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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
87/111

5.18. 魔狼フェンリル、小人の国への道を進み、戻ること

「待ちなさい」

 と僅かな明かりの中を進む背中に声を投げかけたのは背の上のイドゥンで、フェンリルとしてはもう少し慎重に行動してほしいと思った。ヒュミルとウルの間に割り込もうとしたときもそうだったが、イドゥンという少女は向こう見ずで命知らずだ。それが若さゆえなのか、それとも彼女自身の性格なのかは、このくらいの年齢の少女と交流を持ったことがないフェンリルにはわからなかった。


 巧妙に隠された地下への入口を入った先は、一定の空間の中に大きな棚に酒蔵や野菜壺が置かれた蔵のような場所だった。しかし奥へと続く狭路も備えているのであれば、ただの倉庫ではない。道が一本しかなければ、もはや匂いを辿らずともエリヴァーガルの行き先は知れた。ところどころぶら下げられた燭台は、フェンリルたちを案内しているかのように感じた。

 地下ではあったが、フェンリルの鋭敏な感覚は、この地下道がスリュムヘイムから離れる方向へと掘られていることを感じ取っていた。いや、もう壁の外に出てしまったかもしれない。空気の流れがあるので、袋小路にはなっておらず、向こう側に出口があるということがわかった。


 しばらく駆けているうちに前方に動く光が見え始め――そして追いついた相手は群れる背中だったというわけだ。


 声の振動で狭い天井から砂が落ちる。倒壊したりしないだろうか、と不安を感じる。狭い道とはいえ、フェンリルもシグルドも足音は殺していたうえ、前を行く男たちは言葉を交わし合っていたために背後の存在には気付かなかったらしい。イドゥンの言葉に背を仰け反らせて驚きを表現し、慌てた様子で向き直った。

 その動作の中で、フェンリルは見た。彼らの奥にいる巨人族の小柄な女を。

「きみたちは………」

 警戒する様子を見せる男たち――男たちの肌の色や体格はそれぞれ違っていた――の中から、ひとりの男が進み出てきた。男たちの年齢は青年から壮年といったところだったが、出てきた男はその中でも特に若いように感じた。やや細身ながら巨躯で、おそらくは巨人族であろう。

「イドゥン。こっちのひとはシグルド。わたしたちは最近この街に来た旅人で……エリの友だちです。あなたは?」

「ぼくはアルフリッグ」

 と巨人族は名乗った。

「ドヴァリン」

 次のひとりは人間族のシグルドよりももっと浅黒い肌をした痩身の男で、おそらくは黒妖精(スヴァルトアールヴ)族だろう。

 残りのふたりの種族は他のふたりよりもわかりやすい。というのも、小柄なイドゥンよりも頭一つぶんは小さな体躯をしていたからだ。第七世界ニダヴェリールの小人族だ。黒妖精族もそうだが、アースガルドで暮らしていたフェンリルには初めて見る種族だ。

「ベーリング」

「グレール」

 ベーリングとグレールと名乗った小人族ふたりはそっくりな容姿と声をしていたため、フェンリルにはどちらがどちらなのか区別がつかなかった。臭いもほとんど同じだ。


「ここはスリュムヘイムに幾つかある緊急用の脱出路だよ。日頃は倉庫も兼ねているけどね。第七世界ニダヴェリールの近隣へ通じている」とアルフリッグを名乗った巨人族が説明した。「ぼくらは彼女をスリュムヘイムの外の街に送り届けるためにここにきた……イドゥン、きみが真にエリヴァーガルの友だというのなら、なぜ追ってきた?」

「なぜって………」

「きみはその犬を使って追いかけてきたのだね? それはあの亡者が、彼女を捜せと訴えたからではないか? そうしなければ暴れるとでも言ったのではないか? 彼女を、そんな男のもとへと留めておく気か?」


 フェンリルは「おれは狼だ」と言いたいのを堪えながら耳を立ててアルフリッグの話を聞いていた。

 ヒュミルは暴れるなどとは言ってはいなかった。言ってはいなかったが、しかしスリュムヘイムの外壁よりも巨大なヒュミルの行動にはそうした未来を示唆するだけの恐ろしさがあった。

「不幸だ」

「不幸な女だ」

 とベーリングとグレールが声を合わせて言った。

 フェンリルは男たちの合間に隠されているエリに視線を送った。彼女は視線を伏せ、何も語らない。彼女が自分の意思で行動しているのか、それとも男たちに脅されているのかは検討がつかない。もっとこの場の人数が少なく距離が近ければ、汗の匂いを嗅いで、恐怖の色を判別する程度のことができるのだが。


 エリはヒュミルを厭ているのか――当然だ。嫌っているはずだ。あんな、あんな化物なのだ。

 だが――。

 葛藤で、フェンリルは己の鼻を地面に擦りつけたくなった。エリを助けるのが正しいのかどうか、フェンリルには判別が付かない。隣のシグルドに視線を送るが、彼は何も話を聞いていないかのように涼し気な顔をしている。


「エリをスリュムヘイムの外へと送り届けるために、こんなに人数が必要なの? ヒュミルと戦うわけでもないのに?」

 そんな曖昧な空気の中で、イドゥンが言った。いつもの彼女の声より、どこか冷たい色をしていた。こんな彼女の声を聞くのは初めてだ。

「それは――」

「ウルはたったひとりでヒュミルと対峙していたよ。あのひとは前も……人質を取ろうとしたり、そういう、頭が固いひとだった。数でしか物を見てくれないけど、数で物を見てくれるから。市民を危ない目に遭わせたくないと思ってくれているから」

 イドゥンはアルフリッグの言い訳を跳ね除けた。そしてフェンリルの頬を優しく撫でた。

「フェンリル、お願い!」


 イドゥンの腰のところで結びつけていた《銀糸グレイプニル》を解き、一瞬で薄く長く伸ばすや、フェンリルはその先を銛のようにして男たちに囲われていたエリへと伸ばした。瞬時にエリの柔らかな四肢に絡みつき、引っ張ろうとしたその糸の先に、鋭い針先が突き刺さった。

「ひっ」

 フェンリルは声をあげずにはいられなかった――痛みはなかった。なかったと思う。だが感覚はあった。《銀糸グレイプニル》の本体はフェンリルの心臓に絡みついている、らしい。腹から伸びる糸は《銀糸》の影響を受けてはいるのだが、正確にはフェンリルの身体そのものだ。だから壊れない〈神々の宝物〉と違って、針も通るし、感覚もあるのだ。血は流れておらず、痛覚もないらしいが、しかし自分の身体の一部が刺されたというだけで心臓が飛び出るほどに恐ろしい。

《銀糸》を突き刺したのは、巨人族アルフリッグが握りしめていた短い棒のような形状の道具だった。先端の金属が灯りの炎を受けて煌々と煌めいている。錐だ。錐の先は《銀糸》を貫き、根本まで通路の内壁に突き刺さっていた。

 フェンリルは見た。錐の握りにも金属の部品があり、そこに見事な装飾があるのを。一瞬で伸ばした《銀糸》を、その錐が人神(じんしん)離れした速度で正確無比に貫いたのを。

(〈神々の宝物〉だっ………!)

 あの錐の能力は、狙った場所に針先を突き刺すというものだろうか。それとも何か別の能力もあるのか。どちらにせよ早く逃げなければ。必死に触腕の先を引っ張ったが、長い針先が深くまで突き刺さった錐は容易には抜けず、エリを引き寄せることもこの場から逃げることもできなくなってしまった。

 その間に、アルフリッグは錐から手を離して剣を抜き、ふたりの小人も腰に携えていた鉈を抜いていた。最も動作が機敏だったのは名乗った以外には言葉を発していなかった黒妖精族のドヴァリンで、彼は小刀を抜いて飛びかかってきたが、飛びかかってきた動作よりもより素早く後方へ飛び退いていった。いや、吹き飛ばされたというべきか。〈狼被り(ウーフヘジン)〉のシグルドの握り拳がドヴァリンの顔を殴りつけ、の歯を折り、重力が逆さになったかのように奇妙な姿勢で壁に叩きつけられた。もしかすると死んだかもしれない。


 彼はそのまま一歩踏み出て、フェンリルの《銀糸》を縫い止める錐へと手を伸ばした。だが男ひとりを殴り飛ばすほどの腕力を持ったシグルドの力を持ってしても、その錐は抜けないらしかった。

 その間に剣がシグルドの身体に伸び――だがそれらは空を薙いだ。狭い地下道の中、僅かに身体を反らせて3枚の刃を潜り抜けたシグルドは、己の剣を抜いていた。

「ちょ、ちょっと待って――」

 彼の剛剣が3人の巨人と小人を弾き飛ばしてなお、踏み込まずに柄を振りかぶったので、フェンリルは彼の意図を理解してしまった。だが懇願は無駄だった。シグルドの《聖剣グラム》が錐で貫かれたフェンリルの《銀糸》の触手を断ち切ったのだ。


 錐で刺されたときと同じで痛くはなかったし、《銀糸グレイプニル》の影響を受けて腹から伸びてくる触腕はこれだけではなく無数にあり、それに切られたところもたぶんまた生えてくる、生えてくるとは思うが、切られたということで呆然としてしまった。

 まずかったか、とでも言いたげな顔をシグルドが向けてくる。フェンリルは《銀糸》の触手を束ね、シグルドへ伸ばした。唸りをあげるほどの速度で放たれた触腕は、この戦闘の最中でフェンリルの心配をしている間抜けなシグルドを背後から襲おうとしていたアルフリッグの剣を叩き落とした。


 とりあえず――とりあえずは、だ。自由になった。切られた部分のことはあとで考えよう。

 フェンリルは無事な触腕を集め、再度その先を通路の奥へと向けた。始まった戦いを呆然と見ていた女、エリへと。引き寄せた彼女に巻き付いている、切断された《銀糸》はまだびちびちと動いていて、蜥蜴の尻尾みたいで、自分の身体の一部ながら気持ちが悪かった。

 背中にエリを乗せると、格段に身体への負担が増すのを感じる。イドゥンひとりなら軽いものだが、ふたり――しかもひとりは小柄な巨人族の女とはいえ、大人で、背中に感じる尻は柔らかく、ずっしりとしていた。


 フェンリルはシグルドを睨んだ。彼は一本の剣で三人の――いや、四人だ、殴られて壁に叩きつけられていた黒妖精族のドヴァリンが起き上がってアルフリッグたちに加勢していた――の刃を受け流している。狭い道とはいえ、敵のうちのふたりが人神相応なのに対してふたりがその半分程度の体格の小人族であれば、刃は一度に降り注ぐのに苦労しないらしかったが、シグルドのほうは数の差を気にはしていないように見えた。彼にはフェンリルを一瞥する余裕さえあった。その視線の先は、一瞬だけ背後の道に動いた。

 フェンリルは頷いて、四肢に力を込めた。反転して走り出す。重い。やはりふたりは重い。しぜんと姿勢が低くなってしまい、自分の足で巻き上がる土煙を吸い込んでしまう。爪の先がいつもより深く地に食い込む。後ろ足の枷に繋がった鉄球が不慣れな走り方で無茶苦茶な軌道を描き、尻を叩く。それでも走れないほどではない。走っているうちにだんだんと身体が軽くなるような感覚があり、通路から倉庫に出た勢いのまま急な坂道を駆け抜けて出口の戸を開き、眩しい光を浴びた。

 疲れた。疲れた。フェンリルは四肢を伸ばして脱力した。その疲弊を理解してか、背中に載っていた人神はゆっくりと身体を背中の上から退かしてくれた。


 スリュムヘイムは相変わらず静寂に満ち満ちていたが、逆にいえばそれはヒュミルの我慢の緒がまだ断ち切られていないということで、幸いだった。このままエリを彼のもとへと連れていけば、ひとまず決着がつく。

(あのアルフリッグとかいう男たちは――)

 おそらくは盗賊の類なのだろう、とフェンリルは思った。それも、スリュムヘイムに正面から入ることを拒否されるような。エリを連れ去ろうとしたのは、ヒュミルを利用してスリュムヘイムを壊すためか、それともエリそのものに価値を求めてか。両方かもしれない。

 アルフリッグたちはまだ追ってくるかもしれない――しかしシグルドが食い止めてくれているし、フェンリルの全力疾走よりも速く走れるわけがないだろう。であれば、大丈夫だ。休憩する時間はある。そんなふうに己に言い聞かせて、フェンリルは深呼吸をしながら舌を出して体温を調節しようとした。横から手が伸びてきて、フェンリルの耳の裏を掻いてくれた。イドゥンはやっぱり優しい。

「イドゥン………」

 ありがとう、と声をかけようとしたが、フェンリルに触れていた女はどこも引っかかるところがないような体格の少女ではなく、どこか母と似た匂いのするエリだった。


 フェンリルは首を巡らせて周囲を確かめた。己の背の上も。

 いない。


「イドゥンは――」

「あの女の子なら、途中で………」

「落ちた!?」

「落ちたというか、下りたというか………」

 フェンリルはほとんど四肢を地面に叩きつけるようにして立ち上がり、エリをほっぽり出して地下へと戻った。倉庫の中を駆け抜けて、通路へと駆ける。イドゥン、イドゥン。こちらに来るときは触腕で彼女の身体を固定していたが、エリを引き寄せるために解いたのが良くなかったか。


「イドゥン!」

 仄暗い地下通路ではあったが、彼女の姿は半ばまで進んだところで見つかった。二本の足でとことこと歩いてくる彼女の服は汚れてはいるが、怪我している様子はない。

「良かった、良かったぁ………無事で。落としてごめん!」

「下りただけだよ」とイドゥンは平然としていた。「あれ、エリは?」

「下りたって……」

「重そうだったから」

「そんなの――イドゥン、おれにとっては、きみはエリやほかの誰かよりも大事なひとなんだから、そういう理由で危ないことをしてほしくない」

 フェンリルは相応に決意を固めて言ったつもりだった。つまり、きみが大事だと、そう言うのは好きだからで、それを伝えようとしてみたと、そういうことなのだが、それはイドゥンには伝わらなかったのかもしれない。うん、と頷いただけだった。そもそもイドゥンとは少し前に出会ったばかりで、であれば好意が伝わらないのも当然かもしれない――でなくても、フェンリルは〈魔狼〉なのだ。彼女のような可愛らしい人神の姿はしてはいないのだ。


 フェンリルは通路の奥を一瞥してから、伏せてイドゥンが乗りやすいようにしてやった。奥では灯りがときどきちらつくため、まだシグルドの戦いは続いているのかもしれない。あの男がそうそう負けるとは思えないが、少しだけ心配をした。

「早くエリをヒュミルのところに早く送り届けないとね」

 と呟くイドゥンを背に乗せ、フェンリルは出口へと駆け出した。果たして彼女の言うとおりにすべきだろうか、と考えながら。


「きみはその犬を使って追いかけてきたのだね? それはあの亡者が、彼女を捜せと訴えたからではないか? そうしなければ暴れるとでも言ったのではないか? 彼女を、そんな男のもとへと留めておく気か?」

 というのはアルフリッグの言葉だ。

「不幸だ」

「不幸な女だ」

 と小人のベーリングとグレールは言っていた。


 彼らは悪人だった――たぶん。エリがいなくなればヒュミルの脅威に晒されるであろうのに、彼女を連れて逃げようとしていた。それを指摘されると、武器を持って切りかかってきた。であれば、悪人だ。悪いのだ。


 だが彼らの言葉が虚偽に満ちていたかというと、それはまた別問題だ。


 フェンリルにはエリがわからない。彼女はか弱いがひとりで生きる力があるように感じる。肉欲に溺れているようで自立した己を持っているように感じる。ヒュミルに囚われているようでいて、それを良しとしているようにも感じる――それともそれは、フェンリルがそう信じたいだけだろうか? 亡者のヒュミルに己を重ねて、それでもヒュミルを――己と同じ亡者を愛してくれる人物がいればいいと期待しているのだろうか?

 この想いが裏切られるなら、早いほうが良い。フェンリルは地上にエリを残してきた。エリがヒュミルを恐れているのなら――力で囚われているだけなのならば、逃げ出してくれればいいと思った。外に出たとき、もう彼女の姿が見当たらなければ、それで自分のことも諦められると思った。背中の上の小さな重みを、どこかへ預けられると思った。


 暗闇から外の明かりで眩しさを感じるのは二度目で、フェンリルはふたつのことに驚くことになった。

 エリはどこにもいかず、ただ待っていた。それがひとつ目。

 彼女はフェンリルが出てくる地下口でもヒュミルがいる壁の外でもなく、空を眺めていた。第一平面アースガルドを。〈世界樹(ユグドラシル)〉で包まれたアースガルドからは何か輝くものが落ちてきていた。巨大な炎の塊だ。炎は閃光と熱を撒き散らしながらスリュムヘイムの近くに落下した。それがふたつ目だ。

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