4.12. 白き対狼の母 - 2
〈黄金の林檎〉は現在の異常に気づいており、いま何が起こっているかを知識としては知っていたが、その異常への対処方法については知らなかった。
(見ないふりをしていた)
この九世界のこと。
〈独眼の主神〉が為そうとしていること。
〈白き〉のこと。
〈火の国の魔人〉のこと。
〈狼の母〉のこと。
――そして、〈呪われた三人〉のこと。
イドゥンにとって、この九世界は本来の居場所ではなく、しかし居心地の良い場所であることは間違いなかった。だから、それを壊したくなかった。だから、ただただ安寧に生きたかった。だから、与えられるもの渡し、受け取れるものを享受した。それ以上踏み込まずに、ただ暮らしていた。
イドゥンがもっとこの九世界の人を、神を、それ以外のものを知ろうとしていたのならば――この〈力の滅亡〉は起きなかったかもしれない。そう思えば、走らずにはいられなかった。走っていたはずだ。走りたかったのだ。まずはトールとヨルムンガンドの戦いを止めようと、走り出していたはずだったのだ。
だが疾走していた身体は、ヴァルハラ都で糸の切れたように力を失い、受け身を取ることもなく倒れ伏した。身体はただただ地面に平行で、舌は土だけを舐めていた。
(同じだ)
身体が動かない。何もできない。ただ、生きているだけ。九世界で新しい身体を得る前と、ただ生きているだけの命で九世界に命を与られるようになる前と、〈黄金の林檎〉となる前と同じ。
ヨルムガンドを支えるために随分と力を使ってしまった気はするが、動けなくなるほどではなかった。問題があるとすれば、むしろ外部。
ひとつの原因として考えられるのは、イドゥンの本当の身体の命が既に尽きようとしている可能性で、これに関してはどうしようもない。
もうひとつの可能性として考えられるのは、〈神々の宝物〉の機能を補助している〈世界樹〉に異常が起きているということだ。事実、《狼套ウーフヘジン》によって洗脳されている〈狼被り〉たちが反乱を起こしているのだから、一部の簡易的な〈神々の宝物〉の機能が異常を来しているのだ。イドゥンの身体は〈神々の宝物〉そのもののようなもので、単純というよりはむしろ逆だが、その複雑さゆえに少しの異常が影響してくるのかもしれない。
〈世界樹〉の異常の原因として考えられるのは3つ。ひとつはもちろん、イドゥンがヨルムガンドを受け止めるために《金環ブリーシンガメン》を開放して急に力を使ったこと。力の使用そのものに問題はなくとも、大きすぎる力が〈世界樹〉に負担をかけたのかもない。
ふたつめはトールの《雷槌ミョルニル》だ。現在ヨルムガンドとの戦いにおいて彼が放つ雷は、これまで見たどの雷撃よりも強力な稲妻と雷音を撒き散らしている。ただのアース神族が〈世界樹〉に抵抗するほどの力を放つとは思えないが、そもそもオーディンが求めていたのはこうした力だったはずだ。あれだけの力が動いていれば、〈世界樹〉に影響を与えることも十分に考えられる。
みっつめは――。
(もしかして、フレイ……?)
本当のきょうだいではないが、〈世界樹〉を操ることができるフレイと〈世界樹〉にこの九世界を管理する力を与えるイドゥンの力は表裏一体ともいえる。
そしてイドゥンは、義兄であるフレイに異常が起きていることを察知していた。〈世界樹〉に最も影響を与える可能性があるのは、彼だ。
だがいったい彼に何が起きているのかまではわからなかった――もしわかったとしても、何もできないのだが。倒れたまま、指一本動かせず、涙さえ出なかった。ただ、考えることができて、温度を感じていて、耳も聞こえていた。これも昔と同じだった。
そしてその感覚が、炎の接近を告げていた。ゆっくりと這いよってくる炎を。トールとヨルムンガンドの戦いや巨人族や人間族の反乱によって、ヴァルハラ都の建物は崩れ、辺りは戦火と死に塗れていた。だから火は珍しくもない。
その火がイドゥンに向かって徐々に近づいてこない限りは。
(〈火の国の魔人………!〉)
オーディンはきっと喜ぶだろうな、とイドゥンは思った。〈火の国の魔人〉の顕現は、彼の目的が達成されていることのひとつの現れなのだから。
だがイドゥンは、〈火の国の魔人〉の浄化の炎に燃やし尽くされるわけにはいかない。逃げなくては、と思うのだが、やはり身体は動かない。こんなところで、何もできずに――死ぬのか。イドゥンが死ねば、たぶん、この世界は徐々に崩壊するだろう。〈黄金の林檎〉の力がなくなれば。
イドゥンはこの九世界の礎となった〈霜の巨人〉について、その名前しか知らない。だが、この九世界のことは知っている。
この九世界を、壊したくない。
別れたくない。
離れたくない。
まだ、まだ――生きたい。
想いが力になるのなら、こんなときなのだろうか、と宙に浮く感覚とともにイドゥンは思った。身体が動く感覚はないのに、炎から離れていき、いつしか疾走する感覚があった。
「間一髪」
聞こえてきたのは、高い声。少年か、あるいは少女のような――しかしその声の高さに反比例して、やけに重く太く、唸るような奇妙な声だった。目が開ければその正体を確かめられるのだが、イドゥンにできたのはただ風を受けながら揺すられる感覚と、身体の下に広がっている少し硬い毛の尖りを感じることだけだった。
「ただの火事にしてはでかかったな。それに、なんだか、人神のような形だったような……」
受け答えたのは、こちらは女の声だ。兜越しなのだろう、くぐもってはいたが、先の声のような奇妙な唸りはなかった。
「その子は大丈夫か?」と重く太い声のほうが訊いた。
「女だな。子どもだ。動かない」
「可愛い子か? おっぱいは大きい?」
「死んでるんじゃないか? 捨てるか。いや、体温はあるな。気絶しているだけか? アース神族じゃないかもな。ヴァン神族か、巨人族か」
と兜越しの声の持ち主の指がイドゥンの胸元に触れた。まさか胸を確かめようとしているのかと思いきや、金属の擦れ合う音とともに、首にかかっていた鎖が引っ張られる感覚があった。《金環ブリーシンガメン》を取ろうとしているのだ。
「これは……〈神々の宝物〉か………?」
兜越しの手が、イドゥンの首にかかっていた《金環ブリーシンガメン》の蓋が閉じるのを感じると同時に、目を開くことができるようになった。《金環》を通して露出していたイドゥンの力が抑えられたためだろう。ひとまず、動ける程度には力が戻った。
網膜に飛び込んできたのは、声から予想していた通りに無機質な鎧を身に纏った小柄な人物。
兜のせいで表情は見えなかったが、突然目を覚ましたイドゥンに対しての戸惑いは感じられた。
「ヘル、どうなった? さっきの女の子だ。捨てるなよ、ほんとに――」
そしてもうひとつの声の主は下方から聞こえていた。視線を動かせば、己を載せて疾走するのは巨大な狼。〈魔狼〉こと――。
「あなたはフェンリルだね」
「む」
フェンリルが首を捻って己が背中の人神に視線を向けようとしていたが、どうしたって自分の背中は見えない。
「目を覚ましたか。大丈夫? ちなみに助けたのはおれだよ」
「うん」とイドゥンは笑いを堪えて頷いた。「ありがとう。それに……」
視線を鎧の人物へと向けると、その気配を察知したのかフェンリルが走りながら言った。「ヘルだ。おれのきょうだいだよ」
「フェンリルとヘル……ロキの子だね」
鎧の女――ヘルは未だ兜越しでもわかる警戒した様子を見せていたが、フェンリルはあくまで無邪気だった。
「母さんの友だちか?」
「うん、わたしはイドゥン」