5.15. 魔狼フェンリル、黄金の林檎とともに戦乙女に相談に向かうこと
「うーむ………」
蜜酒の入った台座付きの角杯に口を付けていたブリュンヒルデは、桃色の唇を拭ってから唸った。中身の少なくなった角杯を手にしたその表情から、いつもは気安く危急の状況ですらもどこか真剣味が感じられない彼女が、いまは真面目に考えてくれているのであろうことがわかった。
場所が食事処であれば、昼餉だった。スリュムヘイムに来たばかりの頃に訪れた食事処で、フェンリルとイドゥンは宿に居たブリュンヒルデとシグルド、それにヨルムンガンドとともに昼餉に来ていた――同じく宿にいたヘルは「もう食べた」と言ってついては来なかったのだが。彼女は最近、単独行動を取っていて心配だ――と考えかけて、もともと彼女と同行するようになったのは〈力の滅亡〉以来であり、旅をしている以上は常に一緒だっただけで、つまりは必要に駆られて一緒だったというだけだったということを思い出す。ひとりでいるのが好きなのは彼女の性質なのかもしれない。
少なくともヘルに関していえば、スリュムヘイムへの旅をしていた頃よりも随分と顔色が良くなっていて、体調が回復していることはわかった。であれば心配することはなく、目の前の問題に集中できる。ヒュミルのことだ。フェンリルとイドゥンは《竜輪ニーベルング》のもとの持ち主であるブリュンヒルデに、ヒュミルへの使用を相談していたのだ。
「もう《竜輪》ってないの?」
「いや、あるよ。あるけど……」
となぜかブリュンヒルデは隣の〈狼被り〉を一瞥した。言葉を発さぬ彼は、横で無心にテーブルの上の物を片付け続けている。
「それは……できないと思う」とブリュンヒルデは言った。「《竜輪》はべつに大きさを変えるためのものではなく、力を抑えるためのものだ。フェンリルやヨルムンガンドの場合、呪力で身体を徐々に成長させていってあのくらいの大きな形態になった。だから、《竜輪》でその呪力を弱めると身体が小さくなった。でもあのヒュミルの巨体は、たぶん肉体がそのまま変質したんだと思う」
フェンリルはイドゥンを見た。彼女も首を傾げていた。
「えっと、簡単に言うとさ、フェンリルも《竜輪》を嵌めたからといって、人神の姿にはならなかったわけでしょ? ヒュミルが小さくならないっていうのも、それと同じだよ。どこかしらに影響は出ると思うけど、期待するような結果にはならないと思う」
というブリュンヒルデの補足に「じゃあ、ヒュミルに《竜輪》を嵌めても小さくなったりはしないってこと?」
「まぁ、そうだね……。そもそもきみたちみたいなのが珍しいんだ。すべての亡者がきみたちみたいに秩序正しい構造をしているわけじゃないんだよ。ふつうの亡者だと、呪力を弱めた結果、身体器官や臓器が機能不全を起こす可能性もある。試してみる気にはならないな」
ふむん、とフェンリルは唸った。確かに――と理解できるのは、フェンリルが《竜輪》を嵌めても人神の姿にはなれなかったということだ。そう、確かに初め、これは力を弱めるためのものだと説明されていた。長年蓄えて身体を膨らませていた力が抑えられた結果としてこの犬ほどの身体があるのであり、根本的に身体を元に戻すためのものではないと、そういうことだろう。
「秩序正しい構造って、どういうこと?」
と問いかけたのはテーブルの上で蜷局を巻いていたヨルムンガンドだった。
「簡単にいえば、きみらは犬や蛇にかなり近いんだよ。そのものではないけどね。見た目でわかるでしょ?」
「おれは狼だよ」
「でも羽が生えているし、言葉を喋ったりできるよ」とフェンリルの言葉を無視してヨルムンガンドが言った。
「そう。そういうふうにされているからね。でも、亡者っていうのは普通はそうじゃないんだ。ヒュミルを見ればわかるだろう? かなり無秩序な形をしている――あれは元がアース神族だというから、人神に近い形状をなんとか保ってはいるけどね」
逆に言うと、ブリュンヒルデはフェンリルやヨルムガンドが「秩序正しい構造」をしているということを知っていたから《竜輪》を与えたということか。秩序正しい構造というのは、人為的に人神の姿から獣の姿に変えられたからだろう。一般の亡者は、突然生まれてきたり、変化したりするものなのだ。
ちらとイドゥンを見やると、納得していないらしく、憮然とした表情をしていた??彼女のこうした表情を見るのは初めてだ。眉間に力が入り、桃色の柔らかそうな下唇を噛んでいる。
「イドゥン………」
思いつきは悪くなかったよ、努力はしたよ、でも駄目なんだよ、良くやったよ――そんなふうに慰めの声をかけようとしたときだった。
地面が揺れた。
テーブルの上に置かれた台座付き角杯が傾き、半ばまで入っていたその中身を喜々としてぶちまけようとしたが、太い手が伸びてきてそれを不正だ。シグルドだ。彼は片手でテーブルを軽く浮かせて揺れを軽減し、もう片手で器用に料理が溢れぬようにしていた。
「いまのは………」
呟くブリュンヒルデを余所に、イドゥンが店の外へと出ていく、フェンリルも追った。四足の鋭敏な感性は、地を揺らすほどの振動の大本がどこかを容易に理解させた――南だ。しかし揺れる地に触れずとも、誰もがその方向に原因があると理解していた。そこにはヒュミルがいるのだから。スリュムヘイムの南側の壊れた外壁は彼がいま直しているところなのだから。そして――聞こえてきたのだから。エリ、と。
「エリ、エリ」
猫背だった身体を伸ばすと、彼の上背は修復しつつあった外壁を超えていた。だから彼の姿が見えた。〈天の吠え手〉は、まさしく空に吠えていた。
「エリ――どこだ!?」
「イドゥン、おれが様子を見てくるから――」
きみはブリュンヒルデたちとともに、と言おうとしたが、既に遅かった。イドゥンは走り出していた。
小さな女の子の駆け足だ、すぐに追いつく――と彼女を追ったフェンリルは、人の波を掻き分けて街路を通り抜け、壁が近づいてもまだイドゥンに追いつけないことに驚愕した。それどころか、鎖と錘という2つの〈神々の宝物〉で多少動きにくくなっているとはいえ四足の獣であるフェンリルよりも速く、距離を離されていると感じる。スリュムヘイムまでの道中での動きを見る限り――いや、ほとんど筋肉などないような脂肪の塊のような足を見るだけでも、ここまで速く走れるとは思えない。
混乱しつつ走っていたが、途中で急激に速度が落ちた。もはや壁際である。フェンリルは機を逃さずに《銀糸グレイプニル》の触手を伸ばし、彼女の身体を絡め取った。
「イドゥン、急に走り出すのは………」
説教をしようとしたフェンリルの口が牙が見えるほどに開かれて止まったのは、イドゥンが苦しそうに見えたから。全身から汗が吹き出、喘ぎ、涎さえ滴っている。全力疾走したなら、フェンリルもこうなるだろう。ただし、この僅かな間を駆け抜けただけでこうなるのは余程のことだ。
どうすればいいのかさっぱりわからなかった。医者のところにでも連れていくべきなのか、動かさないべきなのか、自分の触手が不快なのか、服を緩めて楽にしてやったほうがいいのか。
何も決断する勇気がないまま、フェンリルはただイドゥンの手首に《銀糸》を巻きつけたままでじっと様子を確認することしかできなかった。
その間にも、壁の外では刻々と状況を変えていたらしい。
「エリ! エリヴァーガル! どこだ!」
ヒュミルの声は近づいただけ、いまやフェンリルの毛を揺らすほどだった。
彼自身が修復した高壁の間から見えるヒュミルの三つ首、関所となっている場所から見えるヒュミルの巨木のような足。
しかしそれらを前にしながら、スリュムヘイムの関所――ヒュミルにとっては用をなさない規模のそれを――背中に庇うようにして立つ男がいた。小柄で痩せた、赤目の男。
「止まりなさい、ヒュミル。ここから先に立ち入ってはならない。あなたはまだスリュムヘイムの中に入る許可を得ていない」
弓を手に立ち塞がっている男は、フェンリルが知り、フェンリルを知るアース神族――〈雪目〉だった。