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まぶたを閉じても生きてゆける

作者: 川原にゃこ

※バッドエンド

※胸糞かも




私は、先のザティス帝国との戦で失態を演じ、まんまと騎士・ヴェスタ率いるザティス帝国軍に捕らえられてしまった。先生はお怒りだろうか。私のことなど、もう切り捨ててしまわれるだろうか。それよりも、ザティス帝国は私をどうするつもりであろうか。もしかすると、拷問をして、吐かぬとなればぼろきれのように容赦無く打ち捨てられるやも知れぬ。それとも、雑兵たちに辱められるのだろうか。それなら、最早自ら命を絶つしかあるまい。恥辱に塗れてまで生き残る理由などない。しかし、今は猿轡を噛まされ、目隠しをされ、その上後ろ手にきつく縛られているので、身動きすら出来ぬ。私はがたがたと音を立て上下左右に不規則に揺れる馬車の荷台に乗せられ、ザティス帝国本陣へと連れ帰られてしまった。





「……アストラエア殿、ですね」



捕らえられ、三刻は経っただろうか。

辺りはすっかり暗くなってから、私はヴェスタによって視界を解放された。天幕の中には私とヴェスタしかいない。ぼんやりとした火に照らされてはいるものの、どうも周りの様子が判然としないままであった。



「私はヴェスタ。あなたに危害を加えるつもりはありません。拷問をするつもりも、辱めるつもりもありません。もちろん、他の将兵にもそのようなことはさせない。ですから、今から猿轡を解きます。本当はその…腕を拘束している縄も解いて差し上げたいのですが、すみません……万が一のことを考えると、出来ないのです……本当に申し訳ありません。ですから、お願いです。猿轡を解いても、舌を噛み切ろうなどとは思わないで頂きたい。また、あなたを餌に、スタルーリュ帝国に何か無茶な要求をすることもありません。神に誓います。約束して頂けますか?」



ヴェスタは、地に肢体を投げ出していた私に「すみません」と小さく謝りながら、天幕の中の長椅子に私を座らせた。そして、ヴェスタもその隣に腰掛け、私の目を見つめる。



「約束してください。自害しないと」



私はヴェスタのその真剣な瞳に、一度だけ頷いた。




***




「ギルバート殿から、あなたを無傷で返せば、この戦は引き上げるという申し入れがありました」

「そんな…先生……」

「ギルバート殿は随分焦っておられるようでした。それ程までに、アストラエア殿が大切なのですね」



ヴェスタは優しく私に笑いかけた。

だが、私は動揺し、身体が震える。

そんな、まさか。

私の人生の師であるギルバート先生が、戦の勝敗よりも私の命を優先すると?いけない。あの方にそんなことをさせてはいけない。あの方は、いずれ天下に羽ばたくお方なのだ。私のちっぽけな存在が、その道を妨げてはいけない。



「ヴェスタ殿!お願いです、私を殺してください。そんな要求飲まないで。私はスタルーリュ帝国のためなら喜んで死にます。お願い、殺してください。お願いします、お願いします」



私は自由の利かない身体で地に平伏し、ヴェスタの足元に請うた。お願いします、お願いしますと私はただ、私の死を願った。先生は負けてはいけないのだ。私一人の命など、あの方の大成の前には無に等しい。



「……見上げた忠誠心ですね。スタルーリュ帝国にも──……ギルバート殿にも」



ヴェスタの顔は窺い知れなかったが、厭に冷徹な声がする。

私は冷や汗が全身から噴出するのがわかった。



「ですが、あなたは殺しません」



そんなヴェスタの一言に、私は愕然としながら勢いよく顔を上げた。そこには、むしろ爽やかささえ感じるような、そんな笑顔のヴェスタがいた。ヴェスタは椅子から立ち上がると、平伏したままでいた私の前にしゃがみこみ、震える私の肩を両手で掴む。とても大きくあたたかな手だった。



「私と、……契りを交わして頂きたいのです……」



茫然とする私に、ヴェスタは言った。

初めて戦場で見たときから好いていたと。

だが敵国同士、結ばれることはまず不可能だろうと。

何より、ギルバートが並々ならぬ感情を抱いているであろうと。

そうして潰えようとしていた想いが、予想だにせぬ私の捕縛によって、ついぞ叶わぬと思っていた恋が叶うかもしれず、この機を逃したくないと。



私は、本当に狼狽した。

ヴェスタは続けた。


本当に大切にする。あなただけを愛する。絶対に悲しく、辛い思いはさせない。あなたが望むのならスタルーリュ帝国へ進軍することも止める。不自由はさせない。あなた一人を愛し貫き、必ず守ってみせる。好きになってくれなくてもいい、ただ、側にいてくれるだけでいい。



ヴェスタは真剣だった。

真剣すぎるその想いが怖かった。

けれど、それなのに。

私は目を伏せると、ただ──「はい 」……としか、言えなかった……。



***



「アストラエア!見てください。もうこんなにたくさんの花が咲いています、ほら、薫ってご覧」

「……本当ね、素敵」



ヴェスタは、本当に優しかった。

私だけを愛し、私だけを守り、本当にスタルーリュ帝国への進軍もやめ、和平の道を選んだ。

私はヴェスタと一緒になってから、不自由を感じたこともなかった。寒い日はヴェスタが自分の分の毛布を差し出してくれ、暑い日は扇で優しく風を送ってくれた。美味しいものがあれば、自分は食べず、私に差し出す。執務のないときは、街へ連れ出してくれて、自分はそっちのけでアクセサリーなんかを買ってくれた。

とても優しい人だった。

でも、その優しさが何より私を追い詰めた。


私はヴェスタを愛していない。

肌を重ねたことすら、ない。


同じベッドに就くものの、ヴェスタは私の髪を優しく梳いて、髪に口づけ、「お休み」と優しく微笑むだけだ。そしてその後は、こちらに背を向けてしまう。私はそんなヴェスタの優しさが、どんな拷問より辛かった。





「ねえ……ヴェスタ?」

「何です?」


ある夜、背を向けてしまったヴェスタに私は尋ねた。

ヴェスタはこちらに向き直り、「眠れないなら、何か寝物語でもしましょうか?」と微笑んだ。私は静かに首を振り、「どうしてヴェスタは私を抱かないの?」そう、問うた。



ヴェスタは刹那、とても驚いた顔をしたが、またいつものように優しく微笑むと、私の頬を指の背で撫ぜた。



「アストラエアは、私を愛していないでしょう?」

「……っ、」



言葉に詰まり、思わず目を逸らした私を見て、ヴェスタはハハ、と小さく笑った。



「アストラエアを初めて抱くときは、本当にアストラエアが心から私を愛してくれたときと決めているんです。身体だけ、手に入れたって……虚しいもの。それに、何より、アストラエアを悲しませたくないんです」

「ヴェスタ……」

「言ったでしょう?悲しい想いはさせない。愛してくれなくても、側にいてくれるだけでいいって」



ヴェスタはそう笑って、また私の髪をひと房掬い、軽く口づけた。



「もう、遅いからお休み。アストラエアは何も心配しなくてもいいんだよ」



そう言って、またこちらに背を向けようとするヴェスタを、私は初めて引きとめた。



「……背を向けられるのはいや」

「じゃあ、上を向いて寝ますね」

「こちらを向いて」



そう言った私に、ヴェスタは本当に嬉しそうに笑いかけたので、私はまた胸がちくりと痛んだ。

ヴェスタの純粋さが、私には何よりも辛いよ。



***



ある時、ヴェスタにあらかじめ断って、一人で町を歩いたときのこと。

木の陰からこちらを伺っている人物がいた。

私がじっと見つめ返すと、さっと身を隠す。

私はそっと、その人物を追った。



「アストラエア様!ご無沙汰をしております!」



やがて郊外に出たとき、その人物は足を止め、こちらに駆け寄ってきた。私がスタルーリュ帝国にいたころ、よく世話をしてくれていたメイドであった。



「アストラエア様……今日は早急にお伝えしたいことが。時間がありません。あまり話し込んでいたら怪しまれます。これを」



メイドは私の手に小さな小箱を押し付けると、「ではまた」と言って馬に跨り、また元来た道を駆けて行ってしまった。私は手に残された小箱をもう一度見やってから、慌てて街の方角へ戻った。



***



私は自室に戻り、震える手で小箱を開ける。

中には美しい耳飾りが入っていた。

拍子抜けしていると、ふと違和感に気付く。小箱の外側厚さと、内側の厚さが僅かに違う。耳飾りを取り出し、小箱を耳の近くで振ってみると、僅かにかさかさと音がする。よくよく見れば、小箱の底が二重になっており、そこには小さく折りたたまれた書状が入っていた。



それは先生からの文であった。



私は辺りに人がいないことを確認してから、それをそっと開く。

それには、息災であるか、もしまだスタルーリュ帝国に戻るつもりがあるのなら、半月後の朔の日にザティス帝国を強襲する心算であるので、その混乱に紛れて戻って来い、お前は捕縛されたのであって出奔したのではなく、そのために咎めることはない、しかし戻ってくるつもりがないのなら、もう二度と会うことはないだろう、という旨が記されていた。

アストラエアの心は揺れた。

先生の元へ、スタルーリュ帝国へ帰れる。

けれど、ヴェスタは。

あんなに優しいヴェスタを、こんな女を愛してくれるヴェスタを見捨てるのか。


わからない。

何がいいのか、何が最善なのか。

わからない。

わからないよ先生。わからないよヴェスタ。

私はどうしたらいいの?




***




「アストラエア、どうしました?気分が優れないのなら、早めに休んだほうが……」

「大丈夫……なんでもないの」

「そうですか?でも……」

「なんでもないったら」



その日の夜、様子がおかしい私をヴェスタは心配そうな顔をして覗きこんでいたが、やがて意を決したように息を深く吸い込んだ。



「アストラエア!」

「きゃあっ!?」



ヴェスタはいきなり私を抱きあげると、ベッドへ私を連れていった。そして、ベッドに私を寝かせると掛布を何枚も掛け、自らは側の椅子に腰かけた。



「今日は、アストラエアだけで寝るといい。いつも私が隣にいるから……眠れるものも眠れなかったんでしょう。すまない」

「そんな……違うの、違う」

「私は、今晩はアストラエアの看病をすることにします。安心してください」



ヴェスタはそう言って、薄い掛布を一枚だけ自分に巻きつけると、にっこりと笑った。

起きあがろうとしても何度も阻止されてしまい、とうとう私は折れてしまい、大人しく寝ることにした。



「あの……ヴェスタ?」

「何です?」

「本当に、違うのよ。あなたが隣にいても、私、寝ているもの。だから、いつものように隣で寝て。風邪引いちゃうよ。ほら」



私はそう言って、掛布を少し持ち上げた。しかし、ヴェスタはいつもの笑みを浮かべて、静かに首を左右に振る。



「私はここでいい」

「でも……」

「いいんだ。私がしたくてしていることだから」



ヴェスタ。どうしてあなたはそんなに優しいの。

どうしてそんなに人に優しくなれるの?



「……ありがとう」



ヴェスタは照れたように笑って、お休み、と言った。



***



「ヴェスタ……私……あなたを愛しているわ」



朝、目が覚めると、ヴェスタは既に目覚めていた。

と言っても、まだ夢うつつを彷徨っているかのように、ぼんやりとしていたけれど。きっと、あまり眠れなかったことだろう。しかし、私が涙を浮かべながらそう言うと、たちまち覚醒したようで瞠目(どうもく)し、私を穴があくほど見つめた。その間にも私の涙は滔々(とうとう)と頬を伝う。



「……泣く程、私が嫌なんですか……?」



自嘲気味に囁くヴェスタに、私はゆるゆるとかぶりを振った。



「違うの……本当に、ヴェスタが好きなの……」



そう言った途端、ヴェスタの頬がさっと紅に上気した。口に手をやり、信じられないと言った風に目を見張っている。



「ああ……アストラエア。本当に?本当に……私を愛していると?」

「ええ、ええ……ヴェスタ。そうよ、私はあなたが好きなの。愛しているの、今までごめんなさい。本当にごめんなさい」

「ああ、ああ。夢じゃないだろうか。本当に……本当に?アストラエア?本当に?」

「そうよ、ヴェスタ……あなたが好きなの……」



私はまるで詩の一部を(そら)んじるかのように繰り返した。ヴェスタはぽろぽろと涙を零しながら、何度も何度も私に問い掛ける。そうして、半身を起こした私をきつくきつく抱き締めて──ただひたすらに抱き締めていた。



「アストラエア……愛しています。愛しています。本当に、愛しています」

「私もよ、ヴェスタ」



そうしてヴェスタと私は、初めて口づけを交わした。

その時、もう一度、私の伏せた瞳から涙が零れた。





──けれども私は、ヴェスタを裏切った。



私は、ヴェスタを愛していない。

ヴェスタは好きだ。でも、愛していないのだ。同情?憐れみ?分からない。私は私が分からない。


ヴェスタを愛せたら、どんなにか。


この人を愛し、この人に愛されることがどんなに楽か。どんなに素晴らしいか。でも、愛せない。どうしても出来ない。冷酷な人間だと、自分でも思う。ヴェスタはこんなに私を愛してくれているのに。こんなにも、こんなにも。


……ヴェスタに抱き締められながら、私の頭はどこか酷く冷静だった。

先生に、書を出さねばなるまい。








***



その日はすぐやってきた。

城に火が射かけられ、皆は混乱して逃げ惑う。そんな中、私はわざとヴェスタとはぐれることに成功した。ヴェスタが悲痛に私の名を叫ぶ声が辺りの悲鳴に溶ける。私は酷い女だ。有象無象に押しつ押されつ、揉みくちゃにされながら、ごめんなさい、ごめんなさいと何度も叫んだ。

そうしてようやく、落ち合う手筈になっていた城門の近くまで辿り着くと、そこには数人の護衛と共に私を待つ先生の姿があった。



「アストラエア!息災だったか!」

「先生……!先生、先生……!」



私は思わず先生に飛びつくと、先生も私を抱き締め返してくれた。先生のいつもの上品な香が私の鼻孔をくすぐる。先生はすぐに私を引き離すと、馬に乗るよう指示した。



「フン。帰ってからいくらでも可愛がってやる。早く脱出するぞ」

「待て!!」



そんなとき、聞きなれた声が辺りに響いて、私は戦慄していた。既に馬に跨っていた先生は、「来たか」と小さく吐き捨てると、馬から降りて声の主を見据えた。私は怖くて、馬に縋ったまま振り向けずに情けなく震えていた。護衛兵たちも声の主に一斉に武器を向ける。



「ギルバート!待て!我が妻をどうするつもりだ!!」



それを聞いた先生が、可笑しくて堪らないと言った風に高笑う。



「妻だと?」

「そうだ!アストラエア、何をしている!早くこちらへ来い!アストラエア!……アストラエア?」



ぴくりとも動かず、振り向きもしない私に、ヴェスタの訝しげな声がする。

それを見て、また、先生は大きく哄笑した。



「馬鹿め!まだ分からないか?アストラエアはスタルーリュ帝国の――私の元へ帰るのだ。アストラエア自身の意思によってな。それすら気付かないのか?いや、気付こうとしていないのか?所詮貴様もただの凡愚か」

「そんな……まさか……」

「信じられないか?そうだろうな。だが案ずるな、もう思い悩むこともないよう、ここで始末してくれる」

「やめてえっ!」



先生が丸腰のヴェスタに向かって武器を向けたとき、私は思わず叫んでいた。それにはさすがの先生も驚きを隠せないようであった。



「やめて……やめてください……私が、私が悪いんです。ごめんなさい……」

「……アストラエア……どうして………」

「ヴェスタ……ごめんなさい。私はやっぱり、スタルーリュ帝国を捨てられないの……」

「……アストラエア……愛していると……言ったのも、やはり嘘……だったんですね……」

「…………」


先生も護衛たちも、ことの成行きを見守るように沈黙している。

ヴェスタはどんな表情をしているだろう?見ることが出来ない。怒っている?憎んでいる?……悲しんでいる?


「……そう……ですか…………」

「…………」

「……ギルバート」

「……何だ」

「私を殺せ」




ヴェスタの言葉に、初めて私は顔を上げた。

ヴェスタは地に力なく跪き、沈痛で、今にも泣き出しそうな顔をしている。



「もう、生きている意味などない……それに、私が生きていれば、アストラエアは私のせいで(さいな)まれ続けるかもしれない…どうか、……どうか……殺してくれ」

「……不甲斐ない男よ。それなりに骨のある男だと思っていたが、見損なったな」



先生が吐き捨てるように言う。

ヴェスタは大泣きしている私を見ると、また、あの優しい微笑みを浮かべた。



「アストラエア、笑ってください。あなたの泣いている顔なんて見たくないんだ……すまない、悲しい思いはさせないと言ったのに……」

「ヴェスタ……ヴェスタ……ああ……あああっ………!」



私は堪らず駆けだしていた。

項垂(うなだ)れるヴェスタに駆け寄り、きつく抱き締める。



「ごめんね、ごめんねヴェスタ。ごめんなさい。本当にごめんなさい。ヴェスタ、ヴェスタ……どうしてあなたはそんなに優しいの?あなたの優しさが私には辛い。罵ってくれれば、呪ってくれれば、あなたのことを嫌いになれたかもしれないのに。あなたを嫌いになんてなれないよ。ごめんねヴェスタ。好きだよ、本当に好きなの。あああっ……ヴェスタ……ごめんね、ごめんね、ごめんね、」

「アストラエア……すみません、あなたを縛りつけて……一番優しいのはあなたです。あなたなんです……」

「違うよ、違うよおヴェスタ、私が悪いの、私が、私が、ああ………」

「……アストラエア、」



ヴェスタはそう言うと、涙でぐしゃぐしゃの私の唇に、指でそっと触れた。



「今までありがとう」



そう言うと、ヴェスタは私を突き飛ばして、火の勢いの増す城内へと消えていった。





***




「アストラエア……少しは落ち着いたか?」

「先生……すみません……ありがとうございます……」

「………無理はするな」



私が歩ける程回復するまでに、相当な時間が掛った。薬師によれば、ザティスの虜囚となった際に強い心因的な負担を与えられたのか──精神的にも身体的にも極限まで摩耗してしまったのであろうとのことであった。

先生はその間、文句ひとつ言わず、私を看病してくれた。



「アストラエア。見ろ。もう紅葉が色付いているぞ」

「本当ですね、綺麗……」

「早く元気になることだな。散ってしまうぞ」

「ふふ。そうですね」



先生は、優しい。

私が……こんな状態になる前は、何かと馬鹿だ無能だと罵られていたのだが、その中でも先生の優しさは十分伝わってきていて、私は先生に憧れ以上の感情をほのかに抱いていた。容姿端麗で、賢く、強い先生。そんな先生に親身にして頂いて、嬉しいはずなのに、何故か手放しで喜べない。喜んではいけない気がして、喜べない。何か、心に靄がかかっているかのように思い出せないことがある。それが、私を苦しめるのだ。

ザティスの虜囚となった際に、私はそんなにもひどい扱いを受けたのだろうか?

その割に、身体に傷も別にないし、少しだけ痩せた気はするけれど──病的なやつれ方もしていないのだ。

先生は、何も教えてくれない。

ただ、「何も考えず安静にしろ」と言うだけ。


私は何か大切なことを忘れているんじゃないだろうか?

私は何か大切なものを忘れているんじゃないだろうか?


わからない。

わからない。

わからないよ先生。わからないよ ―― 。

私はどうしたらいいの?



………… ?

ふと思い起こされた誰かの名前。

ん?と違和感を覚えた次の瞬間にはすでに記憶の彼方に消えてしまった。

誰の名前だろう?



答えはいつまでも経っても出て来ずに、私は静かに目を伏せた。


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