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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.17. 魔狼フェンリル、天の淵を求めてスリュムヘイムを駆け回ること

「イドゥン、イドゥン、イドゥン!」

 舌をぶらぶらと揺すりながらフェンリルは石畳の上を疾走していた。激しく立ち昇る砂埃も、硬い石畳も、がっがっがと擦れる鎖と錘の音も気にならなかった。こんなに急いで駆けているのは、腹から銀色の触手が生えるまえ――アースガルド大草原で〈軍神(チュール)〉という男に追われたとき以来だ。

「さっきは危なかった――とても危なかったと思う。危なかった。本当に」

「うん、ごめん」

 背に載っているイドゥンの顔は見えなかったが、声から反省の色は見て取れた。フェンリルはほんの少し、ほんの指の先だけ疾走する速度を緩めてやった。


 イドゥンは――少なくともヒュミルかウルのどちらかを救った。両方かもしれない。いや、普通に考えれば彼女が救ったのはウルで、彼はアース神族の中でも小柄なくらいなのに、あの恐るべきヒュミルに戦いを挑もうとしていた。しかし〈雪目〉の男とアース神族の脅威を肌身に感じて知っているフェンリルは、もしかすると彼には勝算があったのかもしれないとさえ思ってしまった。

 どちらにせよ、イドゥンがいなければ戦いは始まっていて、そしてその戦いはあのふたりだけでは収まらなかっただろう。スリュムヘイムを巻き込んだ一大戦火が巻き起こっていただろう。そうも思えば、イドゥンが声をあげてくれたことは正しい行為だった――そう思いながら、フェンリルはスリュムヘイムを駆け抜けた。広い大通りにも、泉のある広場にも、二階建ての家々の窓にも、ヒュミルのもとへと向かったときとは打って変わって、人神(じんしん)の姿が道から消えていた。ヒュミルを見て、ぼんやりと見物している場合ではないということに気づいたのだろう。これではエリの行方を聞いて回ることは難しいが、しかしフェンリルには鼻がある。


「フェンリル、エリはこっちなの? 匂いは追えている?」

「それは大丈夫だけど………一度宿に戻ろう」

「どうして?」

 きみを安全な場所に預けるためだ、とまでは言わずにフェンリルは足を動かした。

 宿の戸口には、幸いなことにブリュンヒルデとシグルド、ヨルムンガンドが戻ってきていて、城塞の外のヒュミルの巨体を眺めていた。

「お、戻ってきたね」とブリュンヒルデが狼と少女の姿に気づいて手を振った。「どうだった?」

 この問いは、まるでイドゥンとフェンリルの行動が予想できていたかのようだな、とフェンリルは思った。ブリュンヒルデという女は未だ得体の知れないところがあり、どこかフェンリルたちの知らない部分を見通しているようなふうに感じる。しかし得体が知れないというのと信用できるかどうかというのは別問題で、フェンリルは彼女を信頼のおける人物であると感じていた。


《銀糸グレイプニル》で引っ張り上げたイドゥンの身体を、ブリュンヒルデに預ける。

「エリが昼から戻ってきていないらしい。それで暴れていた。ウルが外にいて、一触即発の状況かもしれない。おれが捜すって請け負ったから、いまは大人しくしている……だから、ちょっと行ってくるよ」

「シグルドも連れていったほうがいい。いざというとき、守ってもらえると思う」

 男として、守ってもらえるというのはあまり嬉しくはなかったが、ブリュンヒルデの提案には頷いておいた。フェンリルも《銀糸》を使えば戦えなくもないが、ただの犬としてスリュムヘイムに潜り込んでいる以上、〈魔狼〉であるということは知られないほうがいい。ここまでの道程でシグルドの身体能力が高いということはわかっている。全力疾走しているときならともかく、匂いを嗅ぎながらの追跡であれば追いついてくれるだろう。


「待って」

 追跡を始めようとしたフェンリルとシグルドを、少女の声が呼び止めた。

「わたしも行く」

「駄目」

「駄目だ」

 フェンリルとブリュンヒルデが同時に反応した。

「何があるかわからないから、危ない。エリが逃げただけならそれで済むけど、もし巨人族に攫われたのなら、どれだけ敵がいるのかわからない」

「うん、宿に隠れてたほうが安全だから……街中じゃ戦えないから、ヨルムガンドもね」とブリュンヒルデが肩に載っていた蛇の頭を指で撫でた。

「でも、じゃあ……もし誰かがエリを攫ったとして――フェンリルとシグルドでどうやって説得するの?」とイドゥンは食い下がる。「エリだけなら、フェンリルのことを知っているから説得できるけどね、そうじゃないなら無理でしょう? 犬が急に喋ったら、相手が吃驚しちゃうよ」

「おれは狼だよ」

 と言い返したが、イドゥンの危惧は的を射ている。シグルドは喋れず、フェンリルは喋るわけにはいかない。

「しょうがない、わたしが………」

 とヨルムンガンドの身体を預けようとしたブリュンヒルデに、イドゥンは言った

「ブリュンヒルデじゃあ、足がふたりには追い付かないでしょ?」

「きみだってそうでしょ?」

「わたしはフェンリルに乗れるもん」

 というイドゥンの言葉を受けて、ブリュンヒルデの視線がイドゥンへと注がれる。

「わたしは無理か?」

「ちょっと重いかも」

 正直な返答に、吹き出したのはシグルドだった。声こそあげてはいないが、からからと笑った。


 しばらく逡巡してから、ブリュンヒルデは溜め息を吐いて言った。

「しょうがない。フェンリル、イドゥンのことを載せてあげて。シグルド、イドゥンのことをよろしく――イドゥン、ふたりから離れないように。それと、くれぐれも無理をしないように」

 最後の言葉を聞いて、フェンリルはつい先程、イドゥンがフェンリルよりも速く疾走していたことを思い出した。あの異様な運動能力は、彼女が首から下げている〈神々の宝物〉によるものなのだろうか。ブリュンヒルデはその力のことを知っているのかもしれない。


「あ、フェンリル」と行動を開始しようとしていたところで、また出鼻を挫かれた。ブリュンヒルデだ。「巨人族には会ったことがある?」

「ここでいっぱい会ったよ」

「あー、いや、聞き方が悪かった。巨人族で、名前をお互い知っていて会話を交わしたことがある程度に親しく付き合ったひとはいる?」

「母さん」

「ロキ以外で」

「あとは……エリくらい?」

 うん、とブリュンヒルデは頷く。「そうか。それじゃあ言っておく。九世界じゃあ、アース神族が侵略戦争ばかり仕掛ける乱暴者で、それ以外の民族は温厚だってことになっている。それは大雑把に見れば正しいかもしれないけれど、ひとりひとりは違う思想と意思を持っている。集団の性質は個人と向き合ったときには何の意味も持たないよ」

「意味がよくわからない」

「気をつけてね、ってこと。行ってらっしゃい。わたしはヨルムンガンドとヘルと一緒に待っているから」


 いまいち彼女の言葉を咀嚼しきれなかったような気がしないでもないが、フェンリルは頷き、念のため身体を《銀糸》で固定したイドゥンを載せて走り出した。予想通り、シグルドは少し後方をフェンリルよりやや遅い速度でついてきてくれた。ときどき追跡のために立ち止まって匂いを嗅ぐから、速度としてはちょうど良いだろう。

 狼の姿のフェンリルにとって、匂いを嗅いで追跡するということは顔を目で見て追うようなものだった。情報が古くなっていないならば、そうそう見失わない。多くの人神が生活するスリュムヘイムでは複数の匂いが混じり合っていたものの、エリの匂いが特殊なのは幸いだった。エリの、というより、濃密なのは彼女に付着したヒュミルの匂いだが。

 追跡しながら改めて匂いを嗅いでみると、ひとつ気になることがあった。彼女の匂いとほぼ同じ方向に移動している匂いがいくつかある。同行者がいるらしい。考えられる可能性は、ふたつだ。ひとつはエリを攫った何者かがいる可能性。もうひとつは、エリがヒュミルのもとから逃げ出すための協力者がいる可能性。


 エリがひとりではないのなら、争いになることは避けられないかもしれない。彼女をヒュミルのもとに連れ戻そうとするなら。

 だが仮に彼女が自らの意思でヒュミルのもとを離れたのであれば、彼女の思うがままにさせるべきではないかという気もした。エリとヒュミルの関係は、その詳細をまったく知らないフェンリルにとってしても異質であり、その裏には力による強制が見て取れた。

 だがエリを逃がせば、このスリュムヘイムは戦火に巻き込まれるだろう。相手はたったひとりだが、城壁よりも巨大な亡者だ。仕留めるまでに多くの人神が死ぬだろう。全滅するかもしれない。そうなったらイドゥンの拠り所もなくなる。また彼女と旅が続けられる。それは喜ばしいことで、しかし――。


 そんなふうに考えながら疾走していたので、エリの匂いが途切れたとき、自分はあまりに思考に没頭しすぎたせいで追跡に失敗してしまったのかと思った。くるくると己の尾を追いかけるようにその場で回ってみるが、確かに匂いはここまで来ている。が、ここで途切れているのだ。

 周囲を見回す。匂いを追跡しているうちに、街の外縁部まで来てしまっていた。建物は疎らになり、果樹園や畑が目につく。昨今の暖かい気候のせいか、甘く、半ば腐ったような匂いが漂ってきている。近くにいた羽虫を《銀糸》の先端で追い払う。エリの匂いが途切れた場所のすぐ傍らには果樹園の持ち主のものであろう納屋があった。地面の匂いが消えているということは、この屋根の上に飛び移ったのだろうか? だがその先は?

「フェンリル、どうしたの?」

 と背の上からイドゥンが問いかけてきたので、匂いの状態を説明してやった。

「納屋の中に入ったってこと?」

「違う。そっちに匂いは行ってない。建物の外で急に途切れているんだ」

 後ろからシグルドも追いついてきた。息ひとつ見出していない彼も首を傾げていたので、フェンリルは説明してやった。


 シグルドはイドゥンを一瞥し、フェンリルに視線を移し、それからさらに視線を下げた。彼が見ていたのはフェンリルの足元の地面だった。

 鞘に入ったままの剣でその場所を突くと、地面が四角く崩れた。地面に穴が掘られ、その上に草や苔を薄く被せた木の扉があったようだ。鼻をひくつかせる。その中から漂うエリの香は、目に見えるように濃密だった。

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