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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.10. 魔狼フェンリル、壁の崩れた街に辿り着くこと

 見張りの男は巨大ではあったが、ヒュミルの館での出来事を考えれば、天を衝くほど、とは形容はできなかった。せいぜいが〈狼被り(ウーフヘジン)〉のシグルドより少し大きいくらいで、人神のサイズからは逸脱してはいない。であれば、多少は気が楽であったが、それでも緊張感を持たずにはいられない。

 というのも、スリュムヘイムという街に入るための検問所で、フェンリルたちは調べを受けている真っ最中だからだ。不審に思われるような下手な行動はできないからだ。黙って耳を伏せているしかないからだーー正しくは、調べを受けているのはフェンリルではなく、ヘルとイドゥンとブリュンヒルデ、それにシグルドだった。狼の姿のフェンリルはヘルたちの連れている番犬ということで誤魔化していて、有翼の蛇という異形のヨルムンガンドはシグルドの背負う雑嚢の中に紛れ込んでいた。

「〈魔狼〉と〈世界蛇〉の名前は大きいからね」と検問所に向かうまえにブリュンヒルデが言っていたのを思い出す。「喋る犬や蛇を見ただけですぐに結びつけるひとはいないと思うけど……まぁ念のため」

 おれは犬じゃなくて狼だよ、といつものように返しはしたものの、フェンリルはそれ以外の点には異論を唱えたりはしなかった。ブリュンヒルデの《竜輪ニーベルング》によって形も力も押さえつけてはいるものの、通常時は異形のそれであることに違いはないのだ。


 やり取りに聞き耳を立てながら、フェンリルにはその応答とは別にひとつ気にかかることがあった。


 検問所の検査官と応答しているのは主にブリュンヒルデで、ヘルは耳を欹てながら黙っている。彼女の腰から下はスカートのように巻いた布で覆い隠されていて、その異形の鎧は見えない。

(ヘルは大丈夫なのかな………)

 ヘルの亡者としての異常性は、フェンリルやヨルムガンドのように全身に生じているわけではないらしい。だが下半身に限ってのみいえば、彼女はフェンリルたちより異常な姿に見える。下半身だけを覆う鎧はところどころが肉どころか骨さえも詰まっていないかのように細く、棒のようなのだ。これでよく生きていけるものだと感心するほどで、しかもヘルはその鎧を一度も脱いでいない。

 おしっこや大便はどうするのだろうという疑問があったが、ヘルが不浄に立つ姿を見たことはない。隠れてしているのか、それとも便が出ないのか。臭いを嗅げばわかるのではないかと思ったこともあったが、ヘルの下半身を隠す鎧から発せられる匂いは、何もないところよりも匂いがなく、何も感じないのに鼻が詰まったような奇妙な感覚があってよくわからなかった。

 ヘルとは長い間、会っていなかった。特段深い記憶があるわけでもない。だがきょうだいだったし、何より、フェンリルはロキの言葉を覚えていた。きょうだいとは協力しあって生きていけというのと同時に「女の子には優しくしてあげてね」というのもロキの教えだったのだ。ヘルはきょうだいであり、女だ。でなくても彼女の顔はーー不機嫌そうな顔か怒ったような表情しか見せないことを除けばーーロキに似ていて、ヘルは彼女のことを支えてやりたいと思っていた。


「終わった終わった。じゃあ、行こうか」

 と検問所でのやり取りを終えたブリュンヒルデが笑顔で言った。検問はさほど時間がかからなかったが、だいたいの時間を彼女が喋っていた。彼女は〈力の滅亡(ラグナレク)〉から逃れてきたということを正直に話してはいたが、己がアース神族であるとは言わず、人間族であると詐称しており、イドゥンがヴァン神族の重要神物(じんぶつ)であるということや、フェンリルやヨルムンガンドの正体については隠していた。

 革鎧を身に着けた検問官らしき巨人族は、通常していない検問をしていることについては申し訳ないと謝りつつも、「必要な措置だ」とも言っていたが、具体的に何を警戒しているのかまでは説明してくれなかった。


「警戒しているのは、ひとつには、〈火の国の魔人(スルト)〉だろうね」とブリュンヒルデは先頭に立って歩きながら言った。「でもあれを本当に警戒するのなら、検問所なんて立てても無駄だからなぁ……それくらいのことはわかるだろうし、本当の狙いはアース神族かもね」

「あんた、よくアース神族だってばれなかったな」とヘルが言った。

「そりゃ、わたしは見るからに人畜無害だからね。ひとに危害を加えるようには見えないんだから、アース神族かもと思われることはあっても、大して疑われもしないさ。実際、そういうのは無理だし」とブリュンヒルデは自慢になるのかならないのかよくわからないことで胸を張ってから、真面目な表情になる。「この街は先の戦争で大きな被害を受けているからね……恐れられているのは、力のあるアース神族だよ。〈神々の宝物〉を持つ、ね。彼らに対する憎悪は根深いだろうさ」


 スリュムヘイムという場所は城塞都市らしく、周囲を高い壁に囲まれていたーーある程度の部分は。おそらく都市を中心に円形に築かれていたのだろう外壁はところどころがところどころが崩れている。そこに最初から壁がなかったのではなく、おそらくは戦争によって崩されたものであろうということは、周囲に瓦礫が転がっていることからも推測がついた。検問所は、スリュムヘイムの正規の門の前にはなく、そんなふうに崩れた壁のまえに設けられているらしかった。

 そして崩れた部分を越え、外壁の内側の農地らしい場所も越えると、人神(じんしん)が往来する明るい街並みが広がっていた。


   ***

   ***


 ヒュミルの館からスリュムヘイムまでは9日間かかっていた。エリヴァーガルから分けてもらった食料は早々に尽き、道中で獣を仕留めたり、湧き水を見つけたりしながらなんとか辿り着いた。これまでニヴルヘイムで生きてきたヘルにとっては楽な道程ではあったが、特にイドゥンやブリュンヒルデに関しては辛い道中だったらしく、彼女らの顔は綻んでいた。

「ここは来たことがあるな」

 とヘルがスリュムヘイムの街並みを呟くと「そうなの?」とシグルドの雑嚢からヨルムガンドが顔を覗かせて問いかけた。雑嚢に蛇が入っているのは少々不自然ではあるが、賑やかな街並みの中であれば、よもや蛇が喋っているなどとは思われないに違いない。ヘルが雑嚢に手を伸ばすと、ヨルムンガンドは身体を伸ばしてヘルの腕を伝い、外套の中にその身体を押し込んだ。

「ミッドガルドに登ってくるまえだね。確か、ここはアース神族と巨人族の戦争の初戦の舞台になった場所だって聞いた。あそこのーー」とヘルは街の中央にある崩れた高城を指す。「高い建物が〈雷神〉の一撃で崩されたんだってさ」

雷神(トール)〉の名前が出たとき、外套の首元からそっと顔を出していたヨルムンガンドはじっと高城の崩れた尖塔を見ていた。その黄金の瞳はきょうだいであるヘルやフェンリルと同じ色ではあったが、蛇の瞳からは感情は読み取れない。


 そういえば、とかつてヘルがこの街を訪れたのは〈世界蛇(ヨルムンガンド)〉が現れたという噂を聞きつけたからだったということを思い出す。この街の近くで、ヨルムンガンドは〈雷神(トール)〉と戦ったのだ。ヨルムンガンドは、〈雷神〉と戦い、敗北した。その後、アースガルドにまで飛んで行ってまた戦った。

 アースガルドではあれだけ〈雷神〉に執着しているように見えたヨルムンガンドだったが、ミッドガルドに来てからは彼の話題を一切することはなかった。ただ九世界の知識は徐々にーーいや、急速に吸収しているように見えた。ヨルムンガンドの特殊な点は、その異形のみならず、どんな物事でも覚えてしまうことにあるような気がした。ほとんど人神と交わることなく海で暮らしていながら、ときおり陸から聞こえてくる言葉を覚えて会話をしてしまうほどなのだ。異才といえるほどのものであるのだが、ヘルにはその才が心配だった。

 いまは小さな蛇のヨルムンガンドであるが、《竜輪ニーベルング》を外せば巨大な〈世界蛇〉と化す。アースガルドでの〈雷神〉との無秩序な戦いは、グラズヘイムの街並みを薙ぎ倒し、幾人もの人神(じんしん)が死んだ――〈雷神〉も〈世界蛇〉も、その力の強大さゆえに何人殺したかなどとは気を留めていなかっただろうが。


 ヘルたちは亡者である。亡者であるからといって、それそのものが害になるわけではないが、異常な形質を持つ亡者は人神からは疎まれ、ニヴルヘイムへと棄てられる。

 だからといって、人神とは完全に交流を絶つことはできない。どんな異形か知れぬヒュミルですら、どのような契約があったかはわからないがエリヴァーガルという妻を持ち、彼女を通して外界と通じている。亡者だけでは生きてはいけない。だから、ヨルムンガンドには人神に恐れられる〈世界蛇〉ではなく、人神との関わり合いを知ってほしい。その命の大切さを学んで欲しい。

(それに、フェンリルも………)

 フェンリルの場合はヨルムンガンドとは話は違う。彼は〈狼の母(ロキ)〉と暮らしていたため、他の人神との交流は少なかったものの、一般的な常識というものは知っている。

 だが彼はアース神族を殺した。〈力の滅亡(ラグナレク)〉で楔から放たれて暴走状態だったときに。その相手がイドゥンの探すチュールだとかいうアース神族だったのは皮肉的だが、ふたりともそれに気づいていないようなのは幸いだ。イドゥンという娘は、この道中で触れ合う限りでは、少々世間知らずの面もないではないが、良い子だと感じている。特にフェンリルやヨルムンガンドに物怖じしないのが良い。彼女の存在が、フェンリルらと人神との橋渡しになってくれればと思わずにはいられない。


 そのイドゥンだが、明るい街並みや行き交う人神を見て一度は綻んでいた表情が、どこか暗い色を怯えているのに気づいた。

「イドゥン、大丈夫?」と目聡くその様子を嗅ぎ取ったフェンリルが尋ねた。「知らないところだから、不安?」

「あっ、ううん。わたしもここには来たことがあるんだ。たぶん、ヘルと同じくらいの時期だと思う。戦争の時期だから。だから、そういう不安なんじゃなくて………」イドゥンは一度言葉を切ってから、意を決したように言った。「たぶん、ブリュンヒルデの言うとおり、ここではアース神族は嫌われていると思う。だから、ここじゃあチュールには会えないかもな、と思って」

 もはやフェンリルの腹に収まっている彼には永遠には会えない、などとはヘルは言わなかった。代わりにフェンリルが、慰めるように彼女の手の甲に己の頭を擦り付けた。

 確かにアース神族といえば黒髪もしくは白髪で比較的小柄なものが多い印象だが、街を行き交う人神の多くはアース神族ではないように見える。人間族もあまりいないだろうので、ブリュンヒルデやシグルドは少々目立つかもしれないーーブリュンヒルデという女はどんな恰好をしていても目立つような気がしたが。

「ま、とりあえずもうすぐ暗くなるし、宿をとって飯でも食べよう」

 とそのブリュンヒルデが言ったときだった。


「あなたはアース神族ですね」


 声は雑踏の奥から歩み寄ってきた男によって投げかけられた。男にしては小柄だったが、やや低音の声質を持ったその人物の鋭い目は、戦線をくぐり抜けてきた兵士のそれに見えた。彼はウルと名乗った。

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