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犬の一生  作者: ブリキの
五、ヒュミルの歌
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5.3. 半死者ヘル、浄化の炎と相対すること

 目的。これからの目的。生きる理由。

「母さんを捜す。それで――」

 第一平面にいた頃からずっと同じことを言い続けているフェンリルの口を塞ぎ、ヘルは逆に問いかけた。「ブリュンヒルド、あなたたちの目的はなんだ」

「たぶんきみたちと同じだと思うよ」

 とブリュンヒルドが肩を竦めると、フェンリルは瞳を輝かせてヘルの手を振り払って言う。「母さんか」

「生き残ること、だよ。あの惨状じゃ、アースガルドには当分戻れない。〈火の国の魔人(スルト)〉のことを考えると、ミッドガルドにいるから安全ともいえないし、どうにかして安全な場所を見つけないといけないよね」


 ブリュンヒルドは特におかしいことは言っていない。言葉だけならば。

「それは――あなたも同じ考えか、シグルド?」

 とヘルは〈狼被り(ウーフヘジン)〉の男に水を向けたが、彼はついとブリュンヒルドに視線を送るだけで何も答えない。

「ああ、言ってなかったけど――わかるかもしれないけど、シグルドは喋れないよ。こっちの言葉は理解していると思うけど」

〈狼被り〉の男はブリュンヒルドに説明に対して頷くでも首を振るでもなく、視線を火に戻した。ぼんやりとした表情だが、眼に光があり、力強さを感じさせる。〈狼被り〉とはこういうものなのだろうか。《狼套ウーフヘジン》を纏わせられた奴隷兵は、もっと心のない様子だったように思う。何より、彼は〈雷神(トール)〉に対抗するだけの力があった。

「その剣はなんだ。シグルドの剣だ。〈神々の宝物〉だろう」

「ああ、あれね。えっと、《聖剣グラム》って言ったかな」とブリュンヒルドは当たり前のように答えた。


 剣の名が出たとき、視界の端でフェンリルの額を撫でていたイドゥンの表情が変わるのがわかった。といっても、大きな変化ではない。ただ聞いたことの名前を耳にしたとでもいうように、眉が少し上がって視線をヘルとブリュンヒルドに向けてきただけだ。彼女も知っている〈神々の宝物〉なのかもしれない。

「〈雷神〉の一撃を受け止められるんだ。相当な物だと思うが、なぜ〈狼被り〉の彼がそんな業物を持っている」

「そりゃ、単純にフリズスキャルヴから拝借してきたってだけだよ」とブリュンヒルドはヴァルハラ都の首長の館の名を挙げた。「あー、わたしは前戦争では地上(ミッドガルド)にいた。〈独眼の主神(オーディン)〉に遣わされた斥候としてね。そのとき主神に付けてもらったのがシグルドだよ。で、戦争が終わってアースガルドに戻ってきてちょっとしたところで、急に戦闘が始まったからシグルドと再会して、主神の武器庫から〈神々の宝物〉を拝借したってだけ。だから、単なる借り物だよ」

「なぜあなたが持たずに彼に持たせた?」

「見ればわかるでしょ? わたしはか弱いんだ。斥候だって言ったでしょ? ミッドガルドでも、吟遊詩人の恰好をして情報を集めていたんだ。戦いは得意じゃない。弓ならちょっとは使えるけどね。だからシグルドに持たせてるし、彼は有効に使えているよ」

 なぜか得意げに胸を張るブリュンヒルドの肢体を眺める。主張するように、確かに肉付きの良い身体は戦いを得手にしているようには見えない。


「質問に対する回答はそういうことだよ。当分はミッドガルドで安全な場所を探して……あとはそっちのお姫さまの護衛かな」

 とブリュンヒルドが水を向けたのはイドゥンだった。

「わたしはお姫さまじゃないけど……」とイドゥンは首を傾げて編んだ栗色の髪を揺らした。「護衛?」

「ヴァン神族の重要人物だ。アースガルドがああなった今となっては、どれだけ意味があるかはわからないけれど、あなたに何かあってまたヴァン神族と戦争が起きたらたまらない」

「だから守ってくれるの?」

「残念ながらそこまでは言えない」とブリュンヒルドは長い銀髪を揺らした。「さっきも言った通り、わたしは強くない。だからあなたを守ることは難しい。ただ、あなたを守れる者のところへ連れていくことはできるよ。誰か頼れる相手の心当たりはある?」

「頼れるひと……っていうと、フレイか……チュールかな」とイドゥンはフェンリルを撫でたまま答える。「フレイはわたしと同じ髪の色の脳天気なおにいちゃんだよ。顔はけっこうかっこいいし、背も高いから目立つと思う。片足が義足だしね。奥さんのゲルドと一緒にいると思う……すっごく綺麗な人なんだけど。チュールも目立つかも。右腕の肘から下がないからね。黒髪のアース神族だよ。いっつもね、こう」イドゥンは己の額に指を一本ずつ立てる。「顰め面なの。でも寝起きはぜんぜん顔が違うから面白いよ」


 ヘルは唾を飲み込み、瞳だけを動かしてフェンリルを見た。しかし彼は心地良さそうに撫でられるがままにしており、特段の反応は見せていない。

 フレイという神物(じんぶつ)は知っている。ヘルモードからミッドガルドにやって来た頃にスリュムヘイムという街で見た男だ。イドゥンと同じ栗色の髪で、片足が義足で、巨人族の女を連れていたから間違いない。しかしヘルが知っているのはフレイだけではない。チュールという神物にも心当たりがあったのだ。

 ヴァルハラ都のフリズスキャルヴ。

《銀糸グレイプニル》の拘束から放たれた直後、フェンリルが突っ込んだのがそこだ。そして彼はその場でひとりの男を食い殺した。隻腕のアース神族。おそらくは、イドゥンがチュールと呼ぶ男を。


 イドゥンにそれが知られたらどうなるだろう。ヘルは逡巡し、結果としては「どうにもならない」ということで落ち着いた。イドゥンはヘルのきょうだいではなく、当たり前だが親でも子でもない。他人だ。ただ、アースガルドのあの惨状の中で、フェンリルが拾ったというだけのことだ。

 彼女が道中で役に立つとは思えない以上、この場で別れるのが得策だ。そうとなれば、フェンリルは不満を述べるかもしれないが。

(ブリュンヒルドたちがイドゥンを大事だと思っているのなら、彼女らに任せるべきかもしれない)

 そんなふうにも思う。だからヘルは、これからの目的地――安住の地探しとして適当な方面を話し合うブリュンヒルドとイドゥンに、別れを切り出した。

「どうして?」

 と純粋な瞳を向けて来たのはイドゥンだけではなかった。彼女に撫でられていたフェンリルと、ヘルの膝の上で丸まっていたヨルムンガンドまでが疑問を呈してきた。

「一緒に行こうよ」

「女の子ふたりと男ひとりだと旅が心配だ」

「戦力を考えると一緒にいたほうが良いと思う」

 とイドゥン、フェンリル、ヨルムンガンドがそれぞれ言った。


「端的に言うと、信用できない」

 特にブリュンヒルドが、とまではヘルは言わないでやったが、たぶん伝わったのだろう。

「率直に言うな」とブリュンヒルドは可笑しそうに言った。「では、どうすれば信用できる?」

「すぐには――すぐにはどうしたって信用できない」

「シグルドはきみを助けたんだけどな」

「それが信用できない。あなたは――あなたたちが説明していることは納得できるが、心の底から正直には見えない」

 絞り出すように言って、ブリュンヒルデを見据えようとしたヘルだったが、銀髪の下の碧眼に吸い込まれそうな妖しさを感じ、反射的に傍らに置いていた槍を握り締めてしまった。


 そのときだった。


 周囲がぱっと明るくなった。炎が巻き起こっていた。焚き火の火ではない。いや、巻き起こったのは焚き火の中だ。だがずっと大きな炎。空から、まるで油が注がれたようだ。

 炎は人型になった。

(〈火の国の魔人(スルト)〉……? いや――)

 ヘルは目の前の炎が人神(じんしん)の二倍近くあろうかという巨躯に変わっていくのを見た。動けなかった。ヘルも、フェンリルも、ヨルムンガンドも、イドゥンも、ブリュンヒルドも。

 ただひとり、〈狼被り(シグルド)〉が即座に《聖剣(グラム)》を鞘から抜くや、装飾の入った白刃を炎の巨人の股から逆袈裟に叩きこんだ。


 真っ二つに分断された巨人は消え、また元の焚き火だけが残った。

「あー、これは……」とブリュンヒルドの声が聞こえた。彼女は炎の巨人の現れた衝撃でか仰向けに倒れ込んでいた。「ヨルムンガンドが正しいね。ヘル、きみは今の状況を体験しても3人きりで旅をしようというのかな?」

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