lonely
少女、アリソンは今日も男の帰りを待つ。
彼とのわだかまりが消えてから、アリソンはオスカーの帰りを必ず起きて待っているようになった。彼に向けていた憎しみが愛しさにかわってからずいぶんたつ。彼らは今も共に生きている。ほんものの家族になれたのだ。
「おそい……」
空から降る白いものは雪というらしい。オスカーが教えてくれた。身も凍えるような寒さに羽織っていた毛布の上から腕をさする。オスカーがいつまでたっても帰ってこないから全然暖まらない。数日前に越してきたこの地域は、いわゆる極寒の地というもので、一日中雪が降っている。森を抜けてすぐの場所に建てられた山小屋で暖をとっているのだが、煤けた暖炉は元気がなく、あまり暖かくない。よわよわしくひかるオレンジ色の炎がアリソンの心をうつしているようだった。
「ひとりで寝てもつめたいし」
ぽそりと愚痴をこぼしてみた。小さな山小屋に響く小さな声。オスカーの困ったような笑い声が聞こえない。それだけでマッチの火がふっと消えるみたいに心が暗くなる。なにもいらないから、ただ彼に帰ってきてほしい。彼に冷たい態度をとっていたときは、彼がいようといまいとなにも変わらなかったし、こんなにさみしい気持ちにもならなかった。心細いとかではないのだが、なんだか影がさしている。
ふと外でカタリと音がした。オスカーが帰ってきた! 咄嗟にそう思い、古びて腐りかけた木の扉に駆け寄る。勢いよく扉を押すと、そこに立っていたのは真っ黒な長身の男ではなくて――
「あら、こんばんわ。げんきねぇ、こぉんなにサムイのに」
ついかたまってしまった。凍りづけされたみたいに。
プラチナブロンドの髪に純白の肌。しなやかな指を顔に添えて、女性はくすりと笑う。
見たことのない美しい女性が目の前に立っていた。藤色の瞳は細長く、射るようにアリソンを見ている。射止めれたアリソンはその場から動くことができなかった。足が凍ったように動かない。瞳は目の前の女性に目を釘付けになっている。ふつうではない。自分の中の人間ではないなにかの感覚が危険を知らせていた。
アリソンは意を決したように唇を引き結び、口を開いた。
「あの、どちらさまですか」
おずおずと尋ねると女性はきょとんとした後、薄い唇を引き結んで猫なで声で言った。
「うーんと、そうねぇ、昔の名前は忘れちゃったわ。いまはネーヴェって呼ばれたいかしら」
「ネーヴェ、さん」
「はぁい?」
顔に貼りついたような笑顔が恐ろしい。口角はあがっているし、眼も細められているけれど、笑っていない。血の通ったような色ではない肌と、不健康な身体の細さに背筋が凍った。足が震える。これは極寒の寒さからくるものではない。自分より強いものと対峙したときの震え。アリソンにはオスカーのような大きな手も長い爪もない。逃げ出したいが手も足も動かない。魔法で身体を凍らされたみたいに一ミリも動かすことができないのだ。
「かわいそうな子。ワタシがいっしょにいてあげる」
そう言って彼女は、アリソンをそっと抱き寄せた。彼女の身体から舞い上がった雪の結晶が宙を舞う。結晶が空気中に溶けるように、アリソンの意識もふっと消えてしまった。
目がさめると、そこは氷の世界だった。アリソンが寝ていたのは翠色の結晶でできた寝椅子。床に足をつけてみるとひんやりと冷たい。まわりにはなにもないが、上を見上げると頭上に浮かぶシャンデリアが一際輝いているのがわかった。氷でできたそれから、はらはらと白い光の粒がふってくる。それが砂時計の砂のようでとても綺麗だった。
あまりに美しい世界に見惚れていたが、どうやらあの不思議な女性に連れ去られたらしい。遅ればせながら状況を把握した。
「ここはどこだろう……」
「ここはワタシのお城よ」
凛とした声がするほうをみると、頭の上にガラスのような透明な氷でできたティアラを乗せたネーヴェが立っていた。つま先が隠れるくらいロングなドレスに身をまとった彼女は、ゆっくりとアリソンの前まで歩んでくる。真雪のように白いドレスからは彼女が歩むたびに鱗粉のように氷晶が舞っていた。
「帰してください。約束したんです、待ってるって。きっと心配してる……」
「……そうかしら?」
彼女は言った。凍てつく冬の風のように鋭く冷たい声で。
「約束? そんなかたちのみえないものを信じているの? やぶられて傷つくだけよ」
苦しそうな顔、声。ネーヴェの美しい顔が歪む。
「どんなに待っても帰ってこないわ、帰ってこなかったもの。ねぇ、そうでしょう!?」
ネーヴェはいままでにないほど声を荒げて言った。彼女の周りを氷晶が舞う。アリソンは足を滑らせて床に倒れた。強く打ち付けた膝が痛い。
「……っ」
「でもだいじょうぶよかわいそうな子。ワタシが一緒にいてあげるわ」
ネーヴェはかかんで、はじめてあったときと同じようにアリソンの頬をするりと撫でた。そして形のいい唇の下に人差し指を添えて、鈴のような可愛くて優しい声で言った。
「あなたもワタシと同じね、だいじょうぶ、ここにはみんながいるわ、ほらみて」
ネーヴェは奥の扉を手をかざしただけで開ける。奥の部屋は暗かったが、ネーヴェがパチンと指を鳴らすとぽっと翡翠色の明かりが灯った。アリソンが目をこらすとそこに映っていたのは、氷漬けにされた子供たちだった。
「ひっ……」
「かわいいでしょう?みんな寒くてさみしくて凍えていたの。一人ぼっちで家の中でだれかを待っていたのね、でも誰も帰ってこなかった。だからわたしが連れてきてあげたの」
「もしかしてわたしも?」
ネーヴェは出会ったときと同じ笑顔を彼女に向ける。彼女の藤色の瞳は爛々と光り、猫の様な吊目がじっとりとアリソンの瞳に映った。
「ええ、さみしかったでしょう?ここにいればあなたはひとりじゃないわ。一緒に暮らしましょう」
パキパキと彼女の指が鳴る。細く長い指がアリソンを手招きするように動き、彼女の体から氷点下の雪の結晶が宙を舞う。わたしの中の吸血鬼の血が逃げろ、と騒いでいる。氷漬けにされてしまう。それだけはいやだ。それでもアリソンの足は震え、上手く逃げられそうにない。もう少しで彼女の手がアリソンの髪に触れる、その瞬間だった。
「それは困るな、アリソンはぼくと一緒に暮らすんだから」
聞き慣れた声に咄嗟につぶった目を開けると、オスカーがアリソンを背にかばうように立っていた。
「オスカー!」
「けがはない?アリソン」
「うん」
すらっとした手足に綺麗な背筋のみえる細い背中。腰まである長い髪。ああ、オスカーだと確信する。
「よかった。ここはとても寒いね、きみのおうちだからかな、雪の女王」
オスカーがその名を口にすると、アリソンの中でパズルがぴったりはまったような感覚がした。頭上に光る氷のティアラ。真雪のドレス。そしてこの大きな氷のお城。そう、この女性は雪の女王だったのだ。
「寒さを感じないようにしてあげる」
雪の女王は猫のように目を細めて笑うと、両手を広げた。地響きのような音がして地面がひびがはいる。彼女がつくった城だ。自由自在に操れるのだろう。アリソンはとっさにオスカーの腕にしがみついた。
「お嬢ちゃん、こっちへいらっしゃい」
女王は猫なで声でアリソンを呼ぶ。彼女だけは助けたいようだった。しかし言葉と裏腹に地面のひびはアリソンたちにむかって伝わってくる。
「やめて! ……ねぇ、どうしてそんなことするの?」
アリソンは自ら地面のひび割れに近づき、ネーヴェに向かって叫んだ。ネーヴェは魔法を止めて、アリソンの肩をそっと掴む。オスカーが「やめろ!」と叫ぶが、今のネーヴェにはアリソンに危害を加える気配はなかった。
「そんなことって?」
女王は優しく問う。
「子どもたちを氷漬けにして、」
「あら、ワタシはあの子達がさみしくないようにこのお城に連れてきただけよ?」
「さみしそうだったの?」
「ええ、ひとりで震えていたわ。あなたもそうでしょう? かわいそうに、」
憐れみのような表情を向け、女王はアリソンの赤い髪を撫でる。アリソンは髪の上からネーヴェの手の感触を感じたが、体温こそ冷たいものの、ネーヴェのそれはとてもやさしくあたたかい人間の手をしていた。この人は悪い人じゃない。勘違いをしているだけだ。そう確信した。
「わたし、かわいそうじゃないよ」
「え……?」
「さみしかったけど、かわいそうなんかじゃない」
アリソンはネーヴェの瞳をみて言った。彼女にこの言葉が届くように。
「待ってる時間も楽しいよ。帰ってきたら今日1日あったことを話すんだけど、これは話さなきゃとか、こんないやなことがあったんだよって聞いてほしい話をするの。オスカーはそれをいつも困った顔で聞いてくれる。なによりドア開けたときの顔を想像するのが楽しいの」
ネーヴェの瞳から一筋、涙が頬を伝う。
「雪をかぶって寒そうな顔とか、へとへとにつかれた顔とか。いいことがあって笑ってるときもあるなぁ」
「そういうのをね、想像しながら待つの。まだかなぁ、まだかなぁって。退屈だし、寒いしひとりは怖いけど……その時間、わたしは好きだよ」
アリソンは目の前でぼろぼろ泣きだす氷のお城のお姫さまを抱きしめた。この人は女王なんかじゃない。彼女をまとう雪の魔法がゆっくりゆっくり溶けていく。彼女の涙は彼女自身の冷たく凍った心を溶かした。
「ごめんなさい。あの日の夜、ずっと帰りを待つあなたを、自分と重ねちゃったの」
ネーヴェは過去にひとりの男の子の帰りをずっと待っていたそうだ。銀色に染まる雪原を見つめる朝も、雪が静かに降る夜も。だけど彼は帰ってこなかった。その悲しさから女王となり、氷の城をつくり閉じこもっていたらしい。
「さみしかったの」
ネーヴェは目と鼻を赤くして、ぽそりと呟いた。彼女から溢れる小さな氷晶が涙で溶けていく。ネーヴェは茶髪が良く似合うショートカットの女の子だった。銀色の髪をした美しい大人の女性ではなく、鼻の上のそばかすが可愛らしい、アリソンと変わらないくらいのいたいけな少女だった。
オスカーのマントにすっぽりおさまる小さな体で、彼女はどのくらいの時間を独りで過ごしたのだろう。凍えそうで風の強い真夜中をずっとひとりで、
友だちがほしかった。
かつて雪の女王だった少女の一言にアリソンは思いたつ。
「じゃあ、わたしが毎日会いに来るよ」
「えっ」
「いいでしょオスカー?」
「いいでしょって言われても」
オスカーはアリソンが大好きな困り顔をした。アリソンの笑みが一層深くなる。
「だってここにはまだしばらくいるでしょう? ひとりはさみしいもん。ね?」
アリソンがネーヴェのやわらかな髪を撫でると彼女の頬に火が灯る。
「お願い!」
ネーヴェもオスカーをそっと見つめるので、オスカーは折れるしかなかった。そんな無垢な瞳を向けられると応えるしかない。オスカーはつくづく優しい男である。
「……しょーがないなあ」
「やったー!」
「いいの? アリソン」
まゆをへの字にして茶髪の少女が尋ねる。赤髪の少女は太陽のようにまぶしい光り輝く笑顔を見せた。
「冬のお留守番ってひとり退屈だもん。ふたりで待ったほうが楽しいでしょう?」
赤髪の少女がもうひとりの少女の手を握る。かつて雪の女王だった少女の手は暖炉の灯のようにとてもやさしくあたたかい。
「うん、そうね!」
もうひとりも手を握り返し、ふたりのいたいけな少女は身を寄せ合って笑った。