忘却を呼ぶ花 〜勿忘村の山にて〜
記憶とは、誰のものだろうか。
脳に刻まれた過去の痕跡。繰り返し思い返すことで色濃くなり、語られぬままにすれば薄れてゆく。けれど、それは本当に“私のもの”なのだろうか。
記録とは違う。紙に書かれた文字、写真に残された像、録音された声。それらは“誰が見ても同じである”ことを前提とする。
だが、記憶は違う。私が見たはずの景色を、隣にいた彼女は「そんな場所あった?」と首をかしげた。
ならばそれは、私の記憶ではなく、“私だけの虚構”だったのだろうか。
けれど、私は確かに覚えている。
彼女が差し出した弁当の中に、苦くて青い、竜胆の花が添えられていたことを。
そのとき彼女は、泣きそうな顔で笑っていた。
「この村にはね、忘れてほしいことがあると、この花が咲くんですよ」
あれは秋の終わりだった。空は深く、空気は冷たく、風に揺れる花だけが、記憶を引き止めていた。
それを信じていたのは、もう私ひとりだけだったのかもしれない。
中部地方の山あいに、その村はある。
正確な地図には載っていない。行政区分すら曖昧で、地元の人もその存在を話したがらない。
助手が見つけた古い文献の中に、ほんの数行だけ記された村の名と、“青い花の祀り”という言葉。私たちはその僅かな手がかりを頼りに、この地を訪れた。
秋の終わり。山道は冷たい風が吹き抜け、木々はほとんど葉を落としていた。車を降りてからしばらくは歩くしかない。舗装されていない獣道のような細道を、私と助手の二人で踏みしめてゆく。
「先生、これ……」
助手が立ち止まり、道の脇を指さす。そこには、ぽつんと一輪、青紫の竜胆が咲いていた。
冷たい土に根を張り、他に咲くものもないその場所で、ひっそりと、それでも凛として。
「こんな時期に……」
思わず私は呟く。助手もまた、複雑な顔をしていた。
「……見覚えがある気がするんです。でも、どこで見たんだろう」
私は返事をしなかった。見覚え――私も、あった。
この花を、私は知っている。けれど、それがいつ、どこでだったかが思い出せない。
村に着くと、どこかで見たような茅葺きの屋根、木造の古びた家並み。誰もいないわけではない。人の気配も、灯りもある。だが、誰も私たちに声をかけようとはしなかった。
村の中心にある共同井戸の近くに、祭壇のようなものがあった。そこにも、竜胆が供えられていた。誰がいつ置いたのかも分からないが、花はまだ瑞々しさを保っていた。
「記憶って、変ですよね」
助手がぼそりと呟く。
「何かを見たはずなのに、どうしても思い出せない。でも、忘れてはいけない気がする。そんなこと、ありませんか?」
私は頷いた。
あの竜胆の花を見た瞬間から、私の中にも何かがざわついている。
それが“記憶”なのか、“記憶だったもの”なのか、もう自分でも分からない。
村の人々は、どこか私たちを見ているようだった。距離を取り、会釈すらしないのに、どこかで確かに見張られている感覚。
そして、夜。泊まることになった村の古民家で、私は奇妙な夢を見た。
真っ白な地面に、無数の青紫の竜胆が咲き乱れている。そこに、誰かが立っていた。顔が見えない。だが、声だけははっきりと聞こえた。
「あなたは、まだ思い出していないだけ」
私は目を覚ました。汗ばんだ額に、ひんやりとした秋の夜の空気が触れる。
窓の外に目をやると、月明かりに照らされた庭に、ひときわ濃い青の竜胆が、ただひとつ、揺れていた。
翌朝、助手はいつもと変わらぬ調子で朝の支度をしていた。
いや、そう見えた――が、違和感は確かにあった。
「昨夜、ちゃんと眠れました?」
そう尋ねられた私は、夢のことを言いかけてやめた。
「まあ、なんとか。君は?」
「……うん。変な話ですけど、妙に静かすぎて、逆に落ち着かなかったです」
助手はそう笑ったが、その声にどこか“遠さ”があった。まるで、心の芯がどこか別の場所に置かれているかのような。
朝食のあと、村を歩いていると、昨日見た井戸のそばにいた老婆が声をかけてきた。
「あんたたち、外の人かね?」
「ええ、記録調査で来ました」
「そらまあ、大変だ。……あの花には気をつけなされよ」
「花……ですか?」
「あれだよ、あの……名前は何だったかね……」
老婆はそう言って井戸の後ろを指さす。そこには、昨日見たのと同じように、竜胆の花が一輪、供えられていた。
だが――助手はその花を見ても、まったく反応しなかった。
「先生、これ、何の花でしたっけ?」
私は思わず彼女の顔を見る。冗談かと思った。だが、彼女の目は本気だった。
「……リンドウだろう。昨日、君が名前を口にしたはずだ」
「えっ、私が? ……ううん、そんな話したかな」
そのとき、私の背筋に冷たいものが走った。
彼女は確かに言ったのだ。“リンドウ”と。“見覚えがある”と。昨日の道端で。
だが、今の彼女はそれを完全に忘れている。いや、まるで最初から、花の存在そのものが頭から抜け落ちているようだった。
私は井戸のそばに近づき、竜胆をじっと見つめた。青紫の花弁は夜露の名残でしっとりと濡れ、昨夜の夢に出てきた花とまったく同じだった。
「先生?」
「……いや、なんでもない」
私は誤魔化すように言い、村の道を進んだ。だが頭の奥では、昨夜の夢の声がこだましていた。
――あなたは、まだ思い出していないだけ。
誰が言った言葉だったか、それも曖昧だ。だが、それが“夢”ではない気がしてならなかった。
昼過ぎ、古い家屋の納屋を借りて調査作業をしていたとき、助手がふと声を上げた。
「先生、この人……誰でしょう?」
彼女が手にしていたのは、古いモノクロの集合写真だった。かすれた文字で「昭和三十三年 秋の収穫祭」と書かれている。
そこに写っていたのは、祭の衣装を着た村人たち。中央に一人、若い女が青い花を手にして立っていた。
「……誰だろうな」
私がそう答えたとき、助手がぽつりと呟いた。
「でも、この人……わたしに、似てません?」
言われて初めて、私は写真を凝視した。
――似ている。顔立ち、髪型、着物の裾の仕草までも。
「まさか……君の、親族?」
「……そうだったら、嫌だな」
助手はそう呟いて、笑わなかった。
午後、村の資料館に案内された。半ば廃墟と化したその建物には、民俗行事の記録や古文書が保管されている。
館内の一角に、“花の祀り”と題された記録があった。朽ちた和綴じの帳面。そこにこう記されていた。
六年に一度、花が咲く。
咲いた花は、忘れられた名を呼ぶ。
花が名を呼ぶとき、名は消える。
記録に残らぬ者が、供えられる。
私はその文を何度も読み返した。意味が曖昧で、だが核心に迫っている気がした。
そのとき、助手がそっと私の肩を叩いた。
「先生。……わたし、ちょっと、思い出せないことがあるんです」
「なにが?」
「……どうして、ここに来たんでしたっけ? 私たち、どうやってこの村に来たんでしたっけ……?」
私は息をのんだ。
「そんなはずは……昨日、君が車で」
「車……? 私、運転なんてできませんよ」
彼女は、まるで最初から“その記憶”がないかのように、首をかしげていた。
助手の言葉が、頭の中で何度も反芻された。
――私、運転なんてできませんよ。
そんなはずはない。彼女は自分で助手席からナビをし、道を案内していた。いや、それどころか、この村に来ようと提案したのも彼女だった。
それなのに――彼女は、自分が“ここに来たことすら覚えていない”と言う。
記憶ではない。“現実そのもの”が、彼女から書き換えられている。
資料館の片隅、埃をかぶった棚に、村の過去の住民名簿を見つけた。手書きの和綴じ。中身は簡素なもので、名前と年齢、居住区域だけが記されている。
私はページをめくる。昭和、平成、そして最近の令和元年まで、記録は続いていた。
だが、違和感に気づくのに時間はかからなかった。
――あるべき名前が、抜けている。
古い写真に写っていた、あの“助手に似た女性”の名前が、どこにもないのだ。
「ここに写ってたのに……」
私はあの集合写真を再度取り出し、名簿と照合した。全員は写っていない。だが、他の人物の名はある。中央の彼女だけが、欠けている。
まるで最初から、“存在しなかった”ように。
「先生」
振り向くと、助手が立っていた。その手には、ノート。
「わたし、この村に来てからずっと日記つけてたんです。先生に言われて。でも……見てください」
ノートの中には、確かに日付ごとの記録が綴られていた。
だが、ページをめくるごとに、違和感が強まる。
言葉が曖昧だ。主語がない。記された風景が現実と微妙に異なる。なにより――
「……僕のことが、どこにも書かれていない」
助手が顔を上げる。目に浮かんだのは、はっきりとした怯えだった。
「おかしいですよね? 毎日一緒にいたのに。話してたのに。どうして……」
私はノートを手に取り、文字をなぞった。
「この文字……君の筆跡じゃない」
「……え?」
「たぶん、君自身が書いていない」
助手は震えるように首を振った。信じたくないという感情が、肌から滲み出ていた。
「でも、じゃあ……誰が……?」
私はふと、ノートの最終ページに目を落とした。そこには、こう記されていた。
“この記憶は不要である”
その文字だけが、明らかに異質だった。書かれたのは近い日付なのに、筆圧も、筆跡も、あきらかに違っていた。
「記憶は、誰かによって“書き換えられている”。」
私は呟いた。
そのとき、資料館の奥――床下から、微かな音がした。
――カサ……カササ……
私は音の方へ歩み寄る。床板の隙間。乾いた花びらのようなものが一枚、ひらりと舞い上がった。
青紫の、それは明らかにリンドウの花弁だった。
「まさか……」
私はしゃがみ込み、床板の隙間をのぞき込んだ。
薄暗がりの中に、何かが動いた。白く、小さく、滑るような“脚”。
蜘蛛か、虫か、それとも――
「先生……!」
助手が叫ぶ声がした瞬間、視界が白く反転した。
次の瞬間、私は誰もいない資料館の中央に立っていた。
助手の姿が、ない。
呼びかけても、返事はない。
私は、ひとりになっていた。
残されたのは、机の上に一輪だけ置かれた、竜胆の花。
その花びらの一枚に、黒い染みのような“文字”がにじんでいた。
“証人は一人でよい”
助手の姿は、村のどこにもなかった。
資料館、宿、祭壇のある井戸端、昨日の山道。すべてを探したが、彼女の影すら残っていなかった。
まるで最初から、存在していなかったかのように。
だが、私は知っている。
彼女は確かにそこにいた。私と共に、花を見て、話し、調査をしていた。笑って、考えて、怯えていた。
だから私は、それを“証明”しようとした。
彼女の痕跡を探し始めた。日記帳、ノート、持ち物。宿の帳簿。資料館の訪問記録。
けれど、どれにも彼女の名はなかった。ページには空白が広がり、あるいは別人の名が記されていた。
「助手など最初から来ていなかった」と、宿の老婆は言った。
「一人で調査に来られたんじゃないですか?」と、資料館の管理人は言った。
「あの写真も、もとは独りで写っていたはずです」と。
だが、私の手元には、あの写真がある。
古いモノクロの集合写真。祭の衣装を着た村人たち。その中央に、彼女と瓜二つの女性が、青い花を抱えて立っている。
ただ――それを今、誰かに見せようとしても、誰もその女性を“見ない”のだ。
「どこに似た人がいるんですか?」
「中央の男性でしょう? 若い頃の村長さんにそっくり」
人の目が“花の中央を認識しない”。
いや、違う。花を“記憶してはいけない”ようにされているのだ。
私は気づく。リンドウ、それは“記憶を残す花”ではない。
それは、“忘却を完成させる花”だ。
思い出しかけたものを、最後に葬る。確かにそこにあった記憶を、“完全に終わらせる”ためのしるし。
村の伝承に、こう記されていた。
咲いた花は、忘れられた名を呼ぶ。
花が名を呼ぶとき、名は消える。
竜胆が咲いた場所には、必ず“誰かの記憶”が落ちている。
人の記憶、村の記録、写真の顔、言葉の意味――すべてを失わせる“契機”として、花は咲く。
資料館の一番奥、鍵のかかった棚を見つけた。管理人に無理を言って開けてもらった中に、かろうじて残っていた一冊の古文書。
『封花録』と記されていた。
そこには、過去の“花に消された者たち”の記録が断片的に綴られていた。
・昭和二十三年、村外からの巡査、名前不明。花の咲く翌朝に記録より抹消。
・昭和四十五年、若い女。花を摘もうとしたため供物となる。記録なし。
・平成元年、外来の夫婦。夫のほうが残る。妻の記録は、花と共に消去。
そして、一番最後のページに、こう記されていた。
“記憶にしがみつく者が現れたときは、花を咲かせよ”
“それでも抗うならば、記録ごと、村から消せ”
私は本を閉じた。
理解した。
彼女は、消されかけているのではない。
もう、完全に消されたのだ。
私以外のすべての記憶から。記録から。証拠から。
ならば、私に残された選択肢は一つ。
“私の記憶ごと、花に呑ませる”のか――
それとも、“抗って、花の正体を暴く”のか。
そのとき、風が吹いた。背後で何かが落ちる音がした。
振り返ると、床にぽつんと、青紫の花が一輪、咲いていた。
どこにも根などないはずの、木の床に。
私はその花を見つめながら、確信した。
この村そのものが、“箱”なのだ。
記憶を沈め、記録を埋め、“いなかったこと”にする、巨大な記憶の箱。
その花は、最後の封印の印だった。
私は立ち上がった。――ここから、“記憶の外側”へ踏み出すために。
私は、村の中心へ向かった。
竜胆の咲く畑。その最奥、誰も近づこうとしない“封じ地”と呼ばれる場所がある。
村人たちはあそこを「神の根」と呼ぶが、詳細は語られない。ただの祀り場ではない。
そこには、何かが埋められている――記憶そのものが。
昼をすぎたばかりなのに、空は灰色に沈み、風の音が耳の奥をざらつかせる。
畑に入ると、花がざわざわと揺れた。まるで、私の存在に反応しているように。
「……帰れないぞ」と風が言った気がした。
それでも、私は歩を進めた。
“彼女がここで消えた”ならば、私はそこまで行かねばならない。
畑の中央に、古い石の祠があった。苔に覆われ、屋根は傾き、扉は閉ざされている。
その前に、青紫の花がひときわ濃く咲いていた。
私はしゃがみこみ、その花に触れた。冷たい。けれど、生きている。
すると、花の奥から、微かに音がした。
――誰かの声だ。いや、“彼女”の声だった。
『……せんせい』
私は立ち上がり、祠の扉に手をかける。重く、古く、抵抗を感じる木の板。
それでも、力を込めて押し開けると――
中には何もなかった。祭具も、供物も、神像すら。
あるのは、床にぽつんと置かれた一冊のノートだけ。
私は手に取る。埃を払って開くと、そこには見覚えのある文字が並んでいた。
助手の筆跡だった。
一日ごとの記録。研究メモ。風景スケッチ。そして、その間に挟まれた、彼女自身の言葉。
“村に来てから、先生の声がだんだん遠くなる。”
“昨日話したことが、翌朝には夢みたいにぼやける。”
“たぶん、わたし、消されかけてる。”
“でも――先生だけは、わたしを覚えてくれる気がする。”
最後のページに、花びらが一枚、挟まれていた。
それは、枯れていた。
青紫の色を失い、茶色く、ひび割れた、小さな痕跡。
けれど――その花の上に、鉛筆で走り書きがあった。
“思い出して。わたしのことを、あなたが忘れたら、私はほんとうに消える。”
私はノートを胸に抱きしめた。
そうだ。これは選択なのだ。
この村に記憶を“返す”か、それとも“奪い返す”か。
村は、花を媒介にして記憶を封じる。そのために祀ってきた。供えてきた。
人は忘れる。集団も歴史も、都合の悪い記憶から目を逸らし、消していく。
それを“見なかったことにするため”の花が、竜胆だったのだ。
けれど、私は――
「忘れない」
口に出すことで、自分に刻む。
彼女の声。彼女の仕草。彼女が花を見て黙った時間。
全部が、確かにあった。たとえ誰が否定しても。
私はノートを持って祠を出た。
そのとき、花畑の向こうに、人影が立っていた。
風に揺れる髪。白い上着。あれは――
「……あいつ」
私は駆け出す。花を踏み、風を裂いて、その姿に向かう。
彼女は、振り返らなかった。ただ、歩き続けていた。山の向こうへ。霧の奥へ。
「待て――!」
私は呼びかける。声が届いたかは分からない。
その背中が、花の向こうに消えかけたとき、ふいに、彼女は立ち止まった。
そして、振り返った。
ほんの少し、微笑んだ気がした。
だが――それは、幻だったのかもしれない。
次の瞬間、霧がすべてを覆い尽くし、彼女の姿は見えなくなった。
帰ってきたのは、大学の研究室だった。
秋はすでに終わり、構内の銀杏は葉を落とし、朝には霜が降り始めていた。
私は自分のデスクに向かい、しばらくの間、何もする気が起きなかった。
引き出しを開けると、そこに一冊のノートがあった。
古びた表紙、鉛筆の走り書き、そして枯れた花びらが一枚。
助手が残したノート――のはずだ。
だが、背後から覗き込んだ研究員がこう言った。
「先生、それ何の本ですか? ずいぶん古そうですね」
「これは……」
言葉に詰まった。答えを探しても、喉の奥にひっかかって出てこない。
助手の名前が、どうしても思い出せなかった。
顔、声、仕草、服の色、すべて覚えているのに、“名前”だけが抜け落ちていた。
名がなければ、記録には残らない。記憶の輪郭もあやふやになる。
やがて、消えてゆく。
私はファイル棚を漁った。調査許可証、旅行申請、宿泊領収――何ひとつ出てこなかった。
中部地方にそんな村があったという記録もない。
ゼミの名簿にも、助手の名前はない。卒業アルバムをめくっても、彼女の顔はなかった。
存在そのものが、現実からきれいに“剥がされていた”。
ただ一つ、残されていたのは――
机の隅に置かれた、小さな標本瓶の中にある、一本の青紫の花。
竜胆。
花びらの端に、微かに擦れたような跡があった。
顕微鏡で覗くと、そこには鉛筆で書かれた細い文字があった。
“ありがとう”
私は目を閉じた。
確かに、あった。そこに“彼女”はいた。
誰が否定しても、記録が残らずとも、この胸の内には、確かにまだ記憶がある。
ただ――それは、私ひとりしか知らない世界だ。
その孤独が、ときどき重くのしかかる。
夜遅く、研究室に一人きりで残る時間。私はたまに、あのノートを開く。
そして、自分の文字で、もう一度だけ同じ言葉を記す。
“私は、忘れない。”
ページを閉じると、どこかから風が吹いた気がした。
その風の音の中に、微かに笑うような声が混じっていた。
振り返っても、誰もいない。
けれどそのとき私は、こう思った。
――それで、いい。
先ほど声をかけてきた、研究員は言う。
「やっぱり私のこと、忘れちゃったんですか?」
記憶なんて曖昧なものだ。抗って忘れずにいた顔も声も仕草も実際は全然違っていた。
──了(ただし、記録には残らない)