物語の「テーマ」ってみんな簡単に言うけど、結構難しくない?
物語には「テーマ」が必要だ、などとよく言われる。
僕はこの「テーマ」というのが何なのか、いまいちよく分かっていなかったのだが、ぐるぐると回り道をした結果、それが一体どういうものなのか、ようやく見えてきた気がする。
そもそも「テーマ」の何が分からなかったのか、という話なのだが、これは「モチーフ」とか「メッセージ」とか呼ばれるものと「テーマ」とは何が違うのか、というのがいまいちイメージできなかったという答えになる。
じゃあ今はどうイメージできるようになったのか。
僕は「テーマ」とは、作品全体が持つ「価値観」であり、「正義」であると認識するようになった。
「価値観」や「正義」とは何か。
これはその作品の作中において、望ましいとされる考え方なりあり方のことだ。
そしてこれは通常、「作者が持つ価値観」とイコールになりがちである。
例えば、「人を殺すのは良くないことで、それは何があっても絶対にやってはならないことだ」という理念を持つ作者が、異世界転移/転生モノのファンタジー作品を書いたとする。
さて、この作品の主人公は、旅の途中で山賊に襲われたとき、あるいは戦争に参加して敵の軍隊と戦うことになったときに、自らの敵対者たちを殺すだろうか?
多くの場合、殺さないだろう。
主人公が敵対者を殺してしまうと、その主人公のあり方は、その作者の価値観に照らし合わせれば「悪」となってしまう。
また、もし殺したとしても、その主人公のあり方は「そうあるべきでないもの」として描かれるだろう。
主人公はその後の物語で、殺人を犯したことに苦悩し葛藤し、それが彼の人生に常につきまとう烙印になるかもしれない。
あるいは、主人公そのものを悪として描く作品として、物語の最後に主人公は制裁を受けることになるかもしれない。
だが一方、その作品の作者が「救いようのない悪党は殺されて当然」だとか、「世の中は常に弱肉強食。強者に刃を向けた弱者が殺されるのは当然のこと」という理念を持っていた場合、どうだろうか?
おそらくその作品の主人公は、何のためらいもなく悪党なり敵対者なりを殺すだろうし、そのことに関して思い悩んだりすることもないだろう。
このように、作者の持つ価値観や正義のあり方というものは、作品の中身に自然とにじみ出ることになる。
読者がその作品を読んでいて面白い、心地いいと感じるかどうかは、作者の価値観と読者の価値観が一致するかどうかによるところが、かなり大きいのではないかと思う。
で、これを作者の持つ価値観や理念から離れて、あるいはそれに沿って、恣意的に作中の正義として盛り込んだものが、物語の「テーマ」である、と僕は考えた。
例えば、『るろうに剣心』という作品において、「不殺」という価値観は、この物語のテーマであると言って良いだろう。
これは作者の和月伸広先生が、「不殺」の理念を絶対に正しいものであると考えているかどうかとは、一線を引く必要がある。
ただ『るろうに剣心』という作品の中では、「不殺」は「そうあるべき姿」として描かれるし、物語は帰結として必ずそこに着地する。
剣心は、物語を通して「やっぱり不殺とか現実的じゃないよね」という結論を得て人斬りに戻ることはないし、物語の筋はそうあってはならない。
実際には、いついかなる時でも「不殺」の精神を貫くことが正しいのかどうかに関しては、議論の分かれるところだろう。
だから『るろうに剣心』という作品が「不殺」を正義として描くのは、現実でもそれが正しいということではなく、あくまでも作品の「テーマ」として、「それを作品中の正義として置いた」ということに過ぎない。
ただ、ここで僕の中に、一抹の迷いが出てくる。
果たして『るろうに剣心』において「不殺」は本当に「作中の正義」であるのかどうか、ということだ。
これは何かというと、みんなが大好きな、あの人の存在である。
「悪・即・斬」を正義として持つ、斎藤一が作中に登場することにある。
当然ながら、この斎藤一というキャラクターは、「不殺」の理念を持つ剣心の、対となる存在である。
「悪は殺してもいい」とかいう中途半端で後ろ向きな正当化じゃなく、「悪は殺す」という積極性を持った、何ともまあとんでもないヤツである。
ただ、この斎藤一というキャラクターに好感を抱いている読者は、非常に多いのではないだろうか。
一本芯の入った信念を持つ彼のことを「カッコイイ」と感じる人は多いと思う。
そう。
斎藤一は、読者がほれ込む「カッコイイ存在」として、この『るろうに剣心』という作品の作中で描かれているのである。
これは当然、和月先生が意図的に「そのように」描いているのだろう。
もし「不殺」が『るろうに剣心』という作品の作中における絶対正義として描かれるのであれば、斎藤一は不正義として、「カッコ悪い存在」として描かれなければならない。
この場合、斎藤一はみすぼらしく無様に剣心に倒され、あるいはすぐに改心するような存在として描かれるだろう。
この点を見ると、『るろうに剣心』という作品は「不殺」を作中における絶対正義としては置いていないことが分かる。
だから、もし『るろうに剣心』という作品が「不殺」をテーマとするものであるとするならば、僕が冒頭で言った「テーマ」=「作中の価値観・正義」という定義づけが、そもそも間違いだという見方にもなるだろう。
ちょっとこの点はまだ、僕の中で結論が出ていない。
もう一歩、というところまでは来ていると思うのだが。
あるいはひょっとすると、『るろうに剣心』という作品の本当のテーマは、「信念」であるのかもしれない。
あの作品は、それがいかなるものであれ、「信念」を持つ者はカッコイイ存在として描かれているのだから。
ちなみに「テーマ」には、それそのものが持つ力の大きさというものがあると思う。
力強いテーマと、いまいち力のないテーマとがある。
これはテーマそのものがもつカッコ良さや、納得感といったものになると思う。
例えば「信念を持った人」のカッコ良さと、「迷い続け、考え続ける人」のカッコ良さ、どちらがより多くの読者の共感を得るかというような話になる。
今回書籍化させてもらうことになり、内容を再構築するにあたってWeb版を書いていた際にはまったく意識していなかった一本のテーマが奇跡的に浮かび上がり、書籍版の作中を通す一つの筋となった気がしているのだけど、ただいかんせん少し、「テーマ」そのものが持つ力が弱いのかななどと思ったりもしている。
「テーマ」は特異なものよりも、普遍的なもののほうが良いと言われたりもする。
その作品の「テーマ」が普遍的なものであればあるほど、より多くの人に、その物語がたどり着く帰結を心地いい、すっきりする、納得するものとして受け取ってもらえる。
それは多くの読者が、その物語の結末に満足するという結果に繋がるのだと思う。