4.14. 雷神対世界蛇 - 6
〈竜殺し〉に関する九世界の知識は人並みで、つまりは世界の根源については何も知らなかったし、彼はそのことを自覚していた。
当たり前の人間族――いまや〈狼被り〉だが――であった彼は日々の生活を送り、平穏に暮らすことだけを考えて生きてきた。であれば、お伽噺はお伽噺であり、恐れていたのは〈力の滅亡〉に九世界の果てからやって来る〈火の国の魔人〉などではなく、山賊などの人災であったり、洪水や干魃といった自然災害だった。
だった、というのは、つまり〈狼被り〉になる以前の話だ。いまは、いくらかこの九世界についての知識を得て、そして知ることが増えるたびにわからないことも増えていった。であれば、彼は〈竜殺し〉としての己の使命――〈火竜〉を封じ込めること――を全うする以外のことは考える必要はないと思っていた。
そんなふうに己を律していたはずでも、身体が動くときには動くものだ、とシグルドは自嘲した。背中に庇っている人物は、呆然とした様子で尻餅をついていた。膝から下が異様に細い全身鎧を身に纏った人物だ。無骨な鎧甲冑姿ではあるが、〈雷神〉の一撃を受け止めた余波によって脱げた兜の下から姿を現していたのは、目を見開いたあどけない少女だ。
「ヘル! 大丈夫か!?」
と巨大な狼が駆け寄ってきて、彼女の身体を鼻先で起こした。狼は少女をひと飲みにできそうなほどに巨大で傷だらけではあったが、顔つきはなかなかに愛嬌があった。そんな〈魔狼〉が鼻先で少女を起こしている姿は、なかなかにほのぼのとした風景だ。
「知らないなら、消えろ」
残念ながら、反対側にいた人物は長閑とはかけ離れている。低い声とともに投擲された〈雷神〉の二撃目を、シグルドは己の剣で受け止めた。
《聖剣グラム》。シグルドにこの剣を渡した神物によれば、九世界に三振しかない〈三剣〉だとか呼ばれる特殊な〈神々の宝物〉なのだという。
グラム以外の〈神々の宝物〉を知らないシグルドには、具体的にどう特殊なのかはわからない。しかしグラムが十分に強大な力を持っていることは、これまでの旅の中で理解していた。
〈巨人殺し〉や〈投げつける者〉など数多の異名を持ち、前回のアース神族と巨人族の戦争を終結に導いた立役者であり、最強の〈神々の宝物〉である《雷槌ミョルニル》を持つ〈雷神〉の一撃を、《聖剣グラム》はやすやすと受け止めた。《聖剣》と《雷槌》の均衡の間で発せられる稲妻が眩しいが、目を細めて堪える。
力を失ったところで、また《雷槌》を弾き返す。現状、先ほどまで〈雷神〉と戦っていた〈世界蛇〉は死んでしまったのか、力なく身体を大地に横たえており、危険なのは〈雷神〉だけだ。この二度の防御を受けて、〈雷神〉が冷静になってくれれば良いのだが。残念ながらシグルドには彼の説得はできない。
「トール! 止まって!」
と聞き覚えのある女の声が横からあがった。声の主である乱入者は馬に乗っていて、その長い銀髪に褐色の肌は、シグルドの相棒である〈戦乙女〉、ブリュンヒルドだった。弓に矢を番えてその先を〈雷神〉へと向け、威嚇している。
「その子たちに敵意はない! ミョルニルを収めて、大人しくして」
いつも通り威勢だけは良いな、などと思いながら趨勢を見守っていたシグルドだったが、〈雷神〉が「おまえ、誰だ?」と言ったので吹き出してしまった。ブリュンヒルドとしては、同じアース神族であり、自分は〈雷神〉のことを知っているのだから、知り合い程度に考えていたのだろう。だが向こうは知らなかったというわけだ。
「アース神族だよ。名は、ブリュンヒルド」
と日頃偉そうにしているブリュンヒルドが不満げに唇を突き出して言ったので、愉快だ。
「そうか、ブリュンヒルド。で、おまえはロキの行方を知っているのか?」
「いや、知らないけど………」
「そうか、では」
消えろ、という言葉が発せられる前に、シグルドには〈雷神〉の行動が予想できた。ブリュンヒルドに駆け寄るのではなく、〈雷神〉に接近して、投擲直後の《雷槌》を受け止める。
「無駄だ、トール。シグルドにミョルニルは通用しない」
説得ができないシグルドの代わりに、ブリュンヒルドが説明してくれたのはありがたかった。「たぶん」と最後に自信なく付け足さないでくれればもっと良かった。
とはいえ、千に万に言葉を尽くしても無駄だろう、とシグルドは眼前の〈雷神〉を見て思った。彼がロキという人物に執着している理由はわからないが、男の目には尋常ではない色が見える。こうしたとき、男なれば止まらぬものだ。
ではどうすれば止まるか? 殺すか、でなければ、目的が達成されたときだけだろう。
そしてそれは簡単になされた。
空から女が降ってきた。巨大な翼の生えた女が。
「母さ……」
「ロキぃッ!」
〈魔狼〉が女に向けて発せられようとした声は、〈雷神〉の怒号と女に向かって投げつけられた《雷槌》によって掻き消された。