6.1. 竜殺しのシグルド、魔狼の安否を確認すること
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誰もパンを持って来てわしをなぐさめはしなかった。誰も角杯の飲み物を持って来てわしを元気づけはしなかった。わしは世界を眼下にながめて、ルーン文字をつかんだ。泣き叫びつつわしはつかんだ。それから地面に落ちて戻ったのだ。
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K. クロスリィ・ホランド(著), 山室静(訳), 米原まり子(訳), 『北欧神話物語』, 青土社, 1983.「四、絞首台の主」より
皮膚を焦がす熱さ。
石畳と空気を焼く焦げた香。
眩しい光。
(これが、炎?)
巨大な火柱は一瞬前までは炎の巨人を形作っていたものだ。なるほど、確かにこれは火の塊だろう。悪しきを焼き、浄化する。それが〈火の国の魔人〉ことスルトと彼女が使役する炎の巨人の使命であるということは、伝聞で知っている。
だがその火はあまりにも朧げだ。
(この程度のものが、炎?)
熱いだけ。焦がすだけ。眩しいだけ――それだけだ。瞬きの間にあらゆる建物を吹き飛ばして土地を均してしまうことも、刹那の前まで笑っていた人神を色無き塊に変えてしまうこともない。〈竜殺し〉は知っていた。遥か昔、この九世界を焼き尽くそうとした真なる炎を。九世界を滅ぼそうとした災厄、火竜ファヴニルの存在を。ああ、誰よりも知っていた。だからこの程度の炎で脅えようもなかった。なにせ《聖剣グラム》で簡単に切り裂くことができるのだから。
結合して巨大化した炎の巨人に掴まれていた巨躯の存在は、石畳に叩きつけられる寸でのところで銀色の糸を身体から伸ばし、発条のように糸を形作り衝撃を和らげて着地した。
(火に対して上に逃げるのはあまり賢いとは言えなかったな)
もしシグルドが声を発することができたのなら、落ちてきた魔狼フェンリルに対してそんなことを言っていたかもしれない。いや、そんな皮肉めいたことを言っている事態ではないか。それに、炎の腕に後ろ足を掴まれてもなお彼は背負っていた者たちを落とさなかったし、怪我もさせなかったのだから、上出来といえる。であれば、年長者としては褒めてやるのが先かもしれない。この〈魔狼〉は、見た目はともかく、実際は子どもともいえる年齢だ。
「フェンリル!」
と〈魔狼〉の背中に乗っていた女のうちのひとり、小柄な少女が慌てた様子で長毛に包まれた背中から飛び降りた。イドゥンはフェンリルの首の下に潜り込み、首輪のように首の周りに巻きついている銀色の系に握っていた金色の指輪を絡ませる。《竜輪ニーベルング》で体型を小さくさせるつもりだろう。フェンリルのように秩序立った亡者なら、《竜輪》は体躯を小さくさせるとともに怪我の度合いも小さくさせることができるはずだ。既にその様子は同じ胎から産まれた〈世界蛇〉で見ている。怪我を治す能力は《竜輪》の本来の使用目的ではなく、呪力を吸収して抑えるのが正しい使い方なのだが、シグルドとしてはどんな使い方をしてくれても構わない。なにせ、彼に渡した《竜輪》はもはや役目を終えている。
だがフェンリルの身体の一部となっている銀色の触腕に金色の指輪を通しても、〈魔狼〉の体躯はまったく変わらなかった。あれ、あれ、どうして、とイドゥンが焦った様子でシグルドを振り向く。
シグルドは――シグルドはフェンリルの背後に回り込んだ。そして、炎の腕に掴まれた部位を見たとき、その原因を知った。
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フェンリルは薄目を開けて目の前の光景を見下ろした。小さな少女が大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙を零して泣いている。
「フェンリル、足、痛い? ねぇ、なんでだろう……ニーベルングが効かないの……小さくなってくれないの………」
周囲の状況を確認する。スリュムヘイム市街。近くにいた3体の炎の巨人が結合したものはシグルドが退治し、近くにほかに炎巨人はいない。ちらほらとスリュムヘイムに住まう巨人族の姿は見えるが、フェンリルたちには近づいてこず、自分たちの逃亡先を探している。だから、そばにいるのは目の前のイドゥンと背中のウルにエリヴァーガル、それに背後に回ったシグルドだけだった。そしてそれは好都合なことだ。
(何か、来る………)
フェンリルは顎を持ち上げて空を眺めた。空から何かが接近してくる。また炎の巨人か。ならばイドゥンたちを守らなければ。方向はスリュムヘイムの中央、前戦争で崩壊しかかったという塔からだ。
《銀系グレイプニル》を展開しかけたフェンリルだったが、接近してくるものの正体に気づいて力を緩めた。
鋭く石畳に突き刺さったその物体は、槍だった。《戦槍グングニル》とか言ったか、第一平面アースガルドから逃げるときに、木乃伊が投げつけてきた槍だ。あのとき、《戦槍》が巻き上げた土煙が目くらましになってくれたおかげで〈火の国の魔人〉や〈白き〉から逃れることができた。
(あの木乃伊はなんだったんだろう)
フェンリルたちを助けてくれた――ならば味方か。
いや、そのことはいまはどうでもいい。なぜならここは第一平面ではなく第二平面だからだ。あの木乃伊はいないはずだからだ。《戦槍》を投げつけたらしい人物は、己の投擲した槍そのものにぶら下がっていたからだ。
「何があった」
槍を石畳から引き抜いて端的に問いかけてきた女の顔は、フェンリルが眠る前にいつも思い浮かべる母親の顔によく似ていた――性格はまったく似ていなかったが。
「上に登って、でかいフェンリルの姿が見えたから飛んできた」とヘルは説明した。
「言葉通りにね」
《戦槍グングニル》は投擲するとあらゆる障害を潜り抜けて目的の場所へと突き刺さる投げ槍だという説明を聞いたことがある。その説明をしてくれたブリュンヒルドは自分より小柄なヘルに抱えられていて、投げつけた槍にそのまま掴まって移動するという離れ業に付き合わされたせいか、顔色を悪くしていた。一方でヘルのほうはというとなぜかいつもより血色がよく見えたが、それはブリュンヒルドとの対比のせいなのだろうか。
「説明している暇があんまりないけど、逃げたほうがいい。スリュムヘイムの周りをあの炎の巨人が取り囲んでいる。街中にいくつか地下道があって、そこを通れば炎巨人たちに気づかれずに外に出られると思う」
「取り囲んでいるなら、〈火の国の魔人〉も来ているかもね………」ブリュンヒルドは眉根を曇らせた。「狙いはヒュミルだろうが、亡者が近くにいる限り攻撃は続くだろう。確かに逃げたほうがいいかもね」
「うん」
こっくりと頷きながら、ブリュンヒルドのことを眺めた。彼女が何者なのか、フェンリルは未だ知らない。知っているのは、大人の女性であり、イドゥンのことをどこか気遣い、フェンリルら亡者たちに対しても分け隔てなく接してくれているということだけだ。彼女の九世界――そして〈力の滅亡〉後の現状に関する知識は得体の知れないところがあるが、フェンリルは彼女のことを信用していた。
そしてシグルドのことを考えた。彼については、言葉を発さないだけブリュンヒルド以上によくわからない。わからないが、彼は強くて、フェンリルたちを常に守ってくれた。信じられるのかどうかわからないが、信じたいと思わせてくれる人神だった。
フェンリルは己の脚のことを思った。後ろ脚だ。合体して巨大化した炎の巨人に掴まれたその足は黒く焦げ、炭化していた。痛み以外の感覚はなかったが、少なくとも膝から下がもはや機能していないのはわかった。
そしてフェンリルには《竜輪ニーベルング》が己に作用しなくなってしまった理由についても検討がついていた。〈神々の宝物〉は基本的に使用者の呪力を使用して魔法を引き起こす。《竜輪》であれば使用者の力を抑えるのだろうが、フェンリルには《竜輪》を作動させるほどの力がもはや残されていなかった。焼け焦げた後ろ足が砕け、罅割れ、ぼとぼとと血が流れ始めていた。死が近づいていた。