先入観
「探偵に設定を盛りすぎている。現代ミステリにはキャラクター性が必須とはいえ、これは明らかにやりすぎだ。リアリティ無視も甚だしい。文章も軽すぎる。小説の文章というものには、カジュアルな作風だとしても、最低限の枠組み、重みというものは絶対に必要とされる。そして何より、このトリックはいただけない。いくらトリックのアレンジは許容されているとはいえ、私はこれと同じ構造のトリックを使用したものを三作品は読んだことがある。しかも全員別の作家の作品でだ。そのうちの一作は、すでに古典と呼ばれているような有名作だぞ。どんなに凄いトリックを考えたと思っていても、必ず前例はあるものと決めてかかれ、といつも言っているだろう。だから、ことミステリ作家というものは、他のジャンルの作家以上に他の書き手の作品を多く読み込む必要がある。ミステリ作家にとっては読むことも仕事のうちだというのはそういうことだ」
ミステリ作家の枝塗は、テーブルに置かれた原稿の束を対面に座る有海に向けて押しやる。有海は一礼して、突き返された自分の原稿を手に取ると立ち上がり、「失礼します」ともう一度頭を下げてから部屋――枝塗の書斎――を出て行った。
椅子に深く腰をかけなおして深い息を吐くと、枝塗は煙草を咥えて火を点けた。
書斎の扉越しに、遠ざかっていく有海の足音が聞こえる。少し言い過ぎただろうか、という思いが枝塗の頭をよぎったが、それはすぐに振り払われた。今、彼は――弟子といえども――他人のことにかまけている心の余裕はないのだった。
枝塗は自分の書き物机に乗せてある紙の束を見やった。先日脱稿したばかりの彼自身の原稿。誤字脱字のチェックを含めた推敲もすでに完了しており、あとはこれ――印刷した紙の原稿自体ではもちろんなく、ワープロソフトで打った文書データ――を編集者に送るだけだ。だが……。枝塗は深く息を吸って、煙草の先端数ミリを一気に灰に変えると、ため息と一緒に紫煙を吐き出した。もう一度枝塗は積まれた紙を見やり、心で呟いた。
これは果たして、本当に面白いのだろうか?
枝塗は数十年前、ミステリ小説公募の新人賞を射止め、文壇デビューを果たした。以来、彼はミステリ界のヒットメーカーとして、業界の先頭を常にひた走る存在となってきた。
応募状態からほぼ手直しなしで出版されたデビュー作が異例の大ヒットを記録したことは枝塗の大きな自信となり、彼は、他人の意見、アドバイスを一切取り入れない姿勢を一貫することとなった。事実、枝塗の作品は彼が書いたままで出版され、そのことごとくがヒット作となった。ただ一度だけ、業界の政治的なしがらみから、枝塗自身の思惑とは違う方向に内容を修正された作品が発表されたことがあったが、その一作は枝塗の著作群の中で最低の売り上げ記録を残してしまった。この結果は彼の意思をより強固なものとすることになり、以来、大御所と呼ばれる作家といえど枝塗に意見できるものは誰もいなくなり、月日が経って気がつけば、枝塗自身が業界最大の大御所として君臨する時代となっていた。
他人の意見を作品に反映させないこととは別に、自作の感想を周囲に求めることは枝塗は積極的に行っていた。編集者、作家、書評家、作品を読んだ誰もが「面白い」と異口同音に述べた。刊行後の読者の意見も好意的なものが大半を占めていた。枝塗はそれらを聞いて満足し、次なる新作への意欲としてきた。しかし……。
最近になって枝塗は、ある思いを抱えるようになった。きっかけは、ジャンル違いのある大御所作家の新作を読んだときのことだった。枝塗の目にそれは、確かに面白いことは面白いが、その作家のかつての傑作群が内包していた「情熱」や「個性」といったものが明らかに削がれた、「これをテーマに誰が書いてもこうなる」とでも言うような底の浅い凡作――言葉が悪ければ、完全守りに入った「安パイ」としか読めない代物にしか映らなかった。しかし、枝塗の感想に反して、世間ではその作品は「傑作」としてもてはやされた。他の作家や読者たちの、好意的な書評や感想を活字やネットで見るにつけ、これはいわゆる「刷り込み」というやつではないのか? と枝塗は思うようになった。
「この作家の著作だから面白くて当たり前」そういう先入観、色眼鏡で作品を読んでしまっている。とはいえ、それが誰の目にも明らかな駄作であったなら、「いよいよ先生も焼きが回ったな」という評価が下されていただろうが、そこは熟練の技。その作家は老獪な筆致でもって、かつて内包していた情熱や個性の代替とし、いかにも「変わらぬ傑作」然として見せていたのだった。
物書きのプロではない読者はまだしも、編集者や作家、書評家の中には自分と同じ感想を持ったものがいてもよいのではないか? いや、必ずいたはずだ。しかし……。挙げ足取りな素人のアンチ的言いがかりは問題外として、プロの作家、書評家らの口、筆から、その作品に対する批判の声はついぞ聞かれることはなかった。その作品は映画化もされた。枝塗も鑑賞し、原作の浅さを俳優の熱演が補うことで、なかなかに見られるフィルムに仕上がったなという感想を持ったのだが、あにはからんや――いや、予想どおりにというべきか、映画に対する世間の評価は、「原作には遠く及ばない」という、この手の原作付き映画お決まりのものに定着した。
枝塗は考えた。
自分の作品も、自分自身の持つ実績、権威といった先入観でもって読まれてしまうため、誰も正常な判断が出来なくなっているのではないか?
または、こうも思う。
本当はつまらなくとも、大御所作家の作品という手前上、気を遣われているだけではないのか?
枝塗は身震いした。自分はあまりにも権威を持ちすぎてしまった。今さら他の作家や書評家たちに「本当に忌憚のない意見を聞かせて欲しい」と懇願したところで、彼らは絶対に自分への忖度なしに批評はできないだろう。作家としての宝ともいえる、著作に対する正当な批判というものを得られない立場となってしまった。書くものすべてが万人から無条件で絶賛される。そんな作家などいるわけがない……。
自分の作品を正当に批評してもらいたい。
それを可能とするには、自分のことをまったく知らない人間に自作を読んでもらうしかない。活字離れが叫ばれて久しい昨今、生まれてからこの方、自分の著作どころか本を一冊も読んでいない人間など、この国にはごまんといるだろう。だが、それでは駄目だ。まったくの素人ではなく、古今東西のミステリに精通し、冷静な批評眼も持ち合わせている人間の批評でなければいけない。枝塗が必要としているのは、「面白かったです」で終わるような中身ゼロの感想などではないのだ。そう考えれば考えるほど枝塗の望みは遠ざかった。ミステリ小説を正当に批評できる人間で、自分の名を知らない、すなわち一切の忖度を行わずに枝塗の作品を批評できる人間など、もはや存在しない。
過去に枝塗は、脱稿直後の自作を「弟子が書いた作品だ」と偽って批評家や他の作家に読ませようと試みたことがあったが、失敗に終わった。良くも悪くも、枝塗の書く文章には確固たる文体や癖のようなものが染みついてしまっている。優れた批評家や作家であればあるほど、どんなに偽ろうが、それを枝塗の著作だと見破ってしまうのだ。
そこで枝塗は、ふと、ある男のことを思い出した。脳科学をテーマにした作品を書くにあたり取材させてもらった専門家のひとりだが、大学や医院などに在籍してはおらず、個人で研究を行っているという、正直に言えば怪しい人物だった。だが、枝塗は不思議とその男の話を面白く聞いた。あまりに荒唐無稽すぎたため、その話を作品に取り入れることは結局なかったが、妙に印象に残る人物だった。その男が話の中で、こんなことを口にしていたのを枝塗は憶えていた。
「人間の記憶を操作する研究を行っている」
これだ、と枝塗は思った。枝塗は、ミステリを最も的確、適切に読み解き、批評することの出来る人間がいるとすれば、それは自分だと常に思っていた。業界の重鎮という立場上、自分の批評が作品に与える影響を考慮して、これまで枝塗は実際に批評を書くことはなかったが。
枝塗の考えはこうだ。その男に頼み、自分の頭から自作に関する記憶をすべて消してもらう。そのうえで自分の著作を読むのだ。枝塗の気持ちは高揚した。恐らくこれは、古今東西、あらゆる作家が「やってみたい」と夢見てきたことなのではないだろうか。枝塗はさっそく男に連絡を取った。
電話口に聞こえる男の声は、取材時に聞いたときの記憶同様、若いとも中年とも取れる、回線越しに冷たさまで伝わってくるかのような、知的だが冷静な声だった。枝塗が自分の考えを話し終えると、
『恐らく、可能でしょう』
トーンの変わらない知的な声が返ってきた。
男は、研究が完成したら、枝塗の自宅に必要なものを郵送すると告げて電話を切った。
それから一週間後、枝塗のもとに段ボール箱に詰め込まれた一式の機材が届いた。その内訳は、パソコンにインストールするソフトが記録されたメモリ、頭に取り付ける樹脂製のバンドのようなもの、そのバンドをパソコンと接続するためのコード、というものだった。説明書の類いは付属していなかったため、枝塗は再び男に電話をした。
『無事届きましたか』
「ああ、ありがとう。それで、使い方を教えて欲しい」
『先生も著作はすべてワープロソフトで執筆されていますよね』
「ああ、今どき肉筆で書く作家はいないよ」
『でしたら簡単です。ご自身のパソコンに、同封したメモリに入っているソフトをインストールしたら、そこに著作のデジタルデータをどんどん放り込んで下さい。データを入れ終えたら、バンドを頭に巻いて、パソコン上に表示されるガイダンスに沿って操作をすれば完了です。入力したテキストデータに関する記憶が一時的に封印されます』
「封印?」
『そうです、記憶を消すのではなく、あくまで封印、つまり一時的に忘れてもらうわけです。そもそも、人間の記憶というものを完全に消し去ることは出来ません。どんなに忘れたと思っていたことでも、ふとしたきっかけで記憶が蘇ったといった経験を、先生もお持ちではないですか? 要は、それの逆をやろうというわけです。ソフトに入力されたテキスト、つまり本の内容に対して共通の紐付けをしてですね、あるきっかけとなる波長を脳に与えることで、紐付けされた記憶を一時的に封印するのです。つまり、ふとしたきっかけで記憶が消える、という状態を作りだそうというわけです』
「なるほどな……。ということは、記憶から消したい作品のデータだけを入れれば済むということなのかな?」
『いえ、先生の著作すべてを入力することをおすすめします』
「すべて?」
『そうです。なにせ、枝塗先生の著作は独特の文体で書かれていますから、一作や二作だけの記憶をなくして、それを読み直したとしても、他の著作のことを憶えている限り、ああ、これは自分が書いたものだな、とすぐに察してしまうはずですので』
「それは、そうかもな」
『はい、先生の頭の中からは、ご自身が書くものに対する、文章そのものはもちろん、文体の癖のようなものまで、すべてを消し去っていただいたほうがよろしいかと』
「なるほど……」
『先生のご期待に添えるような結果になることを祈っています』
その言葉を最後に、一方的に通話は切れた。
とにかく、やってみるしかない。ガイダンスが表示されると聞いても、枝塗はこういったパソコン関係には明るくないため、ソフトのインストールや機材の設置、原稿データの入力などは、すべて弟子の有海に任せることにした。作業完了までには一時間程度かかりそうだということで、その間枝塗はリビングで一服しながら待つことにした。
すべての準備が整い、枝塗は書斎に戻った。入力されたデータの中には当然、脱稿した直後だった最新作も含まれている。頭部にバンドを巻き、有海がパソコンを操作すると、入力されたテキストデータの記憶を消去するための波長が、バンドを通して枝塗の脳に送られた。次の瞬間、枝塗は、これまで感じたことのない感覚を味わった。
自分の作品に関する、あらゆることを忘れている――いや、思い出せない!
自分が作家で、これまで何十冊もミステリを上梓してきたという事実は憶えているが、それらがどんな作品だったかということを、見事に思い出せなくなっていたのだ。枝塗は震えた。この状態なら、自分の書いた作品でも、完全に客観的な目で読み、評価を下すことが出来る!
枝塗はまっさきに、脱稿したばかりのあの作品を読むと決めていた。有海が差し出した原稿を、枝塗は引ったくるように受け取ると、緊張の面持ちで目を通した。
……面白い! 枝塗は興奮した。掛け値なしに面白い! 個性的な探偵、独特で軽快な文章、トリックも素晴らしい。既存のトリックを大胆かつ独創的にアレンジしており、トリックだけが作品から乖離することもなく、ストーリーに見事に融合している。
原稿を読破した枝塗は、美味い煙草を味わいながら大いに奮い立った。これなら自分の新作として世に出すことに、いささかの不安もない。批評家、読者たちが口々に絶賛の言葉を浴びせる様子が目に浮かぶ。完全に自信を取り戻した枝塗は、記憶を元に戻す作業をやらせるため、再び有海を呼びつけた。書斎に入ってきた有海は、開口一番、こう言った。
「読み直していただけました? 私の小説」