6.2. 戦乙女ブリュンヒルド、魔狼に別れを告げること
「ここで一度別れよう」
と平然とした顔――もちろん狼の表情なのでその変化がわかりにくくはあったが、それが作った表情であることがわかる様子で――フェンリルが言った。
「なんでかわからないが、《竜輪》で小さくなれない以上、おれにはあの地下道は使えない。だから走って逃げようと思う。あの炎の巨人はそこまで速度が速くないからな、おれひとりなら逃げるのは簡単だ――さっきは捕まったけど、あれは炎に対して上に逃げようとしたからで、もう大丈夫。だからおれはひとりで走って逃げる。いちおう南へは行くけど、もう会えないかもしれない。そっちの逃げ道が〈第七世界〉のどこ出るかわからないわけだし、見つけようとしても無理かもしれない。だから、おれは母さんを探しに行くよ……ここでお別れだ」
一息に紡がれたフェンリルの言葉は、平素の彼を知っている者ほど不気味に感じるほどの理知的なもの言いで、それが逆に不安感を感じさせた。いや、理由はわかっている。フェンリルは、彼は、もう、諦めている。己の後ろ足が壊れ、用をなさず、血を失い、死が近づいていることくらいは理解しているはずだ。自分のことは諦めていて――そしてきょうだいたちを逃がそうとしている。ヘルとヨルムンガンドのきょうだいと、それに、おそらくは……彼にとってはなんでもない存在である、イドゥンを。
ヘルは己のきょうだいである〈魔狼〉を眺めたのち、己の手甲に視線を向けていた。どうやらそれが彼女の考えるときの癖らしい。彼女は〈第八世界〉で育ったせいか、人神の心の裏の動きに聡いように感じる。フェンリルの状態に気づいていないはずがないだろう。
ヘルの肩から首を伸ばすヨルムンガンドは、その金色の瞳でじっと〈魔狼〉を眺めていた。同じ異形でありながら、フェンリルは〈狼の母〉に育てられ、ヨルムンガンドはただひたすらの野生の中で育てられた。生い立ちはまったく違い、関わりがあったのもこの旅の僅かな時間だけだ。だが、ブリュンヒルドには、ヨルムンガンドが兄といえる存在であるフェンリルに対し愛情に近い感情を持っていないとは思えなかった。
そしてイドゥンは。
「嘘」
彼女は涙を湛えた瞳でフェンリルの言葉を打ち消そうとした。嘘、嘘、嘘だよ、フェンリル、嘘だよ、ロキを探すなんて言って、本当は、身体がどこかおかしいんじゃないの、ねぇ、フェンリル、足は大丈夫なの、後ろ足だよ、見せて、なんで見せてくれないの。イドゥンはフェンリルの後ろに回り込もうとするが、〈魔狼〉の巨大な前足がそれを阻む。
「ブリュンヒルド、教えて。フェンリルに《竜輪》が効かなくなったのはどうして? あなたなら、知っているんじゃないの?」
とそうしているうちにイドゥンはブリュンヒルドへと矛先を変えた。
「それは……」
ブリュンヒルドは口籠もった。確かに、知っている。
たとえばブリュンヒルドやエリヴァーガルといった弱い力しか持たない人神が《竜輪》を身につけても、何も起こらない。基本的に〈神々の宝物〉は所有者の呪力を吸い取って作動する機械だが、もととなる呪力が弱ければそもそも起動しないのだ。《竜輪》の要求する力は非常に強い。
だからフェンリルに《竜輪》が効かなくなった理由は簡単だ。彼の後ろ足が千切れ、血と呪力が流れ出し、生命がもはや危うい状況だからだ。《銀糸グレイプニル》は臓器に一体化していて半ば彼自身の一部のようなものだからまだ動かせるだろうが、《竜輪》はもう用はなさない。
だがそんな解説をフェンリルが望んでいないことはわかっていた。
かといって、いつもは回る口は、なぜか今日はうまく嘘を吐いてはくれなかった。
〈第一平面〉から〈第二平面〉へ落ちてきてから始まった短い旅。その中でブリュンヒルドは〈ロキの呪われた子どもたち〉の心を知った。ブリュンヒルドが帯びた使命に比べれば、取りに足らない、矮小な存在であったが、彼らは確かに生きていた。
死なせたくないと思った。
だが両の後ろ足が千切れるという怪我の状態で、もはやブリュンヒルドにできることはなかった。
「なんでもないんだ、イドゥン。さぁ」と言うなり、フェンリルはうつ伏せの状態から四つ足で立ち上がった。彼の腹の横にいたブリュンヒルドには、フェンリルの後ろ足が《銀糸》で無理矢理繋がれているのがわかった。「ほら、大丈夫だろう。おれはもう行く。だから、きみたちも行ってくれ――」
フェンリルが言いかけたとき、スリュムヘイムを囲う壁の外から轟音が響き渡った。〈天の吠え手〉のいる方向だが、彼の持つ《吠角ヒミンヒョルート》が炎の巨人と土を抉る音とはまったく違っていた。もっと軽い、しかし大規模な、爆発のような音。視線を音の方向へと向ければ、黒煙が立ち上っていた。炎の巨人たちの攻撃だ。いや、巨人だけではない。それを使役する女がやってきたのだ。〈火の国の魔人〉が。
その場にいた全員の視線が外へと向いている隙に、フェンリルだけが己の目的を果たすために動いていた。彼の腹から伸びる《銀糸》が伸びるや、イドゥンの身体に巻きついて、その身体の自由を奪うや、シグルドへと押しやっていた。それが危険なものだと理解しているのか、丁寧に《金環ブリーリンガメン》には蓋が外れないようにぐるぐると幾重にも糸が巻かれていた。
「ブリュンヒルド、シグルド、あとウル。ヘルとヨルムンガンドと、イドゥンを頼んだ」
「フェンリル、ぼくは――」
何かを言おうとしたヨルムンガンドの身体にもフェンリルの糸が伸びた。銀色に輝く糸は〈世界蛇〉の尾の先に嵌っていた金色の《竜輪》が外れないように巻きついた。
「ヨルムンガンド、いちおう言っておくけど、あの炎の巨人たちには〈神々の宝物〉しか効かないみたいだ。だから、おまえが元の大きさに戻っても無駄だ。それとも《戦槍》を咥えて戦うつもりか? そんなの無駄だよ。さぁ、逃げよう」
巨大な〈魔狼〉の瞳と、それ以外の6人の12の瞳が交錯した。
「フェンリル」
と呟いて、最初に動いたのはアース神族の男、〈雪目〉だった。彼はヘルとエリの手を握り、半ば無理矢理にと街の奥へと連れて行こうとする。
「また……また会いましょう」
去りゆく背中を眺めている隙はない。〈火の国の魔人〉が近づいてくるのだ。シグルドがイドゥンの身体を小脇に抱える。彼女は抵抗したが、ただでさえ力の差があるうえに、《銀糸》でぐるぐる巻きに縛られているのだから抵抗のしようもなかった。ブリュンヒルドは彼に先に行くように命じた。シグルドは頷いて去っていった。
「フェンリル、あなたは……」と最後にひとり残ったブリュンヒルドはフェンリルを見上げて問いかけた。「親のことを、恨んでない?」
「恨んでないよ」とフェンリルは即答した。「母さんのことは大好きだ」
「そう」
またね、とブリュンヒルドも彼に背を向ける。こんなとき、こんなとき〈独眼の主神〉であれば彼を治すこともできたのではないか、と思わずにはいられなかった。それとも、オーディンですらあの怪我は手の施しようがないだろうか。ただの人神ならともかく、〈魔狼〉だ。であれば治療の方法もよくわからないかもしれない。だから、無駄だ。そう己に言い聞かせながら、ブリュンヒルドは走った。街並みを。フェンリルのところで問答をしている間に、スリュムヘイムの街の住人は避難通路に逃げるか外へと逃げてしまったらしく、街は静かなものだった。考え事に没頭するには最適なほど。
だからブリュンヒルドには前が見えておらず、ほとんど壁のように感じられる大きな背中にぶつかって、転びそうになった。背中の主はシグルドで、彼はイドゥンの身体を小脇に抱えたまま、素早く空いている手を伸ばしてブリュンヒルドを支えた。そして、イドゥンの身体をブリュンヒルドに預けた。
「おい、待て、シグルド」
行動を咎めようとしたブリュンヒルドのことを、シグルドは無視して背を向けた。
「おい、待て、フェンリルのところに戻るつもりか」とブリュンヒルドはもう一度制止の声をあげた。「おまえは対〈火の国の魔人〉用じゃないんだ。わからないのか。どれだけ炎の巨人には勝てようと、あの〈火の国の魔人〉には――」
どれだけの言葉も役に立ちそうにはなかった。一瞥したシグルドの瞳が言っていた。
おれは負けない。
そうかもしれない。〈竜殺し〉は死なない。だが〈火の国の魔人〉に勝てるわけでもない。あのおそるべき熱そのものといえる存在は、他の炎の巨人のように簡単に退治することはできないし、殺すこともできない。一時的に無力化することはできるが、それでもすぐに復活する。もし復活しないとすれば、それはこの九世界そのものが死ぬということだ。だから、復活しないように無力化しなければ封印できないのだ。
〈竜殺し〉はそんな複雑なことができるようには調整されていない。彼の目的はたったひとつ。いや、ふたつか。最悪の災厄である〈炎の災厄〉こと火竜ファヴニルを殺すこと、そしてそれを封印することだ。竜には〈竜殺し〉。そして〈火の国の魔人〉を相手をするのは別の存在だ。
この九世界を脅かす災厄と呼ばれる存在とそれに対抗するために生じる存在のうち、特に強大な〈火竜〉、〈邪龍〉、そして〈火の国の魔人〉を封印するためにブリュンヒルドとシグルドは長い、とても長い――ここ最近の旅とは比べ物にならないほどの長い旅をしてきたのだ。
だが、その永久ともいえる歳月の中にあって、ブリュンヒルドとシグルドを繋ぐのは利害関係であり、信頼関係ではなかった。ゆえに、彼のもともとの目的にはなかった行動原理のために動き出した彼のことは止められなかった。
ふたりの目的――それはすなわち、九世界を焼き尽くす最大最悪の脅威である〈火竜〉の封印であった。