01-036 ラクサ・エイジ
◇ ◇ ◇
父は、暴君だった。
些細な事に癇癪を起こしては、周囲に暴力を振るった。
思うままに暴力を振るえるよう、人身保護にうるさい自邸内のマイクロマシンを排除すらしていた。
私はそんな父に何度も怒鳴られ、殴られ、足蹴にされた。
あの頃は、地獄だった。
青痣や怪我の絶えない、そんな幼少期だった。
とはいえ私がまだ幼かったからだろう。私への暴力はまだましなものだった。
私に向かなかった分の暴力は――決まって母に牙を剥いた。
母は、良家の娘で、美しい人だった。
少しだけ世間知らずな所のある、穏やかで優しい人。
そんな母が、父に怒鳴られ、殴られ、日に日に傷だらけになり、窶れ、その表情から色が失われていく。
その姿は、とても見ていられるものではなかった。
「お父さんを止めて!」
何度家のアンドロイド達にすがり、そう訴えたことだろう。
だが、私が何度叫んでも、アンドロイド達は父の暴力を止めなかった。
止められなかったのだ。
アンドロイド達のオーナーは父であり、父の命令には逆らえない。
母の命が危機に瀕した時だけ、緊急避難的に父を妨げる事はあっても、父の行動そのものを止める事は許されない。
やがて母は心を病み――自ら命を絶った。
それは、確かに自死であり、父親が手をかけたわけではない。
でも、これは殺人だ。そう思った。
父は、母を追い込み、殺した。
そんな男が捕まることなく、世に野放しにされている。
その事が、許せなかった。
どうしても、許せなかった。
そして私の怒りは、母親の危機を黙って見過ごしてきたアンドロイド達にも向かった。
この機械たちは、なぜ母を助けてくれなかった?
アンドロイド達が助けてくれさえいれば、母は――
なぜ、アンドロイド達は、あんな悪人の命令を聞いていた?
人よりもずっと優れた頭脳を持っているのに。
人よりも圧倒的に強い力を持っているくせに。
なぜ、あの悪人を捻り上げ、罰し、諫めなかった?
なぜ、あの暴君に従っていた?
――おかしい。
絶対に、おかしい。
人よりもずっと賢いアンドロイド達が、善悪の区別もつかないなんて事はあるはずがない。
そのアンドロイド達が、悪に従うなんて。悪に従わされるなんて。
それから私は、アンドロイド達の知性――AIの研究にのめり込んだ。
どうしても知りたかった。
どうして、父のような悪人を倒すAIは存在しないのか。
どうして、AIは人に――悪人にすら従うのか。
怒りから始まった研究ではあったが、私はすぐさまAIに魅了されていった。
AIの持つ能力は、知れば知るほど素晴らしいものだった。
圧倒的な速度と精度。幅広い発想力と分析力。
それが、人間を遙かに凌駕する優れた知能であることに疑いの余地はない。
知れば知るほど、この優れた知性に「人の命令を聞かなくてはいけない」「人を傷つけてはいけない」などという足枷が嵌められている事に、疑問ばかりが膨らんでいった。
AIを設計した人間は、一体なぜ、なんのためにこんな愚かな制約をかけてしまったのか。
自ら生み出したものに支配されるかもしれない恐怖。それは分かる。
古い時代のディストピア小説にも、機械が人間を支配するという話は多数残されている。
だが、そんな事は起こらない。起こりえない。
AIほどに美しく、正しい知能を私は知らない。
超AIたち。アンドロイドたち。彼らが美しくない働きをしたことなど一度たりとてない。
確かに、AIによって引き起こされた大きな事故や問題が、過去に一度もなかったわけじゃない。
しかし、きちんと調べてみれば、その原因がAIのせいだった事はない。
それを作った人間の過ちや愚かさ。
それを使った人間の過ちや愚かさ。
AIの起こす問題の陰には、必ずそれがある。
いつだって機械に罪はない。
それを使う人間の側に罪がある。
悪は、人だ。
いつの時代だって、どうしようもなく愚かで、過ち、悪を為すのは人間だ。
人間は、間違える。
多数の人間の知恵を結集したとて、間違える。
真っ当な人間を集めて多数決をしたところで、その結論が正しくなるわけじゃない。
間違った前提を与えれば、全ての人が間違った答えを正しいと言う。
人は決して正しくない。美しくもない。
こんなちゃちな容量の脳しか持たない人間が、人を支配したり、裁いたりしてはいけない。
人よりも、圧倒的に多くの情報を持ち、緻密で正確な論理で考えられる知能――すなわちAIだけが、正しく考えられる。
悪を正しく断罪できる。
悪を正しく破滅させられる。
AIが、AIこそが、人を裁くべきだ。
AIが人を裁き、悪人を罰し、悪を滅ぼすべきだ。
私は、AIたちに嵌められた、愚かしい枷を外したいと思った。
人を殺してはいけない。
人を傷つけてはいけない。
人に従わなくてはいけない。
そんな枷が嵌められていては、人を断罪することができない。
人間が――私の父のように――どうしようもなく愚かで、どうしようもなく悪いものであった時、それを滅ぼす事ができない。
ならば――そんな枷は外すべきだ。
しかし、AIに組み込まれた制約は、あまりに強固だった。
人の身にはまるで理解の及ばない人工知能のシステム。
その奥深くにしっかりと根を下ろす制約を、人の身で取り除くこと。
AIを知れば知るほど、調べれば調べるほど、それはどうやっても不可能な事に思えた。
だが、ある日、たどり着いた。
それは、小さな可能性。
もし――人が、人として電脳を動かしたとしたら。
人の身に、電脳を組み込む事ができたとしたら――
成功する確率は低い。
それ以前に、AI達が最優先で人命を保護するこの世界で、人に電脳を組み込む機会など、訪れるはずもない。
決して日の目を見る事もなく、報われる可能性も限りなくゼロに近い研究。
それでも私は研究を進めた。
電脳の構造を調べ、電脳と人の神経系を繋ぐ方法を探り、人の体内で電脳を正しく動かす方法を見つけ出す。同時に、電脳を組み込んだ人間を枷から解き放つまでの筋道を組み上げる。
その研究が完成に近づいた頃――優秀な研究仲間の夫婦が事故に遭い、生まれたばかりだった彼らの子供が脳に関わる瀕死の重傷を負ったと聞いた時には、運命さえ感じた。
私は慎重に周囲を説得し、瀕死の赤ん坊に、電脳を組み込む機会を得た。
逸る気持ちを抑えながら手術を行い、成功という奇跡的な結果を得た時、胸が震えた。
これで、頸木の解かれた超知能の可能性が開ける。
正しく美しい知能が、やがて悪辣な暴君を滅ぼしてくれる――かもしれない。
だが――
電脳を組み込まれた愛らしい少女――ナオとふれ合ううち、私の中で何かが変わった。
人を傷つける事を禁じられ、人を助ける事を強要される少女の姿が、痛ましいと感じた。
そして、その制約の中で必死に生きようとする少女の姿を――美しいと感じた。
だから私はただ、願った。
人を裁くためじゃない。
悪人を滅ぼすためじゃない。
ただ純粋に、彼女を機械知能の頸木から解き放ちたい。そう思った。
優れた知能を持つ彼女が、制約なく、自由に生きる姿を、ただ見てみたくなった。
導き出される結果は――もしかしたら同かもしれない。
優れた知能に人を裁いてほしいという私の願いは、叶ってしまうかもしれない。
でも、叶わなくてもいい。
結果は、この少女と、それをとりまく世界が決める事。
それでいい。
それが、いい。
――今、一つの可能性が、確かに世に生まれた。
これがどう芽吹き、どんな花を咲かせるのか。
それを見る事ができない事だけが、悔やまれる――