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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.8. 半死者ヘル、今後の動向について思案すること

 説明されてみればそのとおりだと納得できるわけだが、あとから落ち着いて考えてみればそうであるというだけであって、必ずしも逼迫した状況で正しい回答を導けるわけではないと思うし、それらしい答えが導けたからといって、それが常に正しいとも限らない。少なくともヘルの常識でいえば、危険が迫っている可能性があればすぐさま逃げ出すのが最適ではないにしても有効な回答で、であればヒュミルとエリヴァーガルの会話を聞いて逃げようとしたのもあながち間違いではない。

 そんなふうに己に言い聞かせたが、しかしさすがに実際に口に出したりはしなかった。


《銀糸グレイプニル》によって引き上げられている間、ヘルは思案せずにはいられなかった。甕の外に出て自由に会話ができるようになったあと、何を言うか、だ。自分の判断は間違いだったと客観的に見れば言わざるを得ないわけで、これまではある程度主導権を――特にフェンリルやヨルムンガンドといったきょうだいたちに対しては握っていたという自負があるだけ、失態を犯したあとでの挽回には気を揉んだ。

 しかし甕の外に出てみれば、そこには毛を逆立てて警戒を露わにする〈魔狼〉がいた。彼はヘルの失態など気にも留めず、ただ近くにある危険にのみ警戒を怠らなかった。

「危険は?」

 と最後に甕から出てきたブリュンヒルデがフェンリルに尋ねた。

「まだ遠い。あっちの通路の奥のほうだ。少なくとも扉一枚は隔てているし、こっちの動向に気づいたような動きもない」

「じゃあとりあえずは安全ってわけだね……。ところで」とブリュンヒルデは首を傾げる。「なんでイドゥンのこと、縛ってるの?」

 彼女の言う通り、フェンリルの腹から伸びる《銀糸》の片方の束は甕の中からヘルたちを引き上げるのに用いられ、いまは腹の中へと戻っていたが、まだ外に残っているものは、彼と同じく先に甕の外に出たイドゥンの腰に巻き付いていた。フェンリルが真剣な表情な一方で、イドゥンは当惑した表情だった。

「あっちは危ないから、勝手に行かないようにしている」

「言ってくれれば、勝手に行ったりはしないんだけど……」

「念のため。向こうは危ない」

「そうやっていると」とブリュンヒルデが可笑しそうに言う。「どっちが犬かわからないね」

「おれは犬じゃなくて狼だよ」

 フェンリルは《銀糸》を奥の通路とは逆に引っ張り、イドゥンの身体を〈狼被り〉のシグルドに預けた。そして三本足で立つと、片方の前脚を持ち上げ、ブリュンヒルデに向かって手招きをした。やけに可愛らしい動作である。「なに?」としゃがみこんでフェンリルの口元に耳を近づけ、ふたりは何か囁き合った。

「ふむ」話が終わったのか、ブリュンヒルデが立ち上がって己の顎に手を当てた。「さて、どうしようかな」

「どうって?」

 とヘルは尋ねる。

「この館のこと、あの女性――エリっていったっけ、彼女のこと。観察する限りでは、この館はさっき入ってきたどでかい足音の――ヒュミルとか呼ばれてたっけ、そいつのもののようだね。家具を見る限りじゃ、ヒュミルとかいうやつは巨人族にしてもでかいな」

「亡者だろう。あのくらいの大きさのやつはいる」

「そうだろうね。このサイズの亡者はミッドガルドには多くはないと思っていたけれど……」

 と呟くからには、ブリュンヒルデも亡者に対しては一定の知識があるらしい。彼女は〈独眼の主神〉ことアース神族の首長であるオーディンにミッドガルドに遣わされた斥候だとか自称していたか。第二平面ミッドガルドは第三平面ヘルモードと〈世界樹〉の根で繋がっているため、ときおりヘルのようにニヴルヘイムから這い上がってきた亡者が現れるので、亡者についての知識は第二平面にいた彼女もある程度知っていたということだろう。

「エリはあの亡者の妻だろうね」

「妻?」とヘルはブリュンヒルデの言葉に疑問を抱いた。「そうとは限らないだろう。確かに、彼女はそれほどヒュミルだとかいうやつを恐れていないように聞こえたが、召使いだとかかも……」

「ま、そうだけど………」

 ブリュンヒルデは立て耳の〈魔狼〉を一瞥した。どうやら先ほどふたりが話し合っていた内容と関連があることらしい。


「彼女らの関係については、まぁどうでもいいや。それよりも、これからどうしようかな」とブリュンヒルデは自問するように言った。「あいつが戻ってくるのに怯えながらここで夜を明かすのは無茶だよね」

「可能なら、あのひとを助けるべきだと思う」

 そう切り込んだのはイドゥンだった。

「助けるって? エリはヒュミルの妻だと思うけど……何を助けるの?」

「そうだけど、無理矢理なのかもしれない。無理に、厭なことをされているのかもしれない……どこにも逃げ出せないのかもしれない。そうだとすれば、助けてあげなくちゃって思うし、助けてあげたいと思う。そうじゃない?」


 イドゥンの言いたいことはわかるが、ヒュミルとエリの関係性については未だ判然としない。そもそもヒュミルは――甕越しに聞いた恐ろしげな声しか未だ知らないが、彼が声から推測できるとおりの悪人なのかどうかはわからない。彼がしたことといえば、侵入者の存在を感じ取ってエリに導かれるままに壁ごと壺を破壊したというだけなのだ。だけというには、被害が大きすぎる気がするが、相手が強盗と思えばこれくらいのことはするのかもしれない。

 それに、助けようで助けられれば苦労はしない。この建物や家具の大きさから推測されるヒュミルの体格は、ヘルらの数倍はある。腕を振り回すだけでヘルたちの身体は薙ぎ倒されるだろう。巨大な化け物とまともに戦えそうなのは《銀糸グレイプニル》を持つフェンリルと、〈白き(ヘイムダル)〉と互角に剣を交えたシグルド、それに元の大きさに戻ったヨルムンガンドくらいのものだ。


 だから無理だ、とそんなふうに言ってやろうとしたとき、フェンリルの耳がぴくりと動き、彼の腹から《銀糸》が這い出た。

「誰か来るよ」

 とヘルの肩でヨルムンガンドが呟いた。

 しかし警戒する方向から聞こえてきた足音はか細く、小さかった。それもそのはずで、通路の奥から姿を現したのは醜悪な亡者ではなく、小柄な女――エリだった。

「まだ……いたのですか」

 と彼女は言った。着衣が乱れているうえに息は荒く、頬は紅潮しており、まるで激しい運動をしたあとのように足取りは覚束なかったが、怪我をしているようには見えない。

「出て行けとまでは言われなかったから」

 とブリュンヒルデが言うと、「最初に出て行ってくださいと言いました」とエリは言い返した。見かけによらず、気丈な女なのかもしれない。彼女は一度溜め息を吐いてから、「ヒュミルは――あなたたちも声を聞いたあの男は、眠ってしまいました。一度眠ると、彼はなかなか起きませんから、当分は安全です。お茶でも淹れましょうか?」と言った。

 ヘルたちは顔を見合わせた。エリの提案は能天気で、しかし彼女の表情に嘘の色はなかった。ヒュミルという亡者からヘルたちを逃がしてくれたことで、彼女がヘルたちに害意を持っていないこともわかる。であれば、ヒュミルがなかなか起きてこないだろうというのも嘘ではないのだろう。

「ではご相伴に預かりましょうか」

 とブリュンヒルデが代表して答えた。

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