第1部 (10)
私は一本の樹木を観察する。
私はこの樹木を映像として受け取ることができる。光の衝突する硬い木柱、あるいは青みがかったいぶし銀の温和さから流れ出た緑の噴出として。
私はこの樹木を運動として感知することができる。固着しつつ伸びていく髄に沿う樹液みなぎる脈管網、根の吸収作用、葉の呼吸作用、土や空気との果てしない交流――そして明瞭でない自らの生長として。
私はこの樹木を種類に組み入れ、構造や生存様式を主眼とする標本として精察することができる。
私はこの樹木の現時性と形体性とをほとんど克服することができる。その結果、私はそれを法則の表現にすぎないものとして認識する。つまり諸力自体の絶え間ない対立を絶えず調停する法則、あるいはこの樹木の諸材質自体を混合したり分離したりする法則の表現として。
私はこの樹木を数に、純粋な数量関係にまで気化させ、不滅化することができる。
これらすべてにおいて樹木は私の対象のままであり、その場所と期間、その種類と性質を有する。
だが自らの意思と他からの恵みが一体となることで、私が樹木を観察していてその樹木との関係に囲まれるようになるということも起こり得る。こうなるとその樹木はもはや〈其〉ではない。独占の力が私を捕えたのである。
そのために、私が何か自分の観察のやり方を放棄するといったことは必要ない。見るために、私が度外視しなければならないものは何もなく、私が忘れなければならない知識は何もない。というよりむしろ、映像と運動、種類と個体、法則と数など、すべては見分けがたくそうした関係と一体化しているのである。
この樹木に属するものすべて、その形態と機構、その諸色彩と化学構造、諸元素との対話、諸天体との対話はその中に、すべては一つの全体の中にあるのである。
樹木は印象ではなく、私の表象の戯れでもなく、情緒価値でもない。そうではなく私に向かい合って生きており、私が樹木と関わるように、樹木が私との関わりを有する――ただ関わり方が異なっているだけである。
人は関係の意味の力を奪わないように努めよ。関係とは相互性である。
するとそれなら、樹木は我々の意識に似たものを有するのか? そうしたことを私が知らされることはない。だが君たちは、それが君たちにとって好都合に見えるからといって、分割できないものをさらに分割するつもりか? 私は樹木の霊やドリュアス(ギリシャ神話に出てくる樹木の精霊)に出くわすことなど一度もない。出くわすのは樹木本体である。