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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.7. 半死者ヘル、天の淵の言葉に槍を掴むこと

「あの壺の後ろに隠れてしまいました」


 どこか自信のなさを感じる、僅かに震えた高い声が示したのはヘルたち訪問者の存在であり、その言葉が聞こえた瞬間、ヘルは己が背負っていた《戦槍グングニル》を掴まずにはいられなかった。罠だったか。くそ、隠れろだなんて言っておいて、閉じ込めたつもりか。女だったから油断した。

 巨大な龜の中であり、内面は湾曲しているようで取っ掛かりはない。もちろん開口は背伸びして届くような高さではなく、上口から逃げるのは不可能だろうが、それでも壁面を割れば攻撃されるまえに逃げられるかもしれない。

「ちょっと、ヘル?」火急の事態の中、囁き声で話しかけてきたのはブリュンヒルデだった。「あんまり動かないでよ。物音がして気付かれちゃう」

「気付かれちゃうって……」

 暗い龜の中、薄ぼんやりとしか見えない脳天気な顔の銀髪の女を見返す。いまさら、気付かれるも何もないだろう。

「それどころじゃないだろう」

「ヘル、きみはもしかして、聞いていなかったの?」

「聞いていたから逃げなきゃいけないんだ」

 とヘルは言い返したが、言い争いをしている暇はなかった。一刻も早く逃げねば。

 しかし背後から伸びてきた太い腕がヘルの腰を抱き上げ、もうひとつの腕が口を塞いだ。宙に持ち上げられてしまえば身動きができず、声すらあげることができない。

「シグルド、ありがとう」とブリュンヒルデがヘルの背後の影に囁いてから、ヘルに対してこうも言った。「ヘル、ちゃんと人の話は聞かないと駄目だよ」

 腰を抱かれて持ち上げられたままで暗がりの中を見下ろす。フェンリルもイドゥンも、特に動じている様子はなかった。ヘルの肩に載っているヨルムンガンドに関しては、その金色の瞳を見ただけでは感情の色まではわからなかったが。


「そう、ヒュミル、その壺です」

 外の女――エリヴァーガルの声はまだ聞こえていたが、「外さないように――」という声を境にして突如途切れた。といっても、静かになったわけではない。逆に、ものすごい爆音が聞こえたがために女の声が聞こえなくなったのだ。重いものが何かにぶつかって壊れたような音で、さながら家の壁に馬が何十頭も突っ込んだかのようなものすごい音だった。地面が揺れた。龜の中までも。

 だが龜はどこも壊れておらず、倒れもしなかった。

「ああ、ヒュミル――残念ですね」とエリの声がまた聞こえてきた。「壁の穴から逃げられてしまったようです」 

 僅かな沈黙の間があって、それから何か大きな物が地面に置かれる音が聞こえた。

「壁はあとで直す。エリ、来い」

「でも………」

「来い」

 亡者――ヒュミルだとか呼ばれた男の短い声のあと、来たときと同じような重い足音が踏み鳴らされていき、だんだん小さくなって、最後には消えた。彼は去ったらしい。


「もう大丈夫かな」

 とイドゥンが小さな声で問いかけた。

「すぐ外にはいない。遠くで音はするけど、少なくとも壁一枚は隔てていると思う」と耳をぴんと立ててフェンリルが答えた。

「じゃあ出ようかな……どうやって出よう」

 ブリュンヒルデの呟きに応えるように、フェンリルが腹から《銀糸グレイプニル》の触手を伸ばす。龜の縁は掴めないようだったが、天井まで伸ばしてぶら下がり、そのまま己の身体を引き上げようとする。

「先に外の様子を見て、大丈夫そうなら梯子を下ろすよ」

 と言い残して上に登ろうとしたフェンリルの前脚を、イドゥンが掴んだ。「わたしも行く。フェンリル、わたしも一緒に引き上げられる?」

「大丈夫だけど……危ないかもしれないよ」

「うん、危なくなったら逃げるから大丈夫」


  ***

  ***


 縄のように練り上げた銀の糸の塊が甕の中から出ていればそれだけで不自然だろうが、フェンリルは念のため、甕の縁で一度身体を持ち上げる力を止め、外の様子を窺った。

「フェンリル、耳が出てるから隠れようとしてもばれちゃうんじゃない?」

 と背中に乗っているイドゥンが囁いた。彼女の身体は《銀糸グレイプニル》の別の糸でフェンリルの胴に繋げているため、落ちる心配はない。

「母さんの耳だったら垂れてるから見つかりにくいんだけどなぁ」


 幸い、外には誰もいなかった。あの可愛らしい巨人族の女性――エリヴァーガルも、彼女の名を呼んでいた、ヒュミルだとかいう名前の恐ろしげな声の男も。

 天井の梁に結びつけていた糸をさらに伸ばして甕の外に出て、大きな音を立てないようにゆっくりと降りる。

「いないね」

 フェンリルの胴から離れたイドゥンがきょろきょろとして言った。フェンリルも同じく周囲を見回す。入り口の巨大な扉は閉まったままだったが、室内の様子は明らかに変わっていた。壁際に川ひとつを堰き止められそうに巨大な岩が置かれており、その近くの壁には穴が空いていた。また周辺に陶器片が転がっており、これはヒュミルという男が壊したものであろうと想像がついた。

「あの女のひと……エリとか呼ばれてたっけ、どうしてわたしたちのことを助けてくれたのかな」

 そんなイドゥンの疑問に、む、とフェンリルは唸った。確かにその通り、疑問ではある。

 ヘルは勘違いしていたようだが、エリは明らかにフェンリルたちを助けようとしてくれていた。彼女はフェンリルたちに甕の中に隠れるように言ったが、その後にやってきたヒュミルに対しては、訪問者であるフェンリルたちは壺の後ろに隠れていると嘘を吐いてくれたのだ。甕も壺も似たような容器だが、甕のほうが口が広い。もっとも、見上げるほど巨大な容器であれば、その区別は如何ともつけ難いのだが。

 そもそも彼女がヒュミルを使ってフェンリルたちに害を加えようというのであれば、何もせずにヒュミルが帰ってくるのを待てばいいし、あくまで容器の中に閉じ込めてから攻撃したいのであれば、甕の中に聞こえるほどの大声で指示しなくても良いはずなのだ。だからフェンリルはエリが攻撃しようとしているなどとは思わなかったし、イドゥンもブリュンヒルデも同じように考えて動かなかったというわけだ。


(たぶん、このでっかい容器や家はあいつのためなんだろうな)

 と思いながらフェンリルは周囲を見回す。

「たぶん外には出てないと思う。扉が開閉される音がしなかったのに、扉が閉まったままだから。音が響いていったのも、こっちじゃないし」

 とイドゥンが囁くのに同意する。わざわざ神経を集中せずともその臭い――イドゥンやほかの仲間たちのものでも、エリのものでも、そしてフェンリル自身のものでもない醜悪な臭いは簡単に判別でき、その濃密で軌跡は明確だった。ヒュミルは入り口から入ってきて、そのあと出て行かずに部屋の奥へと進んでいったのだ。甕の中での会話から想像するに、エリを無理矢理引き連れて。

 エリはフェンリルたちを助けてくれた――突如として己の館にやってきた奇妙な集団であるフェンリルたちを、だ。理由は想像しかできないが、単なる優しさなのではないかと思わずにはいられない。甕の内側から聞いたあのヒュミルだとかいう男の声は恐ろしげで、フェンリルたちを見つければ追い出すだけではすまなかっただろう。殺そうとしてくるに違いない――そんな予測ができるほど、あの声は恐ろしげであり、臭いは醜悪なのだ。

 もし彼女が慈愛の気持ちでフェンリルたちを助けてくれたのであれば、逆に彼女を助けなければとも思う。エリは華奢で線の細く、頼りげがない女性ではあったが、どこか母――ロキと同じ雰囲気を感じずにはいられなかった。ここはミッドガルドなので、彼女も巨人族なのかもしれない。


 ヘルたちを甕の中から引き上げるまえに、ヒュミルたちの向かった先がどうなっているか、戻ってくる可能性があるかどうかなどを確認しようと、フェンリルは臭いを辿って厨房の奥のほうへと向かった。そこにあったのは、建物や内装に似つかわしく巨大な通路――下方へと続いていく階段で、どうやら厨房から続いている通路は玄関に向かうもののほかはこれだけらしい。

 その通路への階段へ一歩踏み出したとき、フェンリルは毛を逆立てずにはいられなかった。

「フェンリル?」

 囁いたのはイドゥンだ。どうしたの、そっちに行くまえにヘルたちを助けたほうがいいんじゃない、と言って近づいてくるイドゥンがこれ以上接近してこないように、ほとんど無意識に《銀糸グレイプニル》の糸を腹から蜘蛛の巣のように伸ばして階段への道を塞いだ。

「フェンリル? どうしたの?」

「ここは近づかないほうがいい」

「近づかないほうがいいって……」

「とりあえず、ヘルたちを引き上げよう」

 と言って、フェンリルはイドゥンの腕に《銀糸》を結びつけ、甕の方へと引っ張って行くことにした。


 フェンリルの鋭敏な耳が捉えたのは、階段の奥のほうから聴こえてくる声だった。エリの声だ。最初は悲鳴かと思った。だが違うとすぐに気づいたのだ。フェンリルはこの声を、かつて母と暮らしていた頃に聞いたことがあった。女と狼だけの森の暮らしであれば、ときに旅人や漁師が迷い込むこともあり、その迷い人は常に善良とは限らなかった。フェンリルを守るために、ロキは己の身体を犠牲にした。閉じ込められたままでも、男たちの毒牙にかかるロキの声は聞こえていたものだ。

 この奇妙な館の奥から聞こえてきた声は、かつての母の声と同じだった。どこか獣じみたそれは、艶やかな嬌声だった。

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