ少女。未だ不安げに、こちらを見つめる彼女と目が合う。
「ぁ……あぁ……」
口をアワアワとして、言葉にならない声を漏らす彼女に声を掛けようとしたその時、ボクの言葉を少女の言葉が掻き消す。
「大丈夫で『ダメッ!終わってないッ!魔法じゃないと死なないっ!』なっ!?」
ドォンッ!
「ヴァァァァァ!」
荒々しい物音と声、その二つだけでこれから自分の身に暴力が振り下ろされる事は明白だ。
バンッ!
振り向いたボクの腹の真ん中に鋭く拳が打ち付けられた。
「がはっ……!」
身体に捩じ込まれたエネルギーが、ボクの身体を木へと打ち付ける。先程の怪物と同じ状況。その皮肉を分かってかどうかは知らないが……その怪物はニヒィ!と煽るような笑みを見せつけてきた。
身体が痛い……が、それだけ。まだ動ける。まだ戦える。やれる!やれるッ!やれるぅッ!
「は……ははははは!はぁ……はぁ……まぁーだ死んじゃいねぇぞぉ?かかって来いよ、全身赤ぁッ!」
「グゥゥゥ!アゥヴッ!」
ドン!ドン!ドンドンドンドンドン!
あっという間に目の前まで迫った怪物。拳を引いてボクを狙う。……ありがとう。ボクを無視せずちゃんと狙ってきてくれて。その大きな目を開いて、ボクを真っ直ぐ見てくれて。お陰でボクは、彼女を守れるッ!
君を吹き飛ばしたボクを吹き飛ばし返せて、さぞ気分が良いだろう。木に打つかって呼吸を乱したボクを見て、さぞ気持ちが良かっただろう。
まさか、さらにボクに反撃されるなんて思ってもいなかっただろう!!!!
「喰らえぇぇぇ!」
ザッ!
ボクの右手から真っ直ぐに飛んでいく土の塊。それは吸い込まれるように、怪物の目に当たる。
悶絶する怪物。
脇腹に痛さを感じながらも、ボクは少女の下へ駆け出しす。十歩も必要とせずに彼女に辿り着く。
「ごめんッ!文句は後で聞くからッ!」
「へ?……わぁ!?うわぁあぁあぁあ!?」
肩に少女を担ぎ、森の中を駆ける。幸いな事に少し走れば大木に、姿を遮られる。
相手が人間ならば、追跡するのは難しいだろうが相手は怪物、油断できないと感じる矢先に背後から木々が悲鳴をあげる。
ドォーン!
ドォォンッ!
ドゴォォォンッ!
走るボクにその音はどんどん近付いて来る。
「やばいやばいやばいやばいっ!来てる来てる来てる来てるっ!」
肩に担いだ少女は、息と共に言葉を漏らす。
「分かってる!落ち着け、君が暴れても何にもならないだろう!?……ん?」
そこでようやく気付いた。彼女の姿に。くたくたの黒い魔女帽子、所々が縫い繋がれているボロボロの黒いローブ……その姿は俗に言う魔法使いだ。
「君、もしかして……魔法使える?」
「使え……ないです……」
「えぇ……と、魔法使い……だよね?」
「魔法使い……見習い……みたいな?」
「あぁ……」
「……」
「……なら、今使えるようになれば良い。多分、このまま走り続けてもすぐに追いつかれて殺されるボクも君もだ」
「いや……無理だって!無茶だって!私は魔法使えなく……て……!本当に駄目で……」
「無理だろうが無茶だろうがやるしかないだろ!今この状況でボクと君を救えるのは君だけだ。助けてくれ……頼む!」
「……んっんんん!分かった!やる!やればいいんでしょ!やってやりますよ!!!下ろして!」
ドゴォォォンッ!
「すぅーーーー……」
目前の大木が倒れる。赤い怪物が姿を見せる。少女の前に立つボクをじっ……と見ると、そのままボク目掛けて走って来る。
ボクに向かって飛びかかる怪物。これなら外れる事も無いだろう。横にスルリと退く。
少女、いや……その魔法使いは、眉をひそめて立っていた。
「はぁーーーー……」
ため息混じりの深呼吸で、彼女は表情をガラリと変えた。
今さっきまでのまごまごした雰囲気が嘘の様に消え去って、その3メートル程の怪物を真っ直ぐ見据えると両腕をゆったりと怪物へ向ける。
ポワンと緑色の優しい光が両手を包み込んで、光が手の前に集まって緑色の球体を創り上げる。
「集中集中……集中集中集中集中集中集中ッ!【魔砲】ッッッ!」
緑色の玉がカッ!と一際強く光る。
両手の光が消えて……。
ボフン……!
煙が出た。
「あーーー……失敗、です」
ドォーーーーン!
怪物の一撃が無慈悲にも振り下ろされた。




