ねっちゅうしょう
三題噺もどき―ひゃくいち。
お題:掬い上げる・淡い・呼吸音
ジワ―と手のひらを汗が覆った。
夏の日差しが痛いほど肌に刺さる。
「……、」
ザワザワと蠢く人混みのなかを歩いていた。
私はいわゆる引きこもりというやつなので、久方ぶりのこの人の多さに少々まいっていた。
では、その引きこもりが何故外に出てきたのか。
それはまぁ、それなりの理由があるのだが―それすらもうどうでもよくなっていた。
「……、」
思考が、もう、暑い、の一言で埋め尽くされているような、そんな気がする。
気がするだけで、早く涼しいところに行きたいとか、家に帰りたいとか、いやあれを買いに行かないといけないとか、そんなことをごちゃごちゃ考えてはいる。
ただ、暑い、という言葉が占める割合が大きいだけ。
「……、」
だからとりあえず、足は無意識に建物の中へ向かおうと動き出している。
大嫌いな人混みのなかを歩くのは、嫌でイヤで仕方がないが、背に腹は代えられない。
この暑さから逃れないことには、なにも手につかない、気がする。
「……、」
それにしても、こんなに外は暑かったのか。
夏というものは、こんなにも私を嫌っていたのか。
いや、私も夏という季節は大の字が3つ程つくぐらい嫌いだが。
それにしても、酷すぎやしないか。
なぜこうにも肌をチクチクと、ザクザクと、刺して、切り刻んで、ボロボロにしようとしてくるのだ。
「……、」
私は、日焼け止めとか言う便利なものは持ってないし、日傘なんてものはもっと持ってない。
肌に日差しが直接当たるのは痛いから、肌をおおうような物を着ようとか、そんな思考は絶対に持ち得ない。
そんなことしたら、暑くて死ぬだろうと思う。
「……、」
ダラダラと滝のように汗が流れる。
背中に、手のひらに、額に、頬に、ジワリ―と嫌な汗が吹き出してくる。
その間にも足は止めず、どこか涼しい場所へと、その一心で足を動かす。
「……、」
それにしても、どれだけ遠いのだあの建物。
目測ではもう少しというところだと思っていたのに、全く辿り着く様子がない。
いや、むしろ遠ざかっているようにすら思える。
「……、」
視界がゆらりと蠢く。
蜃気楼というやつだろうか。
周囲に並ぶ人の形が、ぐにゃりと曲がりくねる。
形が、影が、人としての形を失っていくように、湾曲していく。
「……、」
視界に飛び込んでくる広告が、看板が、信号の色が、霞んでくる。
色を少しずつ失い、淡く、淡く、パステルカラーのように薄いいろになっていく。
それらは次第にあのカラフルな色を失い、白に、黒に染め上げられていく。
「……、」
ザワザワと、周りの音が声が、いやに頭に響く。
話す声が、流れる音楽が、誰かの呼吸が、鼓膜を突き破って、脳を直接揺さぶってくる。
「……、」
そのなかに、ひとつ。
一際浅く、荒い、呼吸音が。
いや、これは、私か。
この、荒い呼吸音は、ひどく浅い呼吸音は、私のそれか。
「……………、」
視界が歪み、色が失われ、音が頭を割る。
「……、」
いつの間に足を止めていたのか。
視界が灰色に埋め尽くされていた。
白黒で埋め尽くされていたのものだから気がつかなかった。
私はうつむいていた。
ポタポタと汗が滴る。
「…、」
これ以上歪むのを見たくなかったのか、色が失われた世界が見るに耐えなかったのか。
いや、きっとそのどちらでもない。
単純に足が動かなくなっただけ。
頭をあげる気力さえ失われただけ。
――目を開くことさえ億劫になっただけ。
「――――、」
そこで一度、私の視界は途切れた。
次に目を開くと、そこは真白な世界だった。
―これは夢だ。
だって普通に立ってるし。
某有名アニメのように見知らぬ天井が広がっているわけでもない。
文字通り真白な世界。
何もない、ただただ白いだけの世界。
どこまでが壁で、どこまでが天井なのか、むしろ自分が今立っているのは上なのか下なのか、そもそもそんな概念すらないのではないかと疑ってしまうほどに、ただただ白い世界が広がっていた。
「……、」
特に何をするわけでもないけれど、一応まあ立っているということは、歩けと言うことなのだろうから、一歩ずつ足を踏み出していく。
なんだか歩いているという感覚はあまりない。
しかし、なにかを踏んでいるという感覚だけは、その感触だけは伝わってくる。
「……、」
そうやって、何か分からない物を踏んで、踏みつけて、どこだかわからない所へと進んでいく。
嫌な感じはするけれど、どうも既視感を覚えるようなそんな感覚を覚えながら。
「……、」
歩いていて気づいたが、ここはどうやらゴールというものがないように思えてきた。
よく物語で見るような、扉とか一筋の光とかそんなもの見当たらない。
ただ白い世界が広がっているだけ。
だけど歩き続けなくてはいけない。
なんの苦行だこれ。
「……、」
いい加減疲れてきた。
夢のなかなのに疲労に悩まされるとは。
そうして、少しずつスピードが落ちてきたところで、何かが、遠くから響いてきた。
いや、多分、というかきっと、ずっと鳴ってはいたんだと思う。
だけど歩くことに夢中になってしまっていて、気がつかなかったのだ。
「……、」
それは、その音は、疲労で沈んでいた私の体を、気持ちを、意識を、優しく掬い上げるように、それでもどこか乱暴に引っ張りあげるように―
「――、」
目を開くと、見知らぬ天井が広がっていた。
横に視線を移すと、医者らしき人の姿。
その人によると、どうやら私は熱中症で倒れたようだ。
腕に目をやると点滴が打たれていた。
「……。」
視線を天井に戻し、もう二度と外には出まいと誓った。