5.9. 魔狼フェンリル、耳の後ろを掻かれる夢を見ること
台所は巨大ではあったが、鍋や炉などは人並みの大きさで、これらはエリヴァーガルが使うために作られているのだろうと想像がついた。甕や壺といった貯蔵用の容器は巨大ではあったが、下のほうに栓があり、それを外すとエリの身体でも簡単に中身が取り出せるようになっているらしい。エリは水瓶から水を汲み、茶葉とともに入れた薬缶を火にかけた。
「お茶は嫌いではありませんか?」
とエリが問いかけてきたが、ヘルとしては飲めるものならなんでもいいという気分だった。ニヴルヘイムにあったのは、飲んだら死ぬ水と、身体に悪い水だけだった。
ヒュミルに合わせたのであろうテーブルや椅子は巨大過ぎたため、各々が床の上に座る。
「口に合うと良いのですが……。家を出た息子もこのお茶が好きだったのですが」
エリが注いだ茶は鮮やかな琥珀色で、清涼感のある香りがした。彼女はフェンリルやヨルムンガンドがただの獣ではなく亡者であると気づいているのか、彼らのぶんまでは小皿に注ぐという形で用意してくれた。
「あなたには息子がいるのか」
とヘルは何気なく訊いた。エリは妙齢の女性に見えたが、どこか幼いところがあるようにも見え、独り立ちするほどの年齢の子どもがいるようには見えなかった。
「ええ、もう長いこと会っていませんが……チュールといいます」
エリがそう答えたとき、視界の端でブリュンヒルデとイドゥンが視線を交えるのが見えた。チュールという名前に反応したのだろう。
(イドゥンが探している男か)
もちろん同名の別神という可能性はないではない。ヘルはチュールという男については、フェンリルに喰われる直前に見た驚愕の表情以外には知らないので、なんとも言えない。少なくともチュールとエリが似ているようには見えない。
「チュールという名はーー」とブリュンヒルデが茶に口をつけて、探るような言葉で言った。「アースガルドで聞いたことがありますね。あなたはアース神族?」
「いえ、わたしは巨人族です。夫はアース神族でしたが」
でした、という言い方は、ヒュミルがいまはアース神族とは形容できない容姿だからだろう。亡者だ。そしてやはり、フェンリルたちが推測したようにヒュミルは彼女の夫らしい。
「チュールはこの家には帰ってくることはあるのですか?」
「いえ、一度もありません……これからもないでしょう。たとえアースガルドが壊れたとしても。あなたたちはチュールのことをご存知なのですか?」
そう問われて、ヘルたちは順に名乗った。念のため、詳しい経歴は伏せ、イドゥンもチュールとの関係性ーーヴァン神族の重要人物として護られていたということーーについては話さなかった。
「あなたと……あなたと」とエリはヘル、フェンリル、そしてヨルムンガンドを順に見ていく。「あなたは亡者ですね。ただの狼や蛇ではなく」
「亡者って、なに?」
とヨルムンガンドが少年のような高い声で問いかけた。
「亡者は人でも神から産まれながら、人でも神でもないものです……ほとんどが先天的なものですが、後天的になる者もいます。ヒュミルもそうだと聞いています」
「エリ、訊きたいことがあるんですけど、いい?」
とブリュンヒルデが問おうとしたが、エリは問いを投げかけられるまえに答えた。「近くの街のことですね? ここから北に進んでいけば、スリュムヘイムという街があります。少しまえの戦争で壊れましたが、ある程度は復興したと聞いています。あなたがたがどこへ行くかは知りませんが、都合が悪い場所ではありません。馬がないなら数日かかるでしょうが、わたしの馬を貸すことまではできません。どうせあなたがた全員は乗れませんし。でも、少しだけなら食料や水を分けることならできます」
「それはありがたい。馬がないのは……まぁどうにかします」
「あなたは馬を持っているのか?」
と驚いてヘルは尋ねた。
「それは……もちろん」ときょとんとしてエリは頷く。「ここは街から離れた僻地ですから、馬は必要です。肉や魚はヒュミルが獲ってきてくれますが、ほかの食料品や日用品は買わないわけにはいきませんから」
「では、あなたはなぜーー」
ヒュミルという男から逃げないのか、と訊こうとしかけたヘルの腕をブリュンヒルデが引っ張った。一瞥すると、彼女は視線を僅かに伏せて少しだけ首を振った。
***
***
鳥と虫の音が聞こえる。第一平面アースガルドを燃やし尽くした浄化の炎は隣接する第二平面ミッドガルドにも大きな影響を与えている。夜でも煌々と燃え盛るアースガルドの炎は、しかし昨日より少し落ち着いているように見えた。九世界は幾度となく〈災厄〉の脅威に晒されているという話があり、その度に平面や世界が壊されはするものの、〈世界樹〉の根や枝が修復するという伝説がある。実際、炎で煌々と照らされている砕けたアースガルドには〈世界樹〉の枝が絡み、砕けた平面をひとつに戻そうとしているように見えた。
「明るいね」
ヒュミルとエリの館から北、野営場所と定めた野の洞の傍らで見張りとして座り込むフェンリルに、背後から声をかけてくる者があった。イドゥンだ。炎が燃え盛っているとはいえ夜は十二分に冷えるため、彼女は一枚羽織物を着ていた。エリがくれたものだ。
「眠れないの?」
「少し」
とイドゥンは他の者を起こさぬように囁き、はにかんだ。
彼女はフェンリルの隣に腰掛け、同じようにアースガルドを眺めた。太陽ほどではないが、月よりも明るい炎は、目を瞑っていてもその存在を感じられるほどだ。
「ねぇ、フェンリル……」
「うん?」
「あれで良かったのかな」
あれ、というのはヒュミルの館を出発したあと、何度も議論された内容に関連するに違いなかった。すなわち、エリをヒュミルのもとから連れ出すかどうか、だ。
ヘルやイドゥンはエリをヒュミルのもとから連れ出して助けるべきだと主張する一方で、ブリュンヒルデは彼女はそのままにしておくべきだと主張した。というのも、エリを連れ出したせいでヒュミルの逆鱗に触れたら危険すぎるからだ。彼について、フェンリルたちはその足音と声しか聞いていないが、巨大な化物であるということは知っている。
議論の決め手になったのは危険に瀕した際にブリュンヒルデとシグルドにはイドゥンを守る義務があるという点で、ブリュンヒルデに言わせれば「あなたはあなたを守ろうとしている者を危険な目に遭わせたいのか?」ということだった。
もう過ぎた議論だが、その中でフェンリルはブリュンヒルデに同意した。同意はしたが、それは彼女の意見に同意したというわけではなかった。
フェンリルはエリのことを守るべきだと思った。助けるべきだと感じた。もし危険でも、だ。危険なら危険で、イドゥンら戦えない者たちは隠れさせておいて、フェンリルとヨルムンガンドとシグルドだけで助ければ良かった。エリはーー同じ巨人族というだけかもしれないがーーロキと同じ部分を感じた。フェンリルが求めてやまない母を。だから助けたかった。助けたかったが。
「おれは………」
視線を曲げて、フェンリルは隣に座る少女を一瞥する。煌々と輝くアースガルドの光に仄かに照らされ、顔色は白い。大きな瞳は不安げに伏せられていて、この表情を納得させられるように己の心の中で思ったことを一から十まで解説するのは難しいだろうと思い――フェンリルの感じ取ったことを説明して不安にさせた結果、彼女に嫌われたくはなかった。フェンリルは、エリがヒュミルの妻という立場を厭うていないと考えていて、それはイドゥンの考え方と対立するような気がしたのだ。
あの館を訪れる前夜、フェンリルはオーディンという名をブリュンヒルデから聞いた。〈独眼の主神〉。〈絞首刑台の主〉。アース神族の首長、オーディン。
だがブリュンヒルデから聞く以前から、フェンリルはオーディンの名を知っていた。母が何度も呼んでいたから。フェンリルとふたりだけで暮らしていてロキが襲われたとき、彼女はオーディンの名を何度も呼んだ。違う男が来ても呼んだ。熱い吐息とともに吐き出していた。であれば、それは相手の名ではなくロキが求めている男の名なのだと理解できた。そして、その声の艶やかさは、ヒュミルの館のエリの嬌声と似ていた。
(オーディンという男は………)
野山を駆けまわっていたフェンリルでも、女と男が性交することで子どもができるのは知っている。だがフェンリルはそれ以上は考えなかった。
ぎゅうと抱き着いてきて、毛皮の感触を確かめるイドゥンの顔に鼻をくっつける。本当は顔を舐めてやりたかったが、眠るまえに顔を唾液でべたべたにするのは申し訳ない気がした。
「あのひとはそれで良いと思っているように見えた。だから、おれはあのひとに自分の考えを押し付けたくない」
そして必要なぶんだけ、自分の考え方を説明するための最低限の言葉を言った。
イドゥンは焦げ茶色の丸い瞳でじっとフェンリルのことを見据えた。彼女はフェンリルの言葉を噛み砕き、咀嚼しているように見えた。
「そうだね……。エリは助けてなんて一度も言わなかったものね」
イドゥンは頷いて、身体をフェンリルの背に預けた。そのままじっとしていると、やがて寝息が聞こえてきたので、《銀糸》を伸ばして洞から掛け布を引っ張ってきてかけてやる。イドゥンは何事か寝言を言って、さらにぎゅうとフェンリルに抱き着いた。
しばらくして見張りの交代要員であるシグルドが起きてくるまでの間、フェンリルはずっとそのままの姿勢で動かないでいた。シグルドは何も言わず、イドゥンを抱き上げて洞の中に寝せた。フェンリルも洞の中で丸まって寝た。
夢には久しぶりに母以外の人神が出てきた。夢ではイドゥンが顎や耳の後ろを掻いてくれた。現実と同じだと思った。




