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犬の一生  作者: ブリキの
六、絞首台の主
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6.8. 魔狼フェンリル、世界樹の新芽で火の国の魔人を貫くこと

 月を見ていた。


 フェンリルが思い出していたその日は、べつだん特筆することが起きたわけではなかった。スリュムヘイムに来てからの日々は穏やかだ。これはブリュンヒルドに感謝しなければいけない。彼女の《竜環ニーベルング》がなければ、フェンリルやヨルムンガンドは街から離れた場所で寂しく過ごすことしかできなかっただろうから。

 人のいる場所に不自然なことなくいられるというのは嬉しく、しかし人の中にいればやはり違いを感じずにはいられず、雑踏の中で行き交う足を見上げて歩いていると、疎外感を感じずにはいられない。

「フェンリル?」

 可愛らしい声は耳の良いフェンリルでなくても聞き分けられる。宿の屋上への梯子を上って、イドゥンが顔を覗かせていた。彼女は上がるのに苦労していたらしかったので、フェンリルは腹から伸びる《銀糸グレイプニル》で、イドゥンが屋上に這い上がるのを助けてやった。

「お茶、飲む?」

 やけに梯子を上るのに苦労していると思ったら、片手に手提げ袋を提げていた。その中身の陶器の容器は昼に街でぶらぶらしていたときに彼女が買っていたものだ。屋上の床の上に置いた木造りの口の広いカップに注がれるのは、陶器の中に入っていた浅葱色の液体だ。あまり液体物を飲むのが得意ではないフェンリルのためか、温度はあまり高くなかった。


 そのあと、お茶を飲みながらふたりで月を見た。夜のイドゥンは三つ編みを解いていて、栗色の髪はふわふわと柔らかそうだった。服も昼よりゆったりした格好で、夜の寒さを超えるために肩掛けをしてはいたが、服そのものの生地は薄くて、その下のどこも出るところがない曲線がどのようになっているかがよくわかった。夜風をしのぐために、イドゥンはフェンリルに身体をくっつけてきた。

 こんな夜に、フェンリルは幸せを感じるよりも、無念さを感じずにはいられない。

 人であるにも関わらず、〈魔狼〉として産まれた。

〈魔狼〉として産まれたのに、人である母と育った。


 最初から人でなければ、諦めがついただろう。

 人として育てられなければ、狼であることなど気にしなかっただろう。


 フェンリルはずっと、人になりたかった。


   ***

   ***


 鈍い痛みが腹と背中に同時に発生し、身体が宙に浮く。もはや下顎はないというのに首をほとんど百八十度折り曲げ、上顎と己の身体そのものを使って〈魔狼〉はスルトに噛み付いてきた。


「化け物が――!」

 スルトは吐き出すように言う――それしかできないからだ。噴き出す血はスルトの炎の温度を下げさせた。いままでこの犬から出てきた血がやけに少ないのが目についたが、それは己の炎によって傷口が焼け焦げたからだろうと思っていた。だが、そうではなかった。この犬は最初から、この状況を考えていた。


 こいつは〈九の災厄〉ではない。この九世界が生まれたときから守り続けていたスルトにとって、恐れるべきは外来者である〈九の災厄〉、〈世界樹〉、そして〈呪われた三人〉のみ。

 この犬はどれでもない。

 それなのに。

 足は砕いた。口を焼いた。首を切断した。血を流させた。

 それなのになぜ、なぜまだスルトのことを離さない!?


 血を浴びせかけられようと、それが返り血程度であれば体温を上げておくことで、一瞬で蒸発させることができる。だが巨大な〈魔狼〉の首が切断されたときの返り血は尋常な量ではなく、スルトの体温はほとんど血液と同じ程度まで下げさせられた。これではすぐに体温は上がらない。

 おまけにフェンリルは全身で捉えたスルトの身体を、バリの森に点在する〈世界樹〉の根の上に押し付けてきた。なぜこの森にはこうまで〈世界樹〉の根が露出しているのかわからないが、〈世界樹〉はスルトの力では焼くことはできない。

 いや、それでも、それでも――この獣はもはや使える〈神々の宝物〉を持たない。貫きの《穿錐イリーヴァルディ》は切断され、臓腑に絡みつく《銀糸グレイプニル》は露出している部分は体組織として一体化しているのでスルトには通用しない。後ろ足に絡む鎖と錘も〈神々の宝物〉のようだが、もはや動かせまい。つまり、この獣には決定打がない。


 スルトは徐々に体温が上がり、回復してきた身体でフェンリルの牙を掴んだ。この化け物の首は、一度切断されたあとで《銀糸》で結びつけられているだけだ。容易に剥がれるはずだ。

 スルトがそう考えている間に、切断面から血を滴り落としながらフェンリルは腹から伸びる《銀糸》を放射状に放っていた。糸の先は周囲に点在する〈世界樹〉の露出した根に刺さった――刺さった? あの侵されざる〈世界樹〉に? いや、潜り込んだのだ。《銀糸》の先端はあまりに細い。表皮の間から、根の中へ、そして根の内部に結びつくと、糸は大元に向けてその先を引っ張り始めた。露出している〈世界樹〉の根をスルトの元へと集めているのだ。

(こいつ………!?)

 この犬は、気づいたのか。スルトの炎を受けても、〈世界樹〉だけが焼けないことに。〈世界樹〉で閉じ込めてしまえば、スルトはもはや抵抗できないことに。

 フェンリルは知らないだろうが、それはあのヴァン神族の男、フレイが取ったのと同じ戦法だった。もっとも、彼は魔法で〈世界樹〉の根を動かしていて、こんな力任せの方法ではなかったが。


「この、糞犬が――」

「おれは」

 その声はひび割れ、曇り、だからスルトは初め、フェンリルが何を言っているのか理解できなかった。

「おれは狼だ」

〈世界樹〉の根はフェンリルの腹から伸びる糸でゆっくり、ゆっくりと動いていく。スルトを閉じ込めるために。スルトはそれに必死に抗った。徐々に上がる体温は、全身に浴びた血を蒸発させ始めた。それほどの温度になっても、フェンリルはスルトの身体を離さない。

 だが《銀糸》なら話は別だ。スルトは〈魔狼〉の腹から伸びる糸の束に手を伸ばした。かろうじて指先が触れると、銀色の糸は徐々に黒く炭化し始める。根を引っ張る糸はぶつぶつと切れていき、引っ張る力は弱まっていく。

 最後の一本が切れようとした刹那、その最後の糸が異様に太く膨れ上がった。《銀糸》は臓腑に絡みつく糸の塊が肉体と同化して身体の外に伸び出したものだ。だから、糸の太さは一定とは限らないし、身体の状態如何では膨れ上がりも、縮みもする。


 スルトの胴よりも太く膨れ上がった糸は、あらん限りの力で〈世界樹〉の根を引っ張った。だが地から露出している〈世界樹〉の根は動かなかった。そうだ、あのフレイが特殊なのだ。容易にその根が動くはずがないのだ。

 フェンリルもそれを理解したのかもしれない。彼は残った二本の足で地を叩くと、地面からわずかに飛び上がった。〈世界樹〉の根に糸の先を結び、引っ張ったまま。


 瞬間、フェンリルの身体はスルトに噛み付いたままで〈世界樹〉へと恐るべき速度で引っ張られていた。スルトは見ていた。潜り込んでいた銀の糸が〈世界樹〉の中から柔らかな新芽を抜き出し、その尖った先へと己の身体を導くのを。スルトの身体は勢い良く新芽の先へと押し付けられた。フェンリルの身体ごと。芽で口の先から尻の穴まで貫かれたフェンリルは、しかしなんの反応も示さなかった。もはや死んでいる――死んでいるのだ。当たり前だ。首を一度断たれたのだ。その後にも動いていたのが異常なのだ。死んで、それなのに、スルトと戦うために動いたのだ――その結果がこれだ。

 スルトは己の身体を見下ろした。新芽の先はスルトの胸を貫いていた。足は浮いていて、傷口はあまりに太く、その先はさらにフェンリルを貫いているため、抜くことはできない。でなくても、彼女にとっては不倶戴天の存在である〈世界樹〉が身体を貫いているのだ、力が出ない。


 早贄のような姿のままで、スルトは必死に芽を抜こうとした。身体を抜けさえすれば、まだ回復できる。だが抜けない。抜けないまま、じりじりと痛みを覚え、力が失っていくことだけを感じた。徐々に温度は下がっていき、黒く輝くはずの髪は光を失った。体温は根と同じほどまで下がり、ついにスルトは死んだ。

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