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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.13. 魔狼フェンリル、天の吠え手の城壁作りを見学すること

 腹がちくちくする。《銀糸グレイプニル》の糸がざわつく。

「フェンリル、お腹痛いの?」

 イドゥンの問いに、フェンリルは首を振る。だがざわつく感覚に眉間に皺を寄せるのは止めることができなかった。フェンリルには距離があってもなお嗅ぎ分けられる刺激臭を感じていた。エリヴァーガルの館で嗅いだのと同じ臭いだ。密度がいっそう濃く、それだけではなく鼻につく。悪臭といってもよい。人神(じんしん)には気にはならない程度でも、狼の嗅覚を持つフェンリルは眉根を寄せずにはいられない。

 だがフェンリルほど鼻が良くない人神たち――フェンリルらと同様に、戦火を逃れた無事な城壁の上からスリュムヘイムの外の様子を見物している者たちのその表情には嫌悪が表れていた。それも当然のことだろう。


 ヒュミル。

 ヒュミル。

 ヒュミル!


 徒歩で9日夜離れた場所に住まう亡者が、スリュムヘイムの街の外にいた。

 ヒュミルの館では、その声を聞き、臭いを嗅いだきりで、ついぞ見えることはなかったが、目にしなくて正解だったかもしれない。ヒュミルはスリュムヘイムの崩れかけの高壁ほどに巨大だった。ヒュミルの身体は垢と泥で薄汚れていた。ヒュミルの腕は巨木よりも太かった。ヒュミルの腕は4つあり、ヒュミルの首は――3つあった。

 同じ亡者でありながら、フェンリルはヒュミルの姿を奇怪であり醜悪であると感じた。亡者とは状態であり、種族や民族を表すものではないからだ。フェンリルはじっと己の前足を見た。人神とは明らかに違うその前足を。もしフェンリルが狼であれば、この足を見ても奇怪とは感じないだろう。だがフェンリルは狼の姿をしているが、狼ではない――そう、犬と呼ばれると狼だと返してしまうのだけれども。巨人族の母から生まれたのだから、巨人族だ。母と暮らしていた。巨人族の母と。だからフェンリルにとっての正常は母の姿であり、己の姿は異形であった。

(ヒュミルも………)

 彼の妻、エリヴァーガルは言っていた。ヒュミルはかつてアース神族だった、と。であれば――であれば、ヒュミルも己の姿を醜いと感じているに違いない。醜いと思われたくないと思っているに違いない。嫌われたくないと考えているに違いない。であればこそ、こんなことをしているのだろう。


 フェンリルとイドゥンが高壁に登ってきたのは「亡者が城壁を修復する仕事を請け負った」という話を聞きつけて、その見物に来たからだった。ふたりには、時間があった。これからの行き先――すなわちウルについてスリュムヘイムに留まるか、それともフェンリルたちに同行するか――について、イドゥンには数日の考慮期間が与えられていたからだ。

 フェンリルは母を捜すという目的がある。その過程で、もしかするとフレイという彼女の兄には出会うかもしれない――護衛だったというチュールという男は喰らってしまったので会うことはないだろうが――であれば同行するという手もないではなかったが、〈ロキの呪われた三人の子〉との危険な道中に付き合わせずともスリュムヘイムに留まり、フェンリルたちがフレイに居場所を教えてやれば良いことなので、この街を出るという選択はないようなものだが、それでもイドゥンは考えることを選んだ。

 残された時間を、できるだけイドゥンと一緒に過ごしたいと思った。だから街のいろいろな場所に行き、この亡者の城壁作りもそんな物見のうちのひとつだった。


 亡者、ヒュミルはスリュムヘイムの外でせっせと働いていた――巨大な岩塊を引っ張ってきて、切り崩し、形を整え、壊れた壁を撤去し、その上に新たに整えた石材を積み、砂で整え、壁として形にする。巨体に見合わぬ細かな作業をずっと続けている。それだけだ。

 スリュムヘイムの住人である巨人族たちもその様子を見下ろしていたが、何も言わなかった。仔細については詳しくはないが、この城壁造りは彼ら巨人族の依頼だという。〈火の国の魔人〉やその他の災害の襲来に備えているのであろう。しかし己らを守る盾を作る者を見ているにしては、彼らの表情は曇っていた。


「イドゥン、街に戻ろうか」

 とフェンリルは声をかけたが、彼女を見上げはしなかった。フェンリルはイドゥンの顔を見るのが怖かった。彼女は――彼女は初対面でもフェンリルに怯えないでくれた貴重な人神だ。だがそれは彼女が単に犬や狼を怖がっていなかったからかもしれない。フェンリルがもっと奇怪な姿ならば??ヒュミルのような姿なら、声をあげて怯え、逃げ出したかもしれない。いや、かもしれない、ではない。そのはずだ。醜悪な姿に嫌悪感を示すのは、正体不明の脅威から身を守るための生きるものの本能のようなものだろう。だから、イドゥンがヒュミルに嫌悪感を示したとて、それは仕方のないことなのだ。むしろ、ヒュミルを醜悪と思わないほうが人神としては異常なのだ。

 どんなにか己を納得させようとしたフェンリルだったが、嫌われたら厭だ、という感情は屈服させることができなかった。だからイドゥンの表情は見えなかった。


 数日、そんな日が続いた。スリュムヘイムは平和で、出入りをする人神を眺めてイドゥンの知神(ちじん)を探す以外にはしなければならないことはなかった。だから、飽きたら散歩をしたり、買い物をしたり、ただ走り回ったり、宿に戻って寝っ転がったり、壁の上からヒュミルの修復を行うのを眺めた。亡者の城壁造りは目に見えて進んでいるらしかったが、奇妙なことに壁を眺めている巨人族の瞳の色は穏やかではなく、何か恐ろしいことを懸念しているように見えた。壁の上の巨人族は、徐々に増えていっているらしく、また彼らの関心も日毎に積み重なっているようだった。


「フェンリル、お昼ごはん食べに行こうか?」

 ある日、外壁を下りて通りに出たところで、イドゥンが言った。もう心の中のことはヒュミルから昼餉のことに移ってしまったようだ??そう感じれば安心して彼女の顔を見上げたが、イドゥンの表情はどこか曇っていた。やはりヒュミルの醜悪な外観に不快さを感じていたのか。あれが視界から消えても、不快感が拭えないのか。

「イドゥンーー」

 彼女の名前を呼んでから、なんと言うべきか迷った。ヒュミルが怖いのか。亡者が怖いのか。おれも??おれのことも怖いのか。嫌いなのか。チュールという、きみの庇護者を喰らったことを別にしても。

 いつかは恐れられることになるのだろう。嫌悪されることになるのだろう。それでも、それでもいまは厭だった。いま、この時という瞬間に嫌われるのは厭だった。


「フェンリル、あれ………」

 しかしイドゥンはそんな想いを気に留めておらず、通りの先、城壁の外へ通じる関所のほうを指差していた。正午に近い時間だけあって人通りは多かったが、彼女が何を示していたのかはすぐにわかった。 

 小柄な女性は明るい色の長い髪を編んで垂らしていた。力なく、視線を伏せて歩く姿は不安げな小動物を思わせた。

 ヒュミルがスリュムヘイムにいるのだから、彼女もここにいるのは不自然なことではない。

「エリ!」

 とイドゥンが大声で呼ぶと、彼女は瞳を丸くして吃驚とした表情になったあとに、親鳥のもとに辿り着いた雛のような安堵の表情を見せた。

「あなたがたは……無事にここに辿り着けたのですね。良かった」

 

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