053 親しげな担任教師と保健室登校児と(2)
提出したリルカはつつがなく受領されて、だからといってなにが起こるわけでもなく。
私はなぜか、なんとも普通に先生のわかりやすい数学の授業を受けている。
これじゃあ授業料に5,000円払っただけみたいだ。いや確かに、本来受けさせてもらえるような授業でもないんだけども。
ここにはベッドも音楽もないから彼女としたいこともすぐには思いつかないし……下手なことして、せっかくちょっとだけ近づいた気がする距離を離されてしまったら悲しいし。
悶々としながらも、先生の授業が分かりやすいせいでどうしても集中してしまう。一年の時の数学が先生だったら、もっとしっかりできるようになっていたんだろうなぁと思うくらいだ。
こんなのでは30分なんてすぐだろう。
勢いで出すべきじゃなかったなと、私はひどく後悔していた。
「―――島波。手が止まっているぞ」
「あ、はいすみません」
先生に指摘されて慌てて手を動かす。
演習問題と向き合っているうちに気が逸れていたらしい。
いけないいけない、と自分を律しようとして、ふと真横からの視線に気がつく。
「……なにもしないの?」
「えっ」
「別に、おまえの勝手だけど」
ぷいっと紙面に向き直る彼女をしばらく見つめる。
どうしたものかと先生に視線を向けると、冷ややかに見返された。
……いいん、だろうか。
確かにそもそもこのカードは私が好き勝手やってもよくなるカードのはずで、だからシステム上はいいんだけど……。
私は、恐る恐る彼女の手に手を重ねる。
左隣に座る彼女だけど、幸い左利きだから、私に近い右手はノートを抑えているだけだ。
それをきゅっと握ってみても、彼女は反応しない。少なくともつまり、拒絶はないらしい。
ぐにぐにと指をほぐして、股を侵略してみる。
やっぱり反応はない。かと思えば急に動き出して、少し煩わしそうにしながらも消しゴムをつまんでごしごしと黒を消していく。
謎の緊張が指先から胸に張り詰めていた。
なんだろう、なにか、こう、なんとも言えない感覚。
頼りないはずの棒倒しが、実は深々と奥に突き刺さって直立しているかもしれないけど、もしそうじゃなかったら多分あと一手で崩れてしまいそうな、そういうハラハラ感と繰り返しの自問自答。
「島波」
「ひゃはぉ!」
「集中できないのならそう言え。別にわざわざ授業を受ける必要はない」
「え、えと、」
それは出て行けと解釈すべきなのか、それとも、この部屋にいるからといって勉強し続ける必要はないという悪魔のごとき甘やかなささやきなのか……いやいやまさかそんな……。
がたたんっ。
と、椅子が動く。
別にわざとじゃなくてちょっと座りを直したら勝手に距離が詰まってしまったみたいな何気なさで、彼女と肩を触れる。
反応は、ない。
ドキドキしていると、彼女の手が、ふと止まる。
とんとんとシャーペンの先っぽがタップダンスして、かと思えばくるるりとブレイクダンス。
どうやら少し悩んでいるらしい。一応先輩できるくらいの学力はあるので、その悩みの理由が私には一目でわかった。といっても些細な凡ミスだ。解きなおせばすぐわかるし、そして彼女はあと数秒でその決心をつけるだろう。
―――もしこれで拒絶されたら仕方がない。
そんな、半分くらい投げやりな気持ちで、私は彼女の耳元に口を寄せた。
手を握っていないほうの指で、とん、と紙面をさす。
「ここ、符号逆になってるよ」
「ああ。ありがと」
私のどきどきとは裏腹に、あっさりと彼女はアドバイスを受け入れる。
そして消しゴムをかけようと動いて、本当に偶然、くちびるが彼女の耳に触れてしまう。
ハッとして口を押える。
ごめんとかいろんな言葉をもごもご噛んで、私はすっかり血の気が引いていた。
彼女はしばし硬直して。
それから、私を見て呆れたように笑う。
彼女の笑う顔はこういう風なのかと、ぼんやり思う。
「もっとスゴいことされると思ってた」
「えぇ、いや、だって……」
「なに。わたしに嫌われるかも、とか思ってるわけ?」
「うんと……まあ、はい……」
妙に気恥ずかしくて目線をそらすと、彼女はぷふっと噴き出した。
先生までも一緒になってくつくつと笑う。
「な、なんですかふたりとも」
「いやなに。話を聞くとあまりにも印象が違うのでな」
「え?あっ」
そういえばふたりは私の話題で盛り上がるとかいう奇特な共通点があるのだった。
とするともしかして。
「わたしにはなんか変に気つかってるのに、センセにはぐいぐい行くんでしょ?」
案の定、私の様子の違いはバレているらしい。
バレているというか、彼女に伝わっている情報は半分嘘みたいなものだったけども。
ぐいぐいって。
どっちがですか先生……。
私は溜息を吐いて、ふたりをにらむ。
「それで、ふたり同時はどうか試してみようっていう魂胆ですか……」
しかもなにか会話をするでもなく自然と。
息が合いすぎだ。そんなに盛り上がるのだろうか、私の話題って。
「あのさ、先輩」
「ぉうっ」
「なに?」
「や、急に先輩って呼ばれると萌える」
「……」
明らかに気持ち悪がられていると分かる視線だった。
先生は笑っていた。受け取りようによってはいじめですよそれ。
「……まあ、そういうキモいところもぽいっちゃぽいけど」
「ひどくない?」
「女とよろしくしたいから手当たり次第にエンコーしてるやつがなに言ってんの」
「正論は時として鈍器になるよ」
少なくとも私のハートには痛烈なダメージが入った。
顔をしかめていると、先生がスンっと真顔になる。
「島波。傷んでいるのは恐らく古傷だぞ」
泣きそう。
クズだなぁ、私……けっきょくふたりにリルカ使うとかいう後悔しか生んでないことにまた手を出してるし……ふたりはなんとなく違うから、多少の安心感があるっていうのもあるけど。
「っていうか話の腰折らないでほしい」
「はい、ごめんなさい……それで、えっと、なんでしょうか」
なんだっけ。今から罵倒されるのかな?
しょんぼりとうつむいて彼女の言葉を待っていると、むぃ、と耳をつままれた。
見上げると、彼女はわずかに頬を染めて視線をうろつかせる。
「先輩ってさ、ラインとかやってる……?」
「な、ナンパですか」
「はぁ!?なに言ってんの!」
「……貴様、指導するぞ」
「ひぇっ」
先生に指導宣言されて震え上がる。
うっかりときめくような余地も……ちょっとしかない。
それくらいに鋭い眼光だ。
死ねそう。
「いいからスマホ出して!」
「あはい、えと、はいっ」
いそいそとスマホを取り出す。
SNSアプリを要求されたので開いて友達登録する。
私がインストールしてあるやつ片っ端から。
それを終えると彼女はスマホをぎゅっと一度抱きしめて、それからなにごともなかったかのようにまたノートに向き直る。
頬の熱だけが名残となっていて、なんだかよく分からないけど、喜んでくれたならよかった……?
「さて」
戸惑っていると、先生が椅子をもって立ち上がる。
あ、逃げなきゃ。
そう思うのに、それを許さない素早さで先生は私の右側を固める。
ぐいと肩を抱かれて、先生の右手が私のシャーペンを追い出す。
しゅるりと当然のように絡んだ指の細さにまたどきりとさせられて、肩に触れる先生の胸に全身の関節が固まっていく。
「あ、のえと」
「宇津野。気持ちは分かるが慣れないうちは変に省略して書かないほうがいいぞ。見直したときに混乱する」
「そうかもですね」
困惑に困惑が重なる私をよそに、ふたりはまるでふたりきりみたいな空気感で授業を進める。
ふたりきりみたいな。
まるで、私はこの場にいないような。
それなのにどうしてか、私の胸に去来するのは疎外感ではなく。
ごくりと生唾を飲む。
『ともだち』になった彼女と、憧れの先生がそこにはいるのだ。
しかもあとわずかとはいえ、リルカの力が及んでしまう状況で。
右の手がうごめいて、先生と恋人つなぎみたいに指を絡ませあう。
うにうにと肩で先生の胸を弄んでみても、先生は身体を離さない。
それどころか、ぐ、とノートをのぞき込むようにして、もっと。
左の手が、指をほどいて、簡単に手折れてしまいそうな細い腕を伝う。
制服の裾から侵入して、ふにやかな二の腕を包む。
もいもいと堪能する柔らかな感触に陶酔して、口がからからに乾く。
「私と、友達になりたいって、思ってくれてたんだね」
彼女の耳元でささやく。
聞こえているはずなのに、感じているはずなのに、彼女は反応を示さない。
ふぅと吹いて、キスみたいな音を鳴らして、熱く吐息して、気を引こうとやっきになった。
肩を抱いていた手がするりと動いて、細い指先が唇に触れる。
それが上下の歯列を割って入るのにきっと些細な力だけでよかっただろう。
くりゅ、と、先生の指に舌先を弄ばれる。
ちゃぴちゅぷという水音と荒い吐息が彼女に全部聞かれてしまっていると思うと、どんどんとなにかイケナイ気持ちになる。さすさすふにふに、彼女の二の腕じゃもう物足りないとさえ思い始めていた。
そっと指先が、彼女の脇へと触れる。
ひやりと濡れて、すこしの起伏を感じる。
ちゃり、と指先に触れるわずかな剃り跡の心地をなでると、彼女は少し身じろぎをした。
かわいい。
ゾクゾクと指先から脳を溶かす快感に震えていると、彼女はそっと振り向いた。
グッと顔が近寄って、両の耳に吐息が触れる。
「ヘンタイ」
「無様だったぞ?島波」
30分が終わったのだと理解する。
私に触れていた熱が、私の触れていた熱が、するりと離れていく。
「はっ、ひっ、はへっ、はっ、ふっ、」
「先輩って、わたしのことそういう目で見てんだ」
ふぅん、と興味深げに細められる彼女の視線。
そういう目というのがどういう目なのかはちょっと私にはよく分からないです……。
「思春期というのは多かれ少なかれそういう側面を持つものだ。許してやれ」
「センセが煽ってる感ありましたけど」
「ついな」
つい、でひとの口を指で蹂躙したらしい人妻女教師。
正気を疑って視線を向けると、艶然と笑みで返される。
「お前が望んだことだろう」
「ぐっ……」
先生に言われると、なるほどそうなんだなあとそう思えてしまう。
確かに悪くなかったけど……いやまあ、リルカを使った時点で多分私に否定の言葉を使う資格はないのだろう。
「えっと、でも私あなたを、その、そういう目で見たから近づいた訳じゃない、ょ?」
事実だけど、客観的に見て悲しくなるほど信ぴょう性がない。
だからふしゅると萎む言葉に、彼女はまたふぅんとうなずく。
「なんでもいいけど、いい加減名前くらい呼べば」
「えっ?」
「っていうか先輩ってなんて名前なの?」
「あっ、そっか自己紹介とかしてなかったんだっけ。島波由美佳です」
「ふぅん。じゃあユミカ先輩」
「お、おぉ」
親しげがなん割か増した気がする。
私も負けじと。
「ユラギちゃん」
「なに」
「んふふ、呼んでみただけ」
「あっそ」
彼女はぷいっとノートに視線を向けてかりかりと問題を解き始める。
無性にかわいく見えるのは何故だろう。
「さて。島波のせいで中断してしまった勉強を再開するとしよう」
「私の―――せいでしたはい」
抗議の言葉は自分で噛み潰す。
リルカを出したのは私だし。
でもあんまり勉強する気分じゃないなぁ、とか思っていたら、ぎゅっと先生に肩を抱かれる。
ユラギちゃんも肩を寄せてきて、それなのにふたりともやっぱり私のことは知らんぷりだ。
もちろんとても健全なので、私は大人しく挟まっていた。
うん。ホントダヨ。




