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月喰草の祀り 〜 灰風の郷にて〜

 ここに壷がある。蓋があり中身が見えない。だから中には無限の可能性がある。

 想像してみてほしい。この中には宝石や貴金属で溢れているかも知れない。

 もしかしたら、この中には絶品の酒が飲まれる日を待っているかも知れない。

 または、あの有名な生死不明の猫が入っているのかも知れない。

 中身を知らなければ、このように想像が膨らんでくるものである。

 しかし、そんな様々な憶測が立てられるような壷は決して開けてはいけない。

「蠱毒」という呪いが込められているかも知れないから。


 蠱毒は歴史が古い呪いの一つである。

 古くは中国で生まれたこの呪詛は、壺の中にあらゆる毒を持つ生物を閉じ込めて殺し合いをさせる。最後に生き残ったモノを呪いの毒として活用する。

 その毒には呪いと怨念が込められており、病をもたらし、苦しみ、殺す。

 平安時代に日本にも持ち込まれ、主に陰陽師が利用したとされている。

 恐ろしく悍ましい、古代から伝わる呪いなのである。


 現代でも蠱毒は存在する。それは壺に限らない。

 狭い部屋に数人閉じ込めて殺し合いをさせれば蠱毒という呪詛は完成する。

 要は、殺されたモノの怨念と狂気があればいいのだ。

 私は、目の前の壺の蓋をあける。そこには白い花びらと大きな蜘蛛の脱皮殻が入っていた。

 どうやら隙間から入り込んだ蜘蛛が脱皮して逃げていったのだろう。

 私はそんな壺を眺めながら、まだこの訪れた村を出れないでいる。


 時間を戻し、この話の冒頭に移ろう。

 私は、都内の大学にて歴史学者をしている。研究室では、民俗学や考古学、宗教学といった様々な観点から人類史を探っている。

 そんな研究漬けの毎日の私には家族はいないし、友人も少ない。

 いても変人ばかりだ。

 今この場に一緒にいるのも、そんな変人の一人。

 大学で私のゼミに入り、そのまま卒業後も研究室から出て行かない助手だ。

 異性の友人は彼女含め二人しかいない。

 その助手の友人より、6年に一度開催される村祭りの誘いがきた。

「先生も一緒に行きませんか?」

 助手の元にやってきたその友人は、そんな研究室の主である私も誘ってくれたのである。

 スケジュール的に断る必要もないし、1年を祝う祭りではないことに興味を持った。

 概要としては、中部地方の村で6年に一度開催されるこの祭は、その時期にだけ咲く花を月明かりがなくなる夜、つまり新月の夜に祀るのだという。


 その花は、月喰草ツクバミソウと呼ばれており、6年に一度いっきに開花するらしい。その花が咲いた年は疫病が流行ったり、飢饉が起こるなど昔はよくないことが起こったため、その花を神として祀ることで怒りを収めようとしたのが起源のようだ。


 助手は、そんな歴史背景に目を輝かせ今にも荷造りを始めそうな勢いである。

 祭りは2週間後の新月の予定だが、1週間前から前夜祭があるそうな。

 なのでその手前から前乗りするらしい。今回は仕事として行くことを許可した。

 しかし、30手前とは思えないフットワークの軽さである。

 私は、祭りの直前に落ち合うことにした。


 山間の道を抜け、ようやく辿り着いた村は、霧の帳に包まれていた。

 標高のせいか、春だというのに空気が冷たい。舗装もされていない山道を進み、木々の合間からぽつりぽつりと茅葺きの屋根が見えはじめたとき、ようやく目的地に着いたのだと実感した。

 村の入口には、苔むした石の鳥居が建っていた。しめ縄は比較的新しいものに掛け替えられているが、傍らにある地蔵の顔は、花の陰でよく見えなかった。

 それでも、目が合ったような気がして、私は足を止めた。

「先生ー! こっちですー!」

 少し開けた場所で、助手が手を振っていた。いつもの研究室では見たことのない、嬉々とした表情。旅行気分なのだろう。彼女は既に数日前から村に滞在していたはずだ。


「無事に着かれましたね。道、わかりづらかったでしょう?」

「案の定、電波が途切れて少し迷ったよ」

「ふふ、それも含めて風情ってことで」

 私は肩をすくめつつ、助手の横に立ち、村を見渡す。

 白い花が咲き乱れていた。田畑の縁、道の脇、屋根の上にさえ生えている。

 まるでこの村全体が、その花に包まれているようだった。

「これが……月喰草か?」

「ええ。6年に一度だけ咲く花。村では神様の化身として扱われてるんですって」

 助手はしゃがみ込み、咲き誇る花に手を伸ばすが、触れようとはしなかった。

「村の人、花を摘むのも禁じてるみたいで」

「なるほど。それはなかなか徹底してるな」

 私は辺りを見渡した。村人の姿はまばらだった。年配の者が多く、こちらに気づくと一瞬だけ視線をよこし、またすぐに目を逸らす。

 無関心というよりは、警戒に近い。

「歓迎されてる感じは、あまりしないな」

「よそ者だからでしょうね。でも、祭りが始まれば変わるかも」

 助手はそう言って笑うが、私はその笑みにもどこか落ち着かなさを覚えた。

 助手に案内され、村の奥へと足を踏み入れる。道は細く、舗装もなく、踏み固められた土の上に白い花びらが風に舞っていた。


 不思議なことに、どの花も首を垂れるように咲いており、地面の何かを見つめているかのようだった。

「村の中心に、祠があるんです。月喰草を祀る場所らしいんですけど、普段は近づいちゃダメみたいで……」

「禁足地か?」

「ええ、祭りの夜だけ立ち入りが許されるって。今も幾人かで掃除してるみたいですが、私たちは近づかないでって言われました」

 助手はそう言って歩きながら、小声で付け加えた。

「実は、昨夜、その祠の近くに誰かいたって噂があって……村の人たち、すごくピリピリしてます」

「誰がいたんだ?」

「わからないみたい。でも、足跡が残ってたとか。……狐の」

 私は眉をひそめる。もちろん、それが本当に動物のものなのか、それとも何かの作り話なのか、今は判断できない。ただ、村人たちが何かを恐れていることは確かなようだった。


 しばらく進むと、古びた木造の家が並ぶ集落の中心部にたどり着いた。軒下にはどの家にも花が吊るされており、まるで結界のように見えた。

 そして中央には、ぽつんと一体の地蔵が立っていた。

 それは、先ほど鳥居のそばで見たものと同じように、白い花を頭に被っていた。

 しかしここにあるものは、さらに異様だった。

 地蔵の顔に、口が刻まれていなかったのだ。

 目と鼻はある。だが、口だけが、まるで最初から存在しなかったように、平らだった。

「この地蔵は……?」

「“食べてはいけない”地蔵らしいです。村の人がそう呼んでました」

「食べてはいけない?」

「ええ。口がないのは、“決して口にしない”という意味らしいです。祀られる月喰草に関わる“あること”を……」

 そこで助手は、ふと口を閉じた。通り過ぎる村人がこちらを一瞥し、無言のまま頭を下げていった。


 重たい沈黙のあと、助手は声を落として続けた。

「……口にしたら、呪われるんだそうです」

 私は返す言葉を見つけられず、ただ地蔵の無表情な顔を見つめた。

 そのすぐそばに、小さな壺が供えられていた。

 ふたは固く閉じられ、白い布が巻かれている。布には朱で何かの文字が書かれていたが、雨に滲んで判読できない。

とても気味が悪いモノに感じた。


「……さて、そろそろ宿に向かおうか」

「はい。お泊まりになる家、村の長老の家なんです。外からのお客さんは、いつもそこに泊まる決まりらしくて」

「長老か。……歓迎されていればいいがな」

 冗談めかして言ったつもりだったが、助手は曖昧に笑うだけだった。


 長老の家は、村の一番奥――山肌に張りつくように建つ、二階建ての古い屋敷だった。

 手入れはされているが、家そのものは明らかに時代を経ていた。黒光りした木材の柱、きしむ縁側、そして屋根の上にもまた、白い月喰草が咲いていた。

 私たちが門をくぐると、すぐに一人の老婆が姿を現した。

「よく来なすった。長旅でお疲れじゃろう」

 柔らかい笑顔だが、どこか作り物のような印象があった。

 助手は丁寧に頭を下げ、「お世話になります」と挨拶する。私もそれに倣った。

「長老様は今、祈祷中でしてな。代わりに案内させてもらいますよ」

 老婆に促され、私たちは引き戸を開けて屋敷に上がった。

 廊下にはほのかな香が漂っており、草と土と、焚きしめられた何かの香木が入り混じっていた。

 案内されたのは二階の一室だった。

 広く、清潔な部屋で、窓の外には山の斜面が見える。障子を開け放つと、白い花の群れが風に揺れていた。

「ここが先生のお部屋です。わたしは少し離れの離れ屋に泊まることになってます」

「離れ屋?」

「祭りの準備で長老の家が混んでるらしくて。でも、問題ないです。歩いてすぐの距離ですし」

 助手は朗らかにそう言ったが、私は少し胸騒ぎを覚えた。

 部屋には既に布団が敷かれ、漆塗りの膳の上に、湯呑と湯気を立てるお茶が用意されていた。

「先生、先にどうぞ。私、荷物置いてきますね」

 そう言って助手が去ったあと、私は一人、部屋に取り残された。

 差し出された湯呑を手に取る。緑茶だ。口に運ぶと、ほんのり苦みが広がった。

 だが、その背後で、障子の外に微かな気配を感じた。

 足音はない。ただ、誰かがこちらを見ているような視線だけが、妙に重たい。

 私はそっと障子を開けた。

 誰もいない。

 だが、廊下の角に、またひとつ小さな壺が置かれていた。

 それは、祠のそばにあったものと同じ意匠だった。

 白い布が巻かれ、朱い文字がかすれて読めない。

 その壺の上に、一枚の花びらが、そっと乗っていた。

 夜が訪れた。

 村全体が静まり返っている。電灯の灯りもまばらで、虫の声すら聞こえない。

 窓の外は、黒い墨を流したような闇だった。

 新月の夜はまだ数日先だが、雲が月を隠しているらしく、山の稜線すら見えなかった。

 私は布団に入り、眠ろうとしていた。

 だが、どうにも寝つけない。

 胸の奥に、針の先ほどの不安が刺さっている。

 この村には“何か”がある。そんな直感が、静かに脈を打っていた。

 ――カサ…カサ…。

 不意に、音がした。

 どこかで何かが、這うような音。

 屋根裏か? 床下か?

 その音は、まるで生き物が乾いた布を引きずるような、かすかな音だった。

 耳を澄ませる。

 それは、一度だけではなかった。

 ――カサ… カササ……。

 今度は、すぐ近くだ。

 私はそっと布団から起き上がり、部屋の障子に近づく。

 音は、廊下のほうから聞こえてくる。

 静かに、障子を開けた。

 そこには、何もいない。

 だが、確かに、音はこの先から続いていた。


 私は躊躇いながらも、足を踏み出した。廊下に出ると、板の間がひやりと冷たかった。

 ――カサ…。

 屋敷の奥、封じられたような襖の向こうから、音がした。

 そちらへと目を向けると、不意に、その襖の下の隙間から、何かが這い出てくるのが見えた。

 白く、細長い“脚”――いや、“花びら”のようにも見えた。

 私は息を呑み、その場に立ち尽くした。

 それはすぐに襖の隙間に戻っていったが、床には微かに、白い跡が残されていた。

 近づくと、ほんの数枚の花びらが散っていた。


 だが、そのどれもが、先端に黒い染みを持っていた。まるで、何かが始まりかけているような…。

 そのとき、不意に背後で何かが笑ったような気がした。

 振り返っても、誰もいない。

 私は急いで部屋に戻り、戸を閉め、再び布団に潜った。

 だが、瞼を閉じても、あの襖の下に見えた“白い脚”が脳裏から離れなかった。

 翌朝、私は重たいまぶたをこじ開けるようにして目を覚ました。

 妙な夢を見ていた気がするが、思い出せない。花びら、這いまわる白い影、笑い声――その断片だけが、まだ耳奥に残っていた。

 身を起こすと、部屋の空気がひどく冷えているのに気づいた。

 ……いや、違う。

 何かが“変わっている”。

 視線を移した先、部屋の隅に見慣れぬものが置かれていた。

 ――供物だった。

 竹で編まれた素朴な籠の中に、幾つかの品が静かに並んでいる。

 一目で“ただの贈り物ではない”と感じた。


 内容物は、以下の通りだった。

 •小さな白米の握り飯が三つ、きれいに並べられている(塩気のない、祈りのような食事)

 •黒く乾いた昆布が輪のように結ばれている(結界や縁起を意識した形式)

 •そして、中央にそっと置かれていたのは――昨夜、襖の下で見た白い花びらだった。


 その花びらは、やはり端が黒く染まっている。

 けれど、今朝の陽の下では、まるで血がにじんだような紅にも見えた。

「……誰が、これを?」

 私は立ち上がり、襖を開け、廊下を見渡す。誰もいない。

 ただ、縁側の向こうに広がる庭に、ひときわ大きな月喰草が風に揺れているのが見えた。

 再び籠へと視線を戻す。

 それは、私の“ため”に置かれたのだ。間違いない。

 これは、歓迎ではない。

 “選ばれた”者への印だ。

 そのとき、廊下の向こうでふと、障子の開く音がした。

「先生、もう起きてますか?」

 助手だった。

 私は、とっさに籠の前に立ち、花びらを握り込んだ。

「先生、もう起きてますか?」

 襖の向こうから聞こえた声に、私はとっさに白い花びらを手の中に握りしめた。

 籠ごと見せるわけにはいかない。直感的にそう感じた。


「……ああ。今、起きたところだ」

 襖を開けると、助手がすでに着替えを終えて立っていた。相変わらず軽装のまま、どこか浮かれた表情をしている――が、その裏に、微かな違和感があった。

「早いな。朝からどこか行ってたのか?」

 私が訊ねると、助手は少し困ったように眉をひそめた。

「うん、ちょっとその辺を歩いてたんですけど……村の人たち、朝からずっと何かしてるみたいで」

「何か?」

「分からないです。ただ、声かけても返事しなかったり、妙に無表情だったり……

 まるで“何かに集中してる”感じ。言葉じゃなくて、動作とか、空気が――変なんですよ」

 助手は腕を組みながら、納得のいかない顔をしていた。

「昨日まであんなに親切だったのに、急に違う人みたいで。ねえ先生、もしかしてこれって――」

 そこまで言いかけて、助手は急に口を噤んだ。

 私の手元、握られたままの花びらに気づいたようだった。

「……先生、それ、何ですか?」

 私は視線を外しながら、花びらを軽く握ったまま答えた。

「さっき、部屋の隅にあった。供え物の中に入っていた」

「供え物?」

 助手が眉をひそめる。私はその視線を避けながら、そっと畳の下に籠を隠した。

「もしかしたら、ただの風習かもしれないが……あの白い花、やはり何かあるな」

「ツクバミソウ……」

 助手は小さく呟いたあと、やや声を落とした。

「村の人たち、昨日からその花のことになると、話題を避けるようになったんです。


 どんな神様か聞いても答えてくれないし、“古くからあるから”の一点張りで」

 私は黙って助手の話を聞いていたが、胸の内ではすでに“嫌な予感”が膨らみつつあった。

 供物、花、村人の異変――それらは無関係ではない。

 この村では、“何か”が始まろうとしている。

 そして、それに私たちが巻き込まれ始めている。

 昼前、私たちは村の案内を申し出てきた壮年の女性に連れられ、里の奥へと足を踏み入れた。

 彼女は村の自治会の世話役だという。表情は穏やかで、言葉遣いも丁寧だが、どこか“作られた親切”のように感じられた。

「こちらが“花神様”の咲く場所になります」

 そう言われて案内されたのは、谷間に広がる小さな棚田のような土地だった。

 一面に白い花が咲いている。昨日見た月喰草と同じものだ。だが、ここは密度が異常だった。

 見渡す限り、白い花、白い花、白い花――風が吹くたび、波のように揺れ、ざわめいている。

 助手は小さく息を呑み、思わず一歩前に出る。

「きれい……でも、何か……変な感じですね。これ、全部同じ日に咲いたんですか?」

 女性は静かに頷いた。

「そうなんです。ツクバミソウは六年に一度、すべて一斉に咲きます。だからこそ“神様”としてお祀りしているのですよ」

「でも、中心に……何かありますよね?」

 私はそう言って、花の海の中央付近にぽっかりと空いた黒い円形の空間を指さした。

 まるで意図的に、そこだけ花が刈り取られているように見える。

 女性は一瞬、口ごもった。

「……あそこは、明日の準備をしている場所ですので。今日はご遠慮ください」

「準備? 何のです?」

 助手が無邪気に尋ねる。女性は曖昧に笑って答えた。

「明日は前夜祭の儀があるのです。“花迎え”の儀式をね」

 笑顔のままだが、視線は一切、中央の円から逸れていた。

 その後、私たちはさらに山を少し登り、村の“守り地蔵”と呼ばれる像を見せられた。

 地蔵は斜面の岩をくり抜いたような空間に収められており、その頭上には花が飾られていた。白い花だ。

 だが、それは生花ではない。

 乾ききり、黒ずみ、まるで煤にまみれたような枯れた花だった。

「このお地蔵様が、村を“外”から守ってくださるのです」

「“外”……ですか」

 私は思わず繰り返す。女性は頷きながら、ふと、こんなことを口にした。

「昔は“中”から守ってもらっていたんですけどね。

 今は、“中”に入ってきてしまって……」

 その意味を問おうとしたが、女性はもう背を向けて、次の場所へと歩き出していた。

 私と助手は顔を見合わせ、後を追う。

 “見せられた場所”と、“見せられなかった場所”。

 その境界が、確かに存在する。

 そしてその境界線の内側には――おそらく、“儀式の本当の意味”がある。


 夜。祭囃子が山間にこだまする。

 村の中心に作られた仮設の広場には、提灯が下げられ、舞台が組まれていた。

 素朴な衣装を纏った若い男女が舞を披露し、村人たちは手を叩き、酒を酌み交わしている。

 助手もその一角にいて、村の子どもたちと談笑していた。

 私はその喧騒を離れ、音の届かぬ谷の奥――昼間案内された花畑へと足を向けていた。

 仄かな月明かりすらない。

 雲に隠れた星と、携帯の小さなライトだけが頼りだ。

 あの白い花は、夜にも開いている。いや、夜こそ満開だと言っていい。

 静寂の中、白い花が一面に揺れ、かすかな甘い香りが漂っている。

 私は慎重に、昼間禁じられた“中央の円”へと足を踏み入れる。

 そこには確かに、人為的に刈り取られた跡があった。

 だが、その中心――踏み跡のない、ぽっかり空いた土の上に、それはあった。

 壺だ。

 それは、素焼きの大きな壺だった。


 蓋はされており、何の装飾もないが、まるでそこに長く“祀られていた”かのように、周囲の空気が澱んでいる。

 そして、私は気づく。

 その壺の周囲には、枯れた花が捧げられている。

 いずれもツクバミソウのようだが、花びらは黒く縮れ、焼け焦げたような臭いがわずかに鼻をつく。

 近づこうとした、そのとき。

「そこは……入ってはならぬ」

 背後から、男の声がした。

 振り返ると、提灯のような微かな明かりを手に、老いた男が立っていた。

 昼間見た村の世話役とは違う、長老のような風貌だ。

「あなたも、見てしまったのだな。……“迎え”の前に」

 男の声は、怒りでも、恐れでもない。

 ただ、事実を淡々と告げるような、諦めと哀しみに満ちていた。

 私は答えられず、ただ壺を見つめた。

 その蓋の隙間から、かすかに、白い蜘蛛の糸が垂れていた。

「……“迎え”とはな、元は“封じ”だったのだよ」

 長老はそう言って、地面に腰を下ろした。私もその前に座る。

「ツクバミソウは、神ではない。あれは、“兆し”だ。

 花が咲く年には、何かが起こる。……飢饉、疫病、災い、狂い、死。

 村の者は長いこと、それを“災いの神”として祀ってきた。だが、本当は違う。

 あれは、ここにある“壺”の、兆しなのだ」

 壺を見下ろす。白い蜘蛛の糸が夜気にふるえ、風もないのに揺れている。

「昔、この村は飢えと病に苦しみ、人の心も荒れていた。

 そこで、陰陽の知識を持つ者が都より招かれ、村の災厄を一つに封じる方法を示した。

 それが“蠱”だ。病、怒り、嫉妬、呪詛、殺意――そういったものをこの壺に集め、最後に残った“生”を、この地に縛った」

 長老の語り口は、まるで昔語りのように淡々としていた。

「以後、六年ごとに“兆し”は訪れる。花が咲き、封じたものが“目覚め”ようとする。

 だからこそ、再び“迎え”て、封じ直さねばならんのだよ」

「……何を、“迎える”んです?」

 私の問いに、長老は目を細めた。

「“人”だよ。魂と肉とを備えた、欲深く、まだ汚れていない“他所の者”が必要なのだ。

 そうでなければ、“中”からあふれてしまう」

 そのとき、私は思い出した。

 この村に“よそ者”としてやってきたのは、私と助手のふたり――。

「壺の中に何があるのか、誰も知らぬ。開けたことも、見ることもない。

 だが、昔、どうしても逃げようとした者がいた」

 長老は立ち上がり、月明かりのない空を仰いだ。

「その者の部屋には、白い花とともに、殻を脱ぎ捨てた蜘蛛が置かれていたという。

 それが意味することは……」

 そこで長老は言葉を切り、こちらを振り返る。

「お主の部屋にも、何かが置かれていたのではないか?」

 私は返答を飲み込んだ。

 昨夜、机の上にそっと置かれていた白い花と、小さな殻――あれは偶然ではなかったのだ。

「いずれ、選ばねばならんぞ。

 “迎えられる者”となるか、“封ずる者”となるか。

 あるいは、すべてを見て、何かを壊す者となるか――」

 長老の言葉が耳に残る。

 “選ばねばならんぞ”

 私は足早に花畑を後にした。

 不安が胸を押し上げてくる。あの壺。あの蜘蛛の脱け殻。

 そして、助手――。

 広場に戻ると、祭はまだ続いていた。

 村人たちは笑い、踊り、酒を酌み交わしている。だが、その輪の中に助手の姿はなかった。

 私は群れの中を縫って歩き回る。仮設の屋台、子どもたちの集団、酒に酔った老人――。

「助手の彼女、見ませんでしたか」

 そう声をかけると、近くの婦人が微笑んで答えた。

「さっき帰ったわよ。お部屋に戻ったんじゃない?」

 私は礼を言って急いで宿へ戻った。

 灯りは消えていた。ドアを叩いて呼んでも返事はない。

 鍵は開いている。

 中に入ると、布団は敷かれたまま、何も手をつけられていなかった。

 机の上には、白い花びらが一枚だけ、ひらりと置かれていた。

 私は胸の奥で冷たい何かが立ち上がるのを感じた。

 この部屋には誰かが入ったのだ。少なくとも、助手本人ではない“誰か”が――。

 再び外に出ようとしたとき、ドアの隙間に何かが引っかかっているのに気づいた。

 紙切れ。破れた和紙の一部だった。

 裏にはかすれた墨で、こう書かれていた。

「つれていかれた」


 その言葉が脳裏に焼き付いたまま、私は宿の部屋に戻った。

 ドアを閉めても、冷たい風が背中をなぞるような感覚が抜けない。いや、風ではない。誰かの気配だ。

 その夜、私は眠れなかった。

 眼を閉じるたび、脳裏に浮かぶのは、黒い花弁の咲き誇る畑。

 真夜中の月なき闇の中、それがひとつ、またひとつと咲いてゆく。

 そして、花の中心には人の目があった。

 耳元で、声がした。

「みつけて――」

 はっとして目を覚ますと、部屋は静まり返っていた。

 夢だと自分に言い聞かせた。だが、枕元に何かが落ちていた。

 蜘蛛の脚だった。

 翌朝、鏡を見て、思わず息をのんだ。

 左目の白目に、黒い点のようなものが浮いている。内出血かと思ったが、よく見ると、それは小さな花の形をしていた。


 まるで、ツクバミソウの影が瞳に刻まれたかのように。

 外に出ると、誰もその変化に気づかぬ様子だった。

 いや、気づいていながら“知らぬふり”をしている――そんな空気が村全体に漂っていた。

 耳鳴りがする。

 最初はかすかだったそれは、だんだんと虫の羽音のように変化していく。

 ブン、ブン、と壺の蓋を叩くような、何かが出たがっている音。

 気づけば、私は花畑の縁に立っていた。

 昨日まで白かった花弁が、ぽつぽつと黒ずみ始めている。

 そして、その中央――“禁足地”の円環の奥に、何かが動いた気がした。

 何かがこちらを見ている。

 まるで、壺の底から、誰かが這い出てこようとしているように。

 昼下がりの村は、異様な静けさに包まれていた。

 耳鳴りは止まない。ブン、とひとつ大きく響いたとき、私は思わず振り向いた。

 そこに、あの長老が立っていた。


 ひと目で分かる。昨日とは違う衣装――黒を基調にした、喪服のような装束。

「お主……もう気づいておろう」

 長老の声は低く、まるで土の中から響いてくるようだった。

 私は答えなかった。ただ、じっとその目を見返す。

「“花迎え”の年、月喰草が咲いたならば……供物が要るのじゃ。今も昔も、それは変わらぬ」

 長老は私の肩を軽く叩く。枯れ枝のような指が異様に重い。

「“あの子”は、よく笑う。よく話す。よく見る。そして、よく嗅ぐ。

 そういう者は、花の神が好む。…選ばれて当然じゃ」

 私は、言葉を失った。

「どこにいる」

 かすれるような声で問いかける。

 長老は首を横に振った。

「供物は“還る”のだ。村の底へ。土の奥へ。壺の中へ」

 私の胸が、冷たい手でつかまれたように縮む。

「見たであろう? あの壺。蜘蛛が脱け、花が咲いた壺。

 あれは“口”じゃ。花の口。神の喉」

 ――私は思い出す。白い花びら。蜘蛛の殻。あの不自然な静けさ。

「止められぬさ。止めたければ……咲いた花を刈るのだな。

 だが、お主の目にすでに刻まれておる。もう“中”にいるのじゃ」

 言い終えると、長老はふらふらと背を向けて歩き去った。


 私はその場に取り残された。

 頭の中で、助手の笑顔が浮かんでは、花の闇に沈んでいく。

 胸の奥に浮かんだのは、ただ一つ――まだ、間に合うかもしれない。

 気づけば、私はあの禁足地の円環の手前に立っていた。

 昼か夜かも分からない、灰色の世界。村の輪郭は歪み、空は裂けた絹のように沈黙している。

 歩くたび、花が音を立てて散っていく。

 白い花弁が、ふわりと舞う――その中央に、彼女がいた。

「……先生?」

 振り返ったその顔は、確かに助手だった。

 いつもの服。いつもの笑いじみた眉。だが、どこか違う。肌が透けて見える。瞳の奥が虚ろだ。

「どうしてここに……?」

 私は駆け寄るが、腕が触れる瞬間――空気に溶けた。

 彼女の輪郭が滲み、花びらになって崩れていく。

「先生……私、ここで花を見たんです」

 音はあるのに、声は耳ではなく頭の中に直接届く。

 助手の姿は、再び形を取り、私の前に立つ。

「でもね、この花……見ていると、思い出せなくなるの。名前も、帰り道も。

 でも怖くはないの。ただ、すごく懐かしいの」

 私は叫ぶ。「戻ろう。ここはおかしい、戻るんだ」

 助手は首を振った。

「壺の中には、まだ誰もいない。でも、すぐに“いっぱい”になる。だから私、ここで待つの。

 私だけじゃない。……みんな、もうすぐ来るから」

 風が吹く。花が舞う。

 彼女の体が花に変わっていく。蜘蛛の脱け殻のように、音もなく崩れていく。

 私は、地面に膝をついた。

「幻か……? それとも……」

 答えはない。ただ、耳鳴りが再び強くなった。

 それは羽音ではない。複数の囁き声だった。

 ――壺を開けよ

 ――供物を満たせ

 ――選ばれた者よ

 そのとき、遠くで鐘が鳴った。

 前夜祭の終わりを告げる音……いや、花迎えの開始を知らせる合図だったのかもしれない。


 私は、村の本殿にたどり着いた。

 それは地下に続く洞の奥にひっそりと隠れていた。普段は誰も入れないはずの場所――それなのに、扉は開いていた。

 中は暗く、花の香りが満ちていた。甘く、腐ったような匂い。

 そこに、壺があった。

 ――あの壺だ。

 白い花びらがふちに積もり、周囲に蜘蛛の殻のようなものが散らばっている。

 中からは、ごぼごぼと濁った音が響いていた。

 そのとき、私の背後に声がした。

「封じれば、壺の口は閉じる。でも、供物も“外”には戻らない」

 長老がいた。もう老体ではない。立ち姿は背筋が伸び、目は光を宿していた。

 いや、光ではない。狂気だった。

「中にいるあの子を引き戻すなら、“壺”は開いたままになる。

 壺が開けば、次は外の世界が“中”になる」

 言葉が意味をなさないようでいて、私は直感的に理解していた。

 壺は“境界”なのだ。

 中と外、生と死、神と人――すべてを分ける門。

 選べと、長老は言う。

 壺を封じて世界を守るか。助手を取り戻して、壊すか。

 足元に、白い花が咲いている。

 その中心に、彼女の声が響いた。

「先生……お願い、助けて……」

 花の中に、あの瞳があった。

 見上げるように、私を呼んでいた。

 私は、迷った。

「先生……」

 花の中で、彼女がこちらを見上げている。

 白い花びらが頬に張りつき、唇が震えていた。あの真面目で皮肉屋だった助手の姿が、今にも消えてしまいそうに儚い。

 私は躊躇わなかった。

「待っていろ、今、行く」

 長老が叫ぶ。「開けるな! “供物”は神に捧げるものだ! 外に出せば――」

 だが、私は壺に手を伸ばした。

 花びらにまみれた壺の蓋を、音を立てて外す。

 ぶわっと白い花が噴き上がるように咲き、風が吹き抜ける。

 視界が、空間が、世界が反転する。

 私は壺の中に落ちた。


 そこはどこか、既知にして未知の空間だった。

 村のような、胎内のような、白い花が咲き乱れる野。

 空に月はなく、代わりに一輪の黒い花が浮かんでいる。

 そして、その中央に彼女がいた。

 何かを失った目で、花に囲まれて座っていた。

 まるで壺の中にいるのではなく、壺そのものになってしまったかのように――

「……私のこと、忘れないでくれたんですね」

 私は頷いた。「忘れるわけがない」

 そっと、手を伸ばす。

 彼女の手は冷たく、そして花びらのように脆かった。

「帰ろう」

 彼女は目を見開いた。

「でも……戻ったら、先生が壊れる。世界が、壊れる」

「それでもいい。君がここにいるなら、私は帰らない。

 でも、君が一緒に来るなら、どんな代償も――構わない」

 しばし沈黙ののち、彼女の唇がわずかに笑んだ。

「ほんと、変わってませんね。……先生」


 気づいたとき、私は村のはずれの林の中に倒れていた。

 腕には、確かに彼女の温もりがあった。

 白い花は、もうどこにもなかった。

 壺も、長老も、村人も――あの儀式のすべては、霧のように消えていた。

 ただ、手のひらに花びらが一枚、湿ったように残っていた。

 黒い、けれど柔らかな花びらだった。


 東京に戻ってしばらくして、私は調査を始めた。

 あの村の記録を――地図、戸籍、歴史、伝承、写真、何でもいい。

 だが、何も見つからなかった。

 村の名を知っているはずの助手の友人も、「そんな話したっけ」と首をかしげた。

 助手自身も、その記憶を明確には語れなくなっていた。

「……夢だったのかも、しれませんね」

 彼女はそう言ったが、その声はどこか乾いていた。

 笑顔も、以前のように自然には戻らなかった。

 私は、わかっている。

 私たちは“戻ってきた”が、すべてが戻ったわけではない。

 どこかが、何かが、確実に損なわれたままだ。

 ある夜、研究室の机の引き出しに、あの壺が置かれていた。

 持ち帰った覚えはない。

 いや――持ち出したことすらないはずなのに。

 壺には蓋がされていた。

 ただ、かすかに何かの呼吸音のようなものが聞こえた気がした。

 助手がふと、研究室の隅から私を見ている。

 その目が、一瞬だけ黒く深い花のように見えた。

 私は、笑ってみせた。

「大丈夫。……まだ開けはしない」

 その村は、もうどこにも存在しない。

 地図からも、記録からも、誰の記憶からも抜け落ちた。

 ただ、あの壺だけが、今も静かに“それ”を孕んでいる。

 次に誰かが蓋を開けたとき――

 その呪いは、また世界に花を咲かせるだろう。

 白く、美しく、毒のように。


 季節はすでに秋へと移ろい、大学構内の木々も赤く色づきはじめていた。

 研究所の窓からは、冷えた陽光が斜めに差し込んでいる。

 私は静かに資料棚の前に立ち、ある記録を探していた。

 だが、あの村に関する書類は、一枚たりとも残っていなかった。

 助手が書いたはずのフィールドノートも、私の旅行メモも、PCのログも。まるで最初から存在しなかったかのように。

「……またですか?」

 背後から、彼女――助手の声がする。

 白衣のポケットに手を突っ込み、あいかわらずの投げやりな目で私を見ていた。

「もう、探すのやめましょうよ。あの村のことは、たぶん……夢だったんですよ」

 その言葉を私は否定しなかった。

 否定しても、意味がないと分かっていたからだ。

 ただ、一つだけ確かなのは、彼女の首筋に残った、あの黒い花の痕。

 それはまるで火傷のように、消えないままだ。

 研究室の奥、鍵のかかる金属キャビネットの中。

 私は壺を保管している。

 封印用の和紙を何重にも巻き、専門家の助言を仰ぎ、数重の結界を施した。

 しかし、夜遅くひとりで研究室にいると、壺の蓋の向こうから音がする。

 カサリ……コソ……ククッ……

 笑い声にも、虫の羽音にも聞こえる、不定形な音。

 耳を塞いでも、脳に直接語りかけてくるような気配。

 ある日、助手がぽつりとつぶやいた。

「……先生。私、本当はあの壺の中で、何かと“話した”気がするんです。

 神様とか、そういうんじゃなくて……もっと古くて、寂しい“何か”と」

 私は答えなかった。

 ただ、彼女の目があの時と同じように――花のように、何かを孕んでいる気がしてならなかった。

 それでも、私たちは日常に戻った。

 助手は論文を書き、私は講義を続け、学生たちは相変わらず無関心に資料を眺めている。

 だが、誰かが壺の近くを通るたび、白い花びらが一枚だけ床に落ちることがある。

 それを拾っても、すぐに灰のように崩れてしまう。

 夜の研究室。私は壺の前で立ち止まる。

「君は、まだそこにいるのか?」

 もちろん、答えはない。

 だが、ふと、蓋のすき間から吹いた風が、私の耳にこう囁いた気がした。

「おまえも、“供物”なのだよ」


 ──了(ただし、記録には残らない)


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