5.2. 半死者ヘル、火を囲み夕餉をとること
日が暮れるまえに湖の近くで野営の準備に取り掛かる。幸い、第一平面アースガルドで起きたあの〈力の滅亡〉以来、九世界の気温は真夏の盛りのように暑いため、風や寒さは気にする必要がなく、寝床となるスペースを確保したあとは焚き火に虫除けの木を入れれば良いくらいだ。
「今日はよく歩いたから眠いな」
とフェンリルが四足を地面に投げ出して呟いた。
「わたしも。ところでフェンリル、石鹸使って洗えばもっとふわふわになるから、明日洗おう」などと言ってイドゥンが彼の毛だらけの背中に抱き着く。だが飯が出来上がると、ふたりとも飛び上がって焚き火に近づいていった。ヘルもヨルムンガンドを肩に載せ、火に近寄った。
〈狼被り〉のシグルドが担いできた鹿に塩を振って焼き、森で摘んできたベリーのソースをかけたもの。茸と鱒のスープ。米の粥。生姜のクッキー。
「道具と材料がないとどうにもならんな」
長い銀髪をひとつに纏めて料理に精を出していたブリュンヒルドが悔しそうに言ったが、ヘルには彼女の作った料理は野外で作ったことを考慮に入れずとも十分に見えた。明らかに森や湖で採取したもの以外のものもあったが、米やクッキーは彼女の持っていた保存食だ。鍋や火打ち石もブリュンヒルドとシグルドの持ち物で、ふたりは長いこと旅をしていたのでこうした野営道具は常備しているということだった。
「海で濡れたやつを今日のうちに全部食べちゃうことにしたから、明日からはもっと苦しくなるよ」
とブリュンヒルドが説明した。
ヘル、ヨルムンガンド、フェンリル、イドゥン、ブリュンヒルド、そしてシグルド。一同が火の上に組んだ鍋の周りに車座になり、食事にありつく。
「ブリュンヒルドとシグルドがいてくれて良かった」と肉に齧り付きながらイドゥンが微笑む。「こういうところでのお料理はやったことないもんね」
実際のところ、このふたりの存在には助かった、とヘルは言葉にこそ出さなかったがイドゥンに同意した。ふたりが――というよりシグルドがいなければヘルはアースガルドで〈雷神〉の一撃を受けて死んでいただろうし、《戦槍グングニル》が撃ち込まれた隙に咄嗟に逃げ出す判断もできなかっただろう。
何よりも助かったのは、フェンリルとヨルムンガンドに関することだ。巨大な〈魔狼〉と〈世界蛇〉だったふたりの姿は、通常の狼や蛇のそれと同程度に縮んでいる。これはブリュンヒルドたちが持っていた《竜輪ニーベルング》という〈神々の宝物〉のおかげだった。
「簡単に言えば、呪いの指輪、かな。普通の人神が着けたら力を吸い取られるだけだろうけど、フェンリルとヨルムンガンドにはちょうどいいかもしれない」
とヘルに《竜輪》を渡したとき、ブリュンヒルドはそんなふうに説明をした。
〈白き〉、〈雷神〉、そして〈火の国の魔人〉から逃げ、第一平面アースガルドから第二平面ミッドガルドの海へと飛び降りたのは、今日の明け方頃のことだ。撃ち込まれた《戦槍グングニル》の土煙に紛れ、最初にヨルムンガンドが逃げ、そのあとにフェンリルに乗ったヘルたちが落ちた。
フェンリルが犬掻きをしてなんとか岸までたどり着いた。そこで流れ着いていたヨルムンガンドも見つけた。ほとんど半死半生のように見えたが、ブリュンヒルドから受け取った《竜環》を尾の先に通してやると、身体が縮むと同時に消耗もいくらかマシになったらしく、目を開けてくれた。
小さくなったヨルムンガンドを肩に載せ、森へ向かったのは昼頃だ。〈火の国の魔人〉の目から逃げる必要があったし、何より食料と休む場所が必要だった。〈力の滅亡〉以降気温が上がっていたとはいえ、海際の吹きさらしの場所は休むのに適してはいなかった。
「ヘル。ねぇ、ヘル」
とヨルムンガンドが話しかけてきたのは、森を探索していたときだった。最初ヘルは、聞き慣れない少年のようなその声を、幻聴かと思ってしまった。
「ヨルムンガンド……あなた、喋れるの?」
「喋れているかどうか、自信がない。喋ったことなかったから。でも、ミッドガルドの海でずっと巨人と人間の話は聞いてたから、覚えた。喋れている? それなら良かった。ヨルムンガンドって、何度も言っていたけど、どういう意味?」
「あなたの名前だよ」
「ぼくは〈世界蛇〉だよ。ぼくを見た人たちはみんなそう言ってた」
「それは渾名みたいなものだよ。本当の名前は、ヨルムンガンド」
「それは知らなかった。ぼくはヨルムンガンド。ヘルはヘル」
「うん。わたしはあなたのきょうだいだよ……覚えていないと思うけど」
「見た目が違うね? ぼくもヘルみたいになるの? それともヘルがぼくみたいになるの?」
「それは……どっちでもないと思う。見た目が違う理由は、いろいろあったから………」
「いろいろ……なるほど」ヨルムンガンドは何か納得したように二度、金色の瞳を瞬かせた。「ヘル、ぼくはよくこの九世界のことを知らないから、いろいろ教えてほしい。あと、言葉とか、一般常識とか、そういうことも」
そんな申し出があったため、ヘルは自分の知識をヨルムンガンドに分け与えた。九世界の創生に関するお伽噺も、そのひとつだったというわけだ。
ヨルムンガンドと会話できるようになったのは森に探索に入ってからであり、そのときはばらばらに探索していたので周りに誰もいなかった。湖に行ってからは、ヨルムンガンドは淡水の溜まりに興味を示していて喋らなかった。
なのでヘル以外の全員がヨルムンガンドと会話ができるようになったことを知ったのはこの夕餉時になってからであり、一同は大いに驚いたらしかった。ブリュンヒルドは粥を零した。
「意外と可愛い声なんだね。それとも小さくなっているから?」
とイドゥンがヨルムンガンドの額を突っつくと、蛇はくすぐったそうに身を捩った。
その姿を見て――ヨルムガンドと同じく《竜環》を身に着けたことで体躯が通常の狼程度に縮んだフェンリルのこともあって――ヘルは安堵の息を吐かずにはいられなかった。3人きりのきょうだい。ともに過ごした期間はけっして長くはなくて、その間を繋いでいたのは同じ胎から産まれたという事実だけだった。
だがその朧気な綱を頼りにヘルは生き長らえてきたのだ。ようやくその努力の一端が実った気がした。
しかし、何も解決したわけではない。問題はこれからだ。
「さて、きみたちはこれから……どうするつもりなのか聞かせてくれる?」
食事を終えたところでそんな問いかけを投げかけてきたのは、夕餉を作った銀髪の女――ブリュンヒルドだった。