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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.12. 魔狼フェンリル、力の滅亡を思い出すこと

 昼とは違い、夜のスリュムヘイムを行き交う影は少なかった。店構えを見るに、この街の住人が夜遊びを好まないというわけではなく、時勢であろう。この街は〈力の滅亡(ラグナレク)〉で直接被害は受けてはいないようだが、第一平面アースガルドにはほど近く、いくらか沈静化してきたとはいえ燃え盛る平面もよく見える。〈雪目〉のウルのようにアースガルドから逃亡してきた人神(じんしん)も受け入れているのであれば、現状の不安定な状態も肌で感じ取っているに違いない。

「いまのところ、危険な気配はないね………さて、どうしようか」

 ブリュンヒルデは呟いた。独り言ではなく、傍らのシグルドに聞こえるよう、だ。しかし彼が喋れず、ゆえに反応も返ってこないので、だいたい独り言のようなものだ。それでもめげずに、ブリュンヒルデは言葉を続けた。

「ウルだっけ、あの男は危険かもしれないね。〈黄金の林檎〉は危険な相手には渡したくはないな」


〈雪目〉が危険だと思う理由はみっつある。ひとつは彼の有無を言わさない観察眼で、強硬な態度と相まって嘘を吐くのが難しい。だがそれはそれほど重要ではない。嘘を見抜かれたからといって、〈神々の宝物〉を持たないただのアース神族に恐ることはないからだ。

 問題は残りのふたつで、彼はフレイに執着し、そしてまたイドゥンも手元に置こうとしているらしかった。ウルによる詰問はブリュンヒルデ以外に対してはおざなりなもので終わったが、最後に彼はイドゥンに対し、フレイかチュールを捜すのでしばらくはスリュムヘイムに留まるようにと言った。

 アース神族がヴァン神族の使者の娘を手元に置こうとするのは平時であれば理解できる行為だが、いまは異常事態だ。〈力の滅亡〉でアースガルドは燃え、アース神族とヴァン神族の大半が死んだ。であればその橋渡しとなる者を庇護する必要はないはずなのに、それでもイドゥンを手元に置こうとするのは、彼女の重要性の一端を知っているからかもしれない。


「あるいは、彼女に連なる者を、かな。街の外から……決闘があったという森からかな、魔法の気配が残っていたから、フレイは魔法を使ったのかもしれない。あの男は、それを見たのかな……さて、どう動くのかな。あの男がこの街で力を持っているっていうのも気になるんだよなぁ。本来、アース神族は厭われるべきだというのに」

 シグルドを一瞥するが、彼の表情に変わりはない。注意深く行き先を警戒しているように見えなくもないが、たぶん何も考えてはいないし、会話も右から左だろう。それでもブリュンヒルデは呟かずにはいられない。

「あとは……あの3人をどうするかは悩みどころだね。フェンリルとヨルムンガンドはともかく、ヘルがね……」と言葉にしながら、ヘルが下半身に纏っている異形の鎧を思い出す。「何を隠しているんだか。まったく、頭が痛いよ」

 ヘルの下半身の鎧、《殻鎧フヴェルゲルミル》はブリュンヒルデにその使命を刻んだ主神、オーディンですら知らない〈神々の宝物〉だ。いや、〈神々の宝物〉はオーディンらが作ったものなので、そのオーディンが知らない魔法の道具は〈神々の宝物〉とさえ呼べないかもしれない。謎の道具だ。でありながら、その道具は魔法の力を帯びている。それは間違いない。ヘルのあの足は、明らかに異形のそれで、それなのになお彼女を平然と活動させているのだから。

 オーディンの知らない魔法。それを生み出す可能性がある存在は幾つか思い浮かべることができるが、ブリュンヒルデはその具体的な脅威を理解できるほどに長い時間を生きてはいなかった。彼女が知る九世界の脅威や災厄、魔法の力といったもののほとんどは伝聞によってもたらされたものであり、現場的な体験を伴ってはいなかった。であるがゆえ、それらの脅威を知りながら心の底から感じることはできなかった――〈火竜〉ファヴニルに関するものを除いては。

 

「オーディンはさ、〈呪われた三人〉は死ぬべきだって思っているんだよ。九世界からは消えるべきなんだって」

 ブリュンヒルデはぽつりと言った。それは彼女が〈主神〉と仰ぐオーディンから直接聞いたことではなかったがーーブリュンヒルデは己の推測が真実であると確信していた。オーディンは〈呪われた三人〉の脅威をあらゆる点で理解しており、〈黄金の林檎〉を守れるという有用性さえなければすぐにでもその存在を抹消したがっているのだ。

「わたしは、でも、それが正しいのかどうか自信がない。きみはどう思う、シグルド?」

〈狼被り〉の巨体を見上げるが、返答はなく、彼はただブリュンヒルデの半歩前を先行するように歩いていた。いつもと変わらぬ通りに。

「きみに相談しても無駄だったね、シグルド」

 シグルドは肩を竦め、足を止めた。宿に戻って来た。


   ***

   ***


「ヘル、痛いの?」

 聞こえてきたのは少年のように甲高い声で、聞き手によっては耳障りに聞こえることもあるその声で、ヘルはいくらか心を落ち着けることができた。

「大丈夫………」

 ウルというアース神族に紹介された宿の、久々の清潔な寝台の上で寝転び、苦痛に顔を歪ませる姿は、「大丈夫」には見えないだろうという自覚はないではなかったが、ヘルは虚勢を張った。フェンリルもイドゥンもブリュンヒルデもシグルドも外に出ていて、痛みを我慢する必要がなかったかと思えば、傍らにはヨルムンガンドがいるのだ。

「それはお伽話?」

「嘘かってこと?」

「そう。それ」

「うん……そうかもしれない」とヘルは騙せない嘘を吐くのをやめた。「身体が痛いよ。特に下半身が痛い」

「それは、イドゥンやブリュンヒルデみたいに歩き疲れたというのとは違う理由?」

「うん………身体が腐りかかっているから、だと思う」

 じぃと〈世界蛇〉の黄金色の視線がヘルの下半身を這った。ヘルの足。奇妙に捩じくれ、細まったヘルの足を。


「どうして?」

「そういうふうにされたから」

 ヘルは今でも思い出せる。自分の足が、身体がまともだった頃のことを。すべてはロキの??あの〈狼の母〉のせいだ。

「どうすれば治るの?」

「治らないよ」

「痛みを抑えることも?」

 その問いが純粋な好奇心から投げかけられたものなのか、それともきょうだいであるヘルのことを心配して尋ねてくれているのか、ヘルにはその細い瞳孔を見て判断することはできなかった。ミッドガルドに落ちてからヨルムンガンドとは会話はできるようになりはしたが、思えばなぜ一緒に行動してくれるのかは謎だった。ヨルムンガンドにはフェンリルのように、母に対する執着があるわけではないし、きょうだいに対していくらかでも記憶があるようには見えない。


 唯一、ヨルムンガンドが執着していたように見えたのは、あの〈雷神〉だけだ。


 改めて〈力の滅亡(ラグナレク)〉のことを思い出せば、蛇に表情はなかったが、〈雷神〉との戦いにおいては歓喜しているようにも見えた。戦い始めた直後は。しかしフェンリルとともにヴァルハラ都に向かって戻って来る間に、ヨルムンガンドは〈雷神〉に対し、ほとんど敗北を喫していた。どんな目的があってアースガルド最強と名高い〈雷神〉に挑んだのかはわからないが、ヨルムンガンドなりに理由があったのかもしれない。しかし、負けた。ヘルたちが??というより、あの〈狼被り〉が割って入らなければ、死んでいただろう。

 ヨルムンガンドのもともとの目的が〈雷神〉と戦い、そして勝つことなのであれば??であれば、ヨルムンガンドはあの〈力の滅亡〉で、生きる目的を失ったのかもしれない。


 そんなふうにヨルムンガンドの思考を想像していたヘルは、己の右腕にーー正確にいえば右腕に嵌めていた手甲に起きていた変化に気づくのが遅れた。

「癒すこと、それはあらゆる傷について容易ではない。しかし和らげることは可能だ」

 その静かな声はヘルの右手甲から発せられていた。いや、もはや右手に嵌っていたのは単なる手甲ではなかった。手首の装飾が歪に捻れてから、飴細工のように引き伸ばされた。細く伸びるそれは初めは蛇に似ていたが、やがて鶏冠と鋭い角が生えてきた。

「〈世界蛇(ミズガルズオルム)〉よ、おまえと同じ胎から産まれた者を助けたいと願うか」

 もう一度、静かな声が宿室に響いた。今度はヘルの手甲から生える角のある蛇に似たその細長い生き物の口が動いたため、それが喋っていることがはっきりとわかった。


「蛇」

 と感情の色のないヨルムンガンドの呟きに対し、手甲の生き物の声はどこか拗ねた調子があった。

「わたしは龍だ。蛇と一緒にしないでほしい……〈世界蛇〉よ、ヘルのためにその身を犠牲にする覚悟があるか?」

「待って、ニドヘグ」

 突然の事態にーーすなわち、その存在をひた隠しにしてきたはずの〈邪龍(ニドヘグ)〉が突如その身を表すという事態に唖然としていたヘルだったが、慌ててその細長い身を抑えようとした。だがニドヘグはするりとヘルの左手を避けた。

「ヘル、おまえの身体はもはや限界に近い。呪力が足りていないのだ。わたしを通して呪力を吸収してもたかが知れている。これでは時間の問題だ。おまえの身体を保つためには、吸収する絶対量を増やすしかない」

「でも………」

「あなたは誰?」

 とヨルムンガンドが慌てた様子を見せずに問いかけてくる。

「〈邪龍〉ニドヘグ。かつては〈九世界の災厄〉と呼ばれし者たちの一柱だ――ヨルムンガンドよ、もう一度尋ねよう。ヘルのために身体を捧げる気はあるか? できないのであれば、わたしのことは忘れろ。わたしはあの忌々しい〈火の国の魔人(スルト)〉や〈独眼の主神(オーディン)〉に命を狙われる身ゆえ、この子の身体に身を隠しているのだから」

 ほとんど考える間を置かずに、ヨルムンガンドは答えた。

「よくわからないけど、ヘルの身体が良くなるんだったらいいよ」


   ***

   ***


 燃え盛るアースガルドのおかげで日中は暖かくはあったが、夜の宿の屋上の風は少し冷たい。だからフェンリルはイドゥンの身体を風から遮るように丸くなってやっていた。

「イドゥン、寒くない?」

「大丈夫だけど……フェンリルは寒い?」

「おれは毛皮があるから」

「そう」

 イドゥンの視線は下方の人通りのない街並みに向いていた。宿の主人に聞くところによれば、昨今の異常事態で夜出歩く者は少なく、危険な目に遭うやもしれないので暗くなってからはあまり出歩かないほうが懸命だ、ということだった。

 街は暗く、寝静まっていて、しかし確かに人神が息衝いているのを感じた。フェンリルは特段、人神の多い都会で暮らしたい、などと思ったことはなく、ただ母と一緒にいられればそれで良かったのだが、さりとてこうした街が嫌いというわけでもなかった。人神が己のことを厭わないでいてくれれば、という条件付きになるが――少なくとも食事処からの道でイドゥンたちと一緒に歩いている限りでは、矢を射かけられることもなく、無事に街を歩くことはできた。

 だが、いつまでもここにはいられまい。


「フェンリルはこれからどうするの?」

 イドゥンがそんなふうに尋ねてきたのは、この街でイドゥンたちとフェンリルたちは別れることになるからだろう。

 彼女の目的は、庇護してくれる者を捜すことだ。この街にいるアース神族、〈雪目(ウル)〉は彼女にとって完全に信用に足る人物ではないだろうが、彼女の兄であるフレイというヴァン神族や護衛であったチュールというアース神族が見つかるように手を尽くすので、彼女を一時的な庇護下におきたいと申し出てきた。

〈雪目〉という男はフェンリルにとっては味方ではないが――敵でもなかった。アース神族に疎まれたフェンリルにとって、それは貴重な存在であり、信頼できる相手といっても良かった。安息地を求めていたブリュンヒルデもおそらく残るだろう。であればシグルドも。

 ブリュンヒルデはともかく、あの〈狼被り〉は他に類を見ないほど強大な存在だとフェンリルは悟っていた。人間族の見た目からは想像できないほどの強者であり、一種の――フェンリルのような見た目がそうである者たちとはまた別の、化物といえるかもしれない。おそらくはアースガルドで見た〈雷神〉やエリヴァーガルの館で声だけを聞いた巨大な亡者、ヒュミルなどよりも恐ろしい力を持っている。彼がいれば、ひとまずこの街は安全だといえるだろう。


 彼女とは短い旅だった。アースガルドで倒れ伏している彼女を助けてから、わずかに十日程度だ。

「フェンリル、毛繕いしてあげようか」

 イドゥンは急に明るい声を出し、フェンリルの毛並みに飛びついてきた。彼女の身体は小さく軽いので、〈魔狼〉の巨体ではなくてもフェンリルの身体はびくともしない。

 毛皮を撫でるイドゥンの指先を感じながら、フェンリルは彼女も別れを惜しんでくれていることがわかり、それを嬉しく思った。ここで別れるのが最善なのだ。彼女に嫌われないためには。


 この可愛らしい少女は、きっとフェンリルのことを憎むだろう――もし彼女が、探している神物であるチュールという男をフェンリルが喰い殺したと知ったら。だから、その前に別れるのが良いのだ。

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