『し』②
俺はあの日、確かに闇を見たのだ。でも、最初は空中楼閣に過ぎないのかもしれないと思っていた。小学校低学年の、特に男の子はよく妄想する。その妄想の一種なのかもしれないと思ったのだ。
しかし、おばあちゃんの件から数年たったある日。それは根拠の無い架空の事物から、根拠の無い現実の事物に変わった。
俺はとある駅にいた。その時は昼頃で太陽も明るい時間だ。俺の服はびちゃびちゃに濡れていたが、それでも体は暖かった。
駅には殆んど人はいなかった。いや、案外いたのかもしれないが。
俺はホームの端の方で電車を待っていると、何やら寒気を感じた。悪寒だ。すぐにそっちの方を見てみようと思った。しかし、恐くてそっちの方を見ることができなかった。恐怖。
しかし、恐くても万が一、いや十が一の事を考えると俺は見るしかなかった。
俺は勇気を出して悪寒を感じる方を見てみると、案の定そこにはいたのだ。痩せ細った中年と、その後ろに暗闇が。「し」が。
痩せ細った中年も俺と同じくホームの端の方で電車を待っているのだろう。どうやら、中年男性は「し」に気付いていないらしい。暗闇は、いや、「し」は後ろで顔の半分まで口を裂いて笑っている。口が無いのに。
暗闇はノロノロと中年の後ろで何かをしようとしている。
俺はつい「あの……」と声が出てしまった。中年男性はコッチを振り向くと、「何か」と普通の人では考えられないくらいの闇を感じた。その顔は蒼白く、そして暗い。
「いえ……何でもありません……」
「そうですか……スイマセン」
中年男性は俺に謝ってきた。
「いえ、こちらこそスイマセン」
『二番線に電車が参ります。危ないですので、黄色い線からお下がりください』とアナウンスが入った。
ガタンゴトンと電車が走る音が聞こえてきた。
「闇って恐いですよね。まぁ……もう……見えないですが」
突然中年男性は俺に言ってきた。俺にはそれが何を意味するのか分からなかった。いや、もしかしたらそれは幻聴なのかもしれない。もしくは、記憶の改変。とりあえず、そんな事を中年男性は言っていたような気がしたのだ。
次の瞬間、闇は中年男性を勢いよく押した。推したのだ。
中年男性はぐちゃぐちゃになり、血が飛び散った。
それを見た俺は唖然とした。暗闇はコッチを見た。俺と目があった。刹那、俺は全速力でその場から逃げ出した。
ホームの真ん中辺りまで走り、回りに何人か人がいるのを確認してから、後ろを振り返った。
しかし、そこには赤い水溜まりと赤い塊しか無かった。
俺は家に無事に帰った途端にベッドに潜り込んだ。
「こわい……死にたくないよ……」
泣きながらそう言った。
「し」は一体何なのだろうか。人?いや違う。妖怪?いや違う。分かっている事は、よくわからない魑魅魍魎の類いという事だけだ。
殆んど何も分からない。と、いう事が分かっている。つまり、一種のパラドックスだ。
俺はそれから、「し」がまた現れる可能性がある事が恐ろしく、毎日ベッドの中で泣いていた。
恐かった。恐ろしかった。俺は死にたくなかった。いつ現れるのだろうか。次に見た時は俺が……
「し」が恐くて泣いていたわけではないのかもしれないが、俺は毎日ベッドの中で泣いたのだった。