02-033 願い
◇ ◇ ◇
噛みしめるように、刻みつけるように。
ユラトはリィミの日記を読み進める。
時に笑い、時に考え込みながら、一言一言をじっくりと読み込んでいく。
そして、理解する。
「そう、か……」
リィミが本当にやりたかった事は――
ユラトは思い出す。
いつだって、どんな事だってまっすぐ本音で話すリィミだが、一つだけ教えてくれなかったことがある。
リィミが本当にやりたい事。彼女の夢。
それだけはずっと教えてくれなかった。
「人に話すとなんか叶わなくなりそだしw」とはぐらかされ続けてきた。
あれは、本当は。
どうせ言っても笑われるだけ。
きっと、そう思っていたのだろう。
リィミの本当の願い。
それは、アンドロイド達と友達になること。
まったく馬鹿げた願いだと思う。
でも、そんな願いこそ、彼女らしい。
彼女によく似合ってる。そんな気がする。
としたら――そうか。
この日記が、あの8日分の前段にあるのだとしたら。
彼女は、きっと――人に、世界に絶望したわけじゃない。
リィミは、ただただ純粋に、アンドロイド達と、友達になりたかっただけ。
そのために、アンドロイド達の気持ちを知りたかっただけ。
それを叶えるため、ユラトから学び、コミュニティに入り、アンドロイドおたく達と交流し、そして――キヤマダの手術を受けた。
最初から最後まで、リィミはずっと、ただただ真っ直ぐに、自分の願う事に突き進んでいただけ。
だからきっと、8日目の日記は――
決して人に絶望したんじゃない。
今一度、確認していたのだ。
自分が人である限り、アンドロイド達の友達にはなれない。その事を。
アンドロイドになりきって過ごす一週間を通じて、アンドロイド側の目線で人を見て。
「こんな連中とは友達になれないな」と、そう感じたのだ。
だから、人である事を捨てた。
人間をやめて、自分自身が一歩アンドロイドに近づく事で、願いを叶えようとした。
そうだ。
そもそもリィミは、世界に、人に絶望するような子じゃない。
いつでもからからと笑って、ただ自分の気持ちに素直に生きる、そういう子だ。
そんな彼女が、人に絶望して「人間やめる」なんて言い出すわけがない。
なのに、僕は――
――ああ、ナオちゃんの言う通りかもしれないな。
僕が告白しても、どうせ――
「リミリミ、多分アンドロイドになってる」
ユラトが読み終わったであろうタイミングを見計らって、ナオが静かにそう告げた。
「日記の最後、謎の文字列覚えてる?」
ユラトは頷く。
「あれは電脳の感情みたいなもの」
最後に公開された日記。
全く意味不明の文字の羅列。
世間で苦しさと恨みを込めた断末魔の叫びだとか言われているらしいあれは、人にとってはまるで意味不明の文字列だろう。
だが、違う。
電脳を持つナオだけにとっては、違う。
あれは、あの文字列は、イメージだ。
ナオがハルミをはじめ、様々なアンドロイド達とコミュニケーションする時にやりとりする、膨大なイメージの奔流の、その欠片。
なぜ、それがリィミの日記として公開されたのかはわからない。
人がそれを書く事などあり得ない。
だが、それが起こる可能性は――キヤマダが行った実験の内容を考えれば――ごく小さいながらも確かにある。
リィミの日記は、本人の体験したことや感じた事を元に、AIの支援で書かれるタイプの日記だった。
もし、リィミの脳が電脳に切り替わった時、その日記執筆AIがまだ動いていたのなら、あんな日記が書かれる可能性がある。
ナオ自身も、ハルミのメンテナンス直後に、脳のモードを切り替え忘れたままメモを取ろうとして、ナオのアシスタントAIによってあんな謎の文字列が書かれた事がある。
「あの日記には「嬉しい」って気持ちが書かれてた」
そう告げるナオの言葉に――
ユラトは全く意味が分からない、という表情をした。
それはそうだろう。
そんな突拍子もない話、はいそうですかと受け入れ、納得できるはずがない。
だが、察しのいいユラトには、わかってはいた。
ナオは決して、いい加減な事を言っているわけじゃない。
何か、理由があってそれを伝えたのだ、と。
その意味、意図を知りたくて、ユラトはナオの表情を見、また俯き、それを何度となく繰り返す。
そして――結論に至ったのだろう。
弱々しく首を何度か横に振り、
「ひどいな」
弱々しい声でそう言った。
「ひどいよ」
ユラトはナオの言葉を、慰めのでまかせかだと、そう理解した。
そうとしか、考えられなかった。
「キミがこれを信じるかどうかは自由」
そんなユラトに、ナオは静かにそう伝える。
ユラトが信じようが信じまいが、それはナオにとってはどうでもいい事だ。
どうせ人は、信じたい事を信じる。
それに――どうせ、リィミは帰っては来ないのだ。
電脳にしか出力できない内容が本人のものとして日記に書かれた以上、リィミはもうリィミとしてこの世に存在していない。
恐らく、キヤマダの実験によってリィミの脳は修復不能のダメージを負った。
そしてそれを回復不能と判断したAIたちが、献体タイプのアンドロイドとして再生した。
最後の日記のあの文字列から考えれば、その可能性が一番高い。
本来であれば、リィミのような未成年者が献体アンドロイド化される事はあり得ない。
献体アンドロイド化には、本人の同意が必要であり、その同意は成人じゃないとできない。
なのにそれが行われたのは――きっと本人の強い願いがあったからなのだろう。
それはもしかしたら、奇跡的な出来事なのかもしれない。
だが、だからと言って、それをユラトに伝えて何になる?
リィミが、リィミという一つの人格がこの世界から消えた事に変わりはない。伝えたところで、この青年の願いはもう潰えている。
ナオは、じっとユラトを見つめる。
ナオにはこれ以上、ユラトに伝える言葉はない。
必要十分な情報は伝えた。
あとはこの青年が何をどう考え、どう思うかだけ。
冷たい、と言われればそうなのだろう。
だが、それがナオという人間の考え方であり、生き方だ。
ナオは決して「察し」たりはしない。
ただただ事実に基づいて冷静に、時に冷酷に考え、正確な情報を明快に伝える事を好む。
だから、「察しのよすぎる人間は嫌い」なのだ。
だが、そんなナオの優しさは――
横にいたケイイチには、少しばかりもどかしかった。
こんなにも冷たい優しさは、今のユラトには厳しすぎる。
余計な事だと分かっていながらも、口を出さずにはいられなかった。
「先輩の言う事、信じて大丈夫です」
「余計な事は言わなくていい」
「そういうわけには……」
ケイイチの言葉に、ユラトが顔を上げ二人を見る。
「そう……なの?」
すがるような目だった。
「ケー君が言うなら、そうなのかな」
期待。
「ああ……嫌だな」
不安。
「その言葉にすがってしまいそうだ」
依存。
「そうだったら……いいな」
願い。
ユラトは二人の表情を順に見て、願った。
この二人の言う事を――少しでも信じられたら、と。
「でも、どうして君にそんな事……」
「詮索はしない。約束」
「そう、だったね……」
初対面の時からずっと変わらないナオのその態度に、ユラトは小さく笑った。
だが、察しのいいユラトは――気付いた。
恐ろしく回る頭。
年下だけど先輩だと言うケイイチの言葉と、ケイイチの行動に随所に見える、ナオに対する畏敬の念。
詮索はしない、という条件。
キヤマダと対面した時に話していた内容とその行動。
キヤマダと話すナオの首筋、隠すように覆う黒髪の隙間に、ちらりと見えたもの。
そして、その名前と、最後まで教えてもらえなかった姓。
彼女は、もしかして――
いや、そんなわけ――
でも――そうだとしたら。
としたら――
信じても、いいのだろうか。
「じゃあ……僕は……」
彼女の願いを叶える手伝いは、できたのだろうか。
できていたら、いいな。
ユラトが本当に望んでいた未来は、消えてしまった。
彼女と一緒に過ごす未来。
彼女と共に笑いあえる未来。
いや、もしかしたらナオの言った通り、あっさり振られて枕を涙で濡らす未来だったかもしれない。
でも、それでもよかった。
リィミがどこかで楽しく笑って過ごしていてくれているなら。
なのに。
そんな未来は、全て――無くなってしまった。
でも――もし。
彼女が本当に願っていた事、彼女の心からの願いに、少しでも寄り添えていたんだとしたら。
本当にそうなら。
それはきっと、嬉しい事だ。
ユラトは空を見上げた。
ビルの隙間から真っ直ぐ差し込む夕暮れの赤が、涙で歪む視界の中で、リィミのウェーブのかかった黒髪に紛れた赤メッシュのように波打っている。
少しだけ意味の変わった涙が、つうっと一筋、ユラトの頬を伝った。
そんなユラトの横顔を見ながら、ナオは思う。
優しくて、器用で、不器用なこの青年は、きっとこれからも思い悩むのだろう。
どうせ、他人の事なんて、分からない。
リィミが本当にどう思っていたのか。
日記にも、記憶にも、記録にも残っていないものを、知る事なんてできない。
人の気持ちなんて、言葉にしてもらわなくてはわからないし、言葉にしてもらったってやはりわからない。
それは、どれだけテクノロジーが進歩したって変わりはしない。
いや――人を緻密に精密に観察し続ける、AIたちだったら、もう少し色々な事がわかるのだろう。
でも、AIたちはそんなこと、教えてはくれない。
人の気持ちを考え、思い悩むのは、人間の仕事だ。
ナオは思う。
人の気持ちを想像するなんて、意味のないことだ。
相手が生きている人間ならば。
伝え合うために言葉があるのだ。
ならば気持ちを伝え合えばいい。
事実を積み重ねればいい。
でも――
相手がもうこの世にいないのなら。
伝え合う事ができない相手であるのなら。
想像し、願い、祈ること。
それは、残された人間に与えられた、救いなのかもしれない。