5.11. 魔狼フェンリル、己を知る雪目と出会うこと
痩せていて小柄な赤い目の男のことを、フェンリルは知っていた。
彼――〈雪目〉はフェンリルが知る多くの男のように、母であるロキのことを害したりはしなかった。彼は富饒なアース神族の中では珍しくヴァルハラ都を出て狩りで生計を立てており、野山で見かける〈雪目〉は弓を携えていて、その正確無比な腕前は飛ぶ鳥を落とすほどだった。
同じく森に住んでいるロキと出会うとき、彼は害はなさなかったが――可能な限りロキを避けているように見えた。だが稀に物々交換をしてくれることもあった。特に必要以上の会話はなく、彼の人格は窺い知れなかったが。
フェンリルは一度だけ、彼の矢に狙われたことがあった。ロキと暮らしていた頃――つまり、まだ《竜輪ニーベルング》の力を借りずとも犬ほどの大きさだった頃で、母の庇護下で自由に野山を駆け回っていた頃だ。どこから撃っているのかもわからないほどの距離から矢が飛んできた。フェンリルがそれを避けることができたのは偶然で、目の前に飛び出してきた兎とじゃれ合おうとしなければ、耳が欠ける程度のことでは済まなかったに違いない。
矢の装飾で、のちに彼が〈雪目〉だということをロキから教わった。
その後、しばらくしてまた〈雪目〉に出会うことがあった。今度は遠距離から弓矢で狙われるという形ではなく、ばったりと近距離で出くわしたのだ。彼は弓を構え、矢を番え――しかし撃たなかった。フェンリルがすぐさま腹を上にして降参のポーズを取っていたからかもしれない。とにかく彼は、フェンリルに知性を認めてくれて、そのまま逃してくれた。
それからは〈雪目〉に撃たれるかも、という恐怖をフェンリルは忘れた。実際、森の中で出くわしたとき、彼はフェンリルを撃つことはなかった。特段の会話などなく、お互いに逃げるように去るのが常だったが。しばらくしてから、彼は森を訪れなくなった。
彼の話をしたとき、ロキが「戦争が始まったからかもね」と説明してくれたのを覚えている。当時も何度目かわからないような、アース神族と他民族との戦争があった。彼の弓の腕前は、非凡であり、兵として徴収されたのだ。
いま、目の前にいる〈雪目〉の瞳の色は変わってはいなかったが、かつてフェンリルが見た頃とは、どこか違っているように見えた。
「イドゥンはご存知でしょうが、ここはもともとはフレイの細君の経営していた食事処だった場所です」
と〈雪目〉のウルが静かな声で説明したとおり、場所はスリュムヘイムの中心街から少し外れた場所にある食事処だった。石造りの多いアースガルドとは違って多くが木造建築であるミッドガルドらしい平屋の建物で、席数は多くはなかったが、獣連れの客を入れてくれたので待遇は良かったといえる。他に客がいなかったが、清潔な店内が不人気であるとは思えなかったので、ウルが貸切でもしたのかもしれない。
時刻は昼餉には少し遅くはあったが、昼食は摂らずにこの街を目指してきたので、腹は減っている。減っているが、ウルがすぐ傍にいるという事実が「話なんてあとにして早く飯にしよう」と述べることを妨害していた。彼がフェンリルに気づいているのかどうかがわからなかったのだ。
「ウル、どんな話があるのかわからないけど、先にご飯を食べていい?」
と〈雪目〉の隣に座る――あるいは座らされたイドゥンが言ってくれた。
彼は一度溜め息を吐いてから、どうぞ、と言って注文を取る機会を与えてくれた。店員に次々に注文を述べていくブリュンヒルデやイドゥンを横目に、自分も何か頼みたいと思ったフェンリルだったが、〈雪目〉の手前、〈魔狼〉とばれてはいけないので下手なことはできない。
「フェンリル、きみも何か食べたいものがあるなら頼んでいいですよ」
だが、ウルがそう言ったことで、彼がかつて森で出会った〈魔狼〉の姿を覚えていたことを知った。
「ばれていたのか」
「鉄球のついた鎖をぶら下げている狼なんて、そのへんにはいませんよ。それに、何度か森で会いましたからね……。それで、巨大な〈魔狼〉になっていたきみが、なんであのときの大きさになっているんですか?」
彼の言う通り、フェンリルには《銀糸グレイプニル》だけではなく《封錘レージング》と《縛鎖ドローミ》というふたつの〈神々の宝物〉が絡んでいる。このふたつの〈宝物〉は装着者によって大きさを変えるらしく、《竜輪》を付けている現在は小さくなってはいるのだが、目立たないほど、とは言い難い。
「いろいろあった」
「いろいろってね………」
「あの、ウル」とイドゥンが口を挟む。「フェンリルは、悪い子じゃないよ」
ウルはまた溜め息を吐いた。「知っています」
ともかくとして腹を満たす機会を得たのだから、好き放題に食事を注文した。
「まずあなたたちの素性を――検問所で語った偽りではない素性を聞きたいのですが……教えてもらえますか?」
店員が去ってから、ウルはまずそう切り出した。
「わたしはブリュンヒルデ。アース神族で、軍に所属していました。こっちはシグルドで、〈狼被り〉です。彼らとは、アースガルドから一緒に逃げ出して、そのまま同行している」
最初にすらすらと応答したブリュンヒルデに対し、ウルが向けたのは猜疑の視線だった。「3つ疑問があります。ひとつ。あなたは軍属と言いましたが、同じく軍属だったぼくはあなたを知らない。ふたつ。〈狼被り〉がこんな理性的な瞳をしているのは見たことがない。みっつ。〈狼被り〉だという彼の剣が明らかに〈神々の宝物〉にしか見えない……3つと言いましたが、よっつ目。なぜあなたはイドゥンやフェンリルらと一緒に行動を?」
「あー、まずひとつ目ですけど、わたしは第五世界リュッツホルムに偵察任務に行っていた。巨人族との戦争のまえから、随分と長いこと。あなたは戦争のまえに徴兵されてきたんですっけ? だから会う機会がなかったのでしょう」
「偵察? なぜ第五世界に?」
「なぜと言われても、主命ですから」
「そういう意味ではありません。人間族との戦争はこれまで一度もなかったはず。それなのに、主神が人間族を警戒する理由は?」
「それは……主命であれば、詳しいことは話せません」
「嘘は吐かないように。この状況下で、主命も何もないでしょうに」
ウルは痩せた小男でありながら、その赤目には圧迫感がある。
しばらく黙っていたブリュンヒルデだったが、料理が運ばれてきて、しかしウルがそれに手をつけることが許してくれないとなると、諦めたようにブリュンヒルデは唸って言った。「受けていた任は、《聖剣グラム》が使える人間族の確保」
しばらくの間、〈雪目〉はブリュンヒルデのことを眺めていた。
「嘘は言っていないようですね……〈聖剣〉とは彼の持つその剣ですか?」
「そう」
「なぜこの剣を人間族に? 使える人間族の確保というのは、何か理由が?」
「そこまでは知らない。ただ、グラムは〈三剣〉だとか呼ばれるもののうちの一振りだって話」
「ふむ」とウルは己の顎を撫でる。「知らない、というのは嘘ですね。〈三剣〉とは、フレイの剣と同じですが……」
「あなたがどれだけ自分の観察眼に自信があるのかは知らないが、右から左で嘘だ嘘だと言われていたらたまらない」
「それは申し訳有りませんが、既にあなたは一度、己の語ったことを嘘だと認めています。その上で――」
「ウル」いささか険悪な雰囲気が流れ始めたところで割り込んだのは、イドゥンだった。「フレイの行方、知ってる? もしかして、この街に来ているの?」
〈雪目〉はイドゥンを一瞥して溜め息を吐いた。
「いえ、フレイはスリュムヘイムには来てはいません。ゲルドも。ふたりがいま、どうしているかはわかりませんが……少なくともラグナレクのとき、ヴァルハラまでは来ていたようです」
「誰かがそう言ったの?」
「ヴァルハラのギャラスキャルヴに《赤球ギャルプグレイプ》が落ちていました」
知らない単語が出て来たな、と感じたフェンリルは、鼻先でイドゥンの白い足を突いた。
「《赤球》は、最強の巨人族だっていう〈金の鬣〉っていうひとが持っていた〈宝物〉だよ」
とイドゥンが説明するところでは、かつてこの街、スリュムヘイムでひとつの決闘があったらしい。決闘を担う片方は《妖剣ユングヴィ》を持つ〈妖精王〉。イドゥンの兄だという男、フレイ。
もう片方が〈神殺し〉の異名を持つ巨人族、フルングニル。そしてこの男が持っていた〈宝物〉こそが《赤球ギャルプグレイプ》――鎖付きの双鉄球だった。
〈妖精王〉と〈神殺し〉はスリュムヘイムを賭けて街の外の森で戦い、〈妖精王〉は辛くも勝利を収めたが、犠牲は大きかった。彼は片足と、己の〈神々の宝物〉を失った。死の間際放った〈神殺し〉の鎖は〈妖精王〉の剣に絡み、そのまま鉄球とともに固まって使えなくなってしまったのだという。
「フレイはもう使うつもりがないということで、ユングヴィは封印されたままでヴァラスキャルヴの武器庫に保存されていました。ですがラグナレクのあの日、出撃しようとしたときに解放された《赤球》が落ちているのを見たのです」
「誰かが《赤球》を壊してユングヴィを取り出すことに成功したってこと?」
「それなら、フレイがヴァルハラに来たとは断定できません。そうではないのです」とウルは語った。「《赤球》にはどこも破壊された形跡はありませんでした。ただ、絡まった鎖が外されて、絡みついていたユングヴィがなくなっていただけです――フルングニルの最後の力か、あの《赤球》は誰が掴んでも操ることはできませんでした。おそらくは、フルングニル以外の人神には扱うことはできないでしょう。ですが、《妖剣》はフレイを使用者として認めていました」
「フレイは、もうユングヴィは取り外せないって言ってたよ」
「ぼくは彼のあの言葉が、真実だとは思っていません。そしてフレイの力は、あの剣だけではないと思っています」
〈雪目〉の赤い瞳は、奇妙な色を孕んでいた。フェンリルは表情から相手の心が読み取れるほどに成熟してはいなかったが、代わりに強い嗅覚を持っていた。彼の香りが示した感情は、恐れだった。