4.10. 雷神対世界蛇 - 5
〈白き〉はたったふたつのことを除いて何も知らなかった。
ひとつ、己が顕現したことで、この九世界が変化を迎えるであろうこと。
ふたつ、己が為すべきこと。
彼が知っていた。〈呪われた三人〉を殺さなくては、この九世界の浄化はなされぬことを。九世界の浄化のために〈楽剣ギャラルホルン〉にて戦いの音を奏でねばならぬということを。
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木乃伊のいる回廊を通り抜けて塔へと向かう。塔の入口の通じる扉は鍵がかかっていたが、フェンリルは腹から伸びる《銀糸グレイプニル》を束ねて鍵穴に通すや、簡単に錠を開けてしまった。
「すごいね」
とヘルは正直な感想を漏らしたが、フェンリルは「うん、まじで怖い」と来た。もはや痛みはないようだが、まだ自分の身体に埋め込まれたグレイプニルの存在を快くは感じていないようだ。彼にしてみればいつのまにか自在に動く触手が身体から生えていたのだから、この噛み合わない反応も当然かもしれない。
フェンリルは軽快に塔内の螺旋階段を駆け上っていく。石造りの階段はフェンリルの鋭い爪が引っかかるたびに削れていった。
頂上の木製の扉には鍵が掛かっていなかった。フェンリルが《銀糸》でその扉を開ける直前に、ヘルは己の武装を確認した。第三平面ヘルモードから持ってきた、〈世界樹〉の根から削り出して作った槍はフェンリルが暴走状態にあったときに落としてしまっていたため、現在唯一武器になりそうなのは第二平面ミッドガルドに来てから手に入れた短剣くらいだ。心許ないが、槍があったところできっと同じように思っていただろう、と考えれば多少気が楽になる。
扉の向こうは巨大な狼であるフェンリルがぎりぎり入れる程度の小さな部屋だった。家具はレース編みの装飾がされた寝具が敷かれた寝台と棚に椅子のない小さな机、それに裁縫の道具があるくらいだ。壁は天井と床を除いて真っ直ぐな場所が一切なく、外観通り円柱のような構造になっていることがわかった。白い壁を切り取るように両開きの大きな木扉をつけた窓があり、そこからは第一世界グラズヘイムの様子が一望できた。
眼下ではヨルムガンドと〈雷神〉による戦闘が行われ、その余波で破壊されたヴァルハラの街並みが広がっているのだろうが、ヘルがまず視線を走らせたのは、机だった。この小さな部屋であれば、もちろん工作台ではなかろう。道具があるので裁縫台でもあるのだろうが、それだけではなく机の上には紙片が貼られていた。文字。ルーン文字だ。
(やっぱり、あの人は、文字の読み書きができるんだ………)
ルーン文字は魔法の文字だ。読み書きができること自体、一種の魔法であると言える。幼い頃に読みものをする母の姿を見たことがあったような覚えがあったが、子どもの頃の朧気な記憶だったため、確信が持てなかった。
〈狼の母〉はただの巨人族ではない。
その犬耳や猛禽の翼を見ればひと目でわかるような事実を、ヘルは改めて確認した。
「いない……」
一方でフェンリルはといえば、ヘルを乗せたままで部屋中の匂いを嗅ぎ、寝台にまで鼻を突っ込む。なんとなくその様子が厭だったヘルは彼の毛を引っ張った。
「なに」
「いないだろ? だったら、ほら、早く逃げよう」
「いないのかな………」
フェンリルはシーツと布団の間から鼻を引っこ抜き、また床に鼻を這わせて服飾棚まで辿り着き、それを開いた。もちろん中には誰もいない。
「怒るよ」
「なんで?」
「あの人に嫌われるよ、そうやって他人の部屋を覗いて嗅ぎ回っていると」
「そうかな……」フェンリルは少し悲しそうに声のトーンを下げた。首を小さく回し、それからゆっくりと窓の傍まで歩いていく。「匂いだと、母さんはここから外に出て行ったような気がする……なんだあれ」
フェンリルの視線の先にあったのは想像を絶する戦闘を繰り広げるヨルムンガンドの姿だった。〈雷神〉の姿はヘルの視力でこの距離では目視できないが、時折雷が轟くので彼が生きていることはわかる。ヨルムンガンドも。だが大きさでいえば圧倒的に有利であるはずのヨルムガンドの身体はところどころ焦げ、鱗も剥がれていた。戦況は、もしかするとヨルムンガンドが不利になっているのかもしれない。
「ヨルムガンドだ。あんた、わたしたちのきょうだいだよ……覚えているか?」
「ヨルムンガンド、ヨルムンガンド………」フェンリルはきょうだいの名を繰り返す。「あのどでかい蛇が?」
「そうだよ。覚えてない?」
「いや、覚えてはいる。でもほんとに蛇なんだな。ヨルムンガンドは、産まれてすぐにミッドガルドの海に落とされたってのは聞いてたけど……実際に姿を見たことはなかった。あんなにでかいとは、吃驚だ」
などとフェンリルは息を吐くが、人神と同じ大きさかむしろ小柄なくらいのヘルからすれば、彼も十分に大きい。
(そういえば、ヨルムンガンドが海に落とされたときはフェンリルはいなかったっけ)
だから〈狼の母〉のことをフェンリルは嫌っていないのだな、とヘルは理解した。単にロキと暮らしていた時期もあるからだろうが、それ以上にフェンリルはヨルムガンドがミッドガルドに落とされたりしたときの事件をその目で見ていないのだ。
きっと彼は、ヨルムガンドが化け物と蔑まされて海に落とされたとき、母親であるロキは力がなく助けられなかったのだと思っているのだろう。母親として助けてやろうとしたが、力がない女であるロキには叶わなかったのだ、と。
事実は違う。〈狼の母〉は強く、恐ろしい。他の誰もが持たない翼、あの〈神々の宝物〉はルーンを溜め込み、彼女の体躯からは考えられないほどの呪力を発露させることができる。それだけでなく、数々の〈神々の宝物〉を持ち、文字の読み書きさえでき、魔法を操る……まさしく化物だ。あの女は力のないか弱い女などではない。そして彼女は、ヘルたちを見捨てたのだ。
果たして母に関する真実を告げるべきか、ヘルは迷った。言葉で伝えられる内容はわずかだ。どんなにか熱弁しようにも、フェンリルの母への愛は覆せないような気がする。むしろヘルを嘘吐きだと罵るかもしれない。せっかくきょうだいに会えたというのに、また別れたくはない。
「フェンリル、あのひとはもうここにはいないみたいだ。もういいだろう? ヨルムガンドを助けに行きたい。あいつは……おまえは覚えてはいないだろうけれど、わたしたちを助けてくれて、あの最強の〈雷神〉と戦っているんだ。わたしはあの子のことを助けたい」ヘルはフェンリルの首を撫でた。「でもわたしにはあの子を助けられるほどの力がない。だから協力して、フェンリル」
フェンリル、ヘル、ヨルムガンド。三人の絆はとても弱い。特に産まれてすぐにミッドガルドの海に落とされたヨルムガンドとの間には、単に「同じ腹から産まれた」という以外の関係性はない。
だがヘルはその弱い絆を希望の舫とし、永遠とも思える旅を続けてきたのだ。ヨルムガンドとフェンリル、二人のことがなければきっとヘルは途中で生きることを諦めてしまっていただろう。
フェンリルもきっと同じだと思う。グレイプニルによって心臓を痛めつけられ、全身に穴を空けられている間、きょうだいのことが頭を掠めなかっただろうか? きっと思ってくれたはずだ。ほとんど会話もなかったが、出会えたらきっと仲良くやっていけた相手として。
そして、ヨルムガンドも。事実、ヨルムガンドはフェンリルとヘルを〈雷神〉の一撃から救ってくれた。ヨルムガンドが〈雷神〉と戦っているのは単に己の本能によるものなのかもしれないが、ヘルはきょうだいとの絆のようなものを信じたかった。
だがフェンリルは動かない。
「フェンリル、お願い………」
フェンリルは動かず、唸っていた。
鼻をひくつかせ、腰を溜め、筋肉を固め、唸っていた。
「フェンリル?」
「なにか来る」とフェンリルは半身を小部屋の入り口にに向け、警戒した様子を見せる。
「なにかって………」
ヴァルハラ都の戦火が一面渦巻いているこのときに、わざわざヴァラスキャルヴの塔まで登ってくる人物とは。
ヘルにもようやく来訪者の存在を感知できた。ロキの部屋の扉の向こうから、ゆっくりとした歩調の硬い足音が伝わってくる。
ヘルは一瞬、厭な想像に囚われた。
まさかフェンリルが言っていたように、本当にあの木乃伊が動き出した?
扉を貫通して出てきたのは黒々とした燃え盛る斧だった。
「逃げる!」
フェンリルはそう叫ぶや否や、ヘルの身体を《銀糸グレイプニル》の糸で掴んで己の背に乗せ、四肢を踏ん張って身体を窓へと跳ね飛ばした。
落下する一瞬、ヘルは扉に円形の穴を開けて入ってきた者の姿を見た。
光り輝く女。
ヘルはその女の伝説を知っていた。〈力の滅亡〉のときに九世界を浄化するために現れる〈火の国の魔人〉。スルト。
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「逃したか……ふむん、フレイではなかったか」
〈火の国の魔人〉は一瞬前までヴァラスキャルヴの塔の小部屋にいた者たちが窓から逃げた衝撃によって荒れた部屋の中で呟いた。
あの憎き〈世界樹〉の根によって原型がなくなるほどに貫かれた穴を修復したスルトは、フレイを追ってこの第一世界グラズヘイムまでやってきた。だがヴァルハラ都まで近づいたところで異常な呪力の気配を感じ取り、このヴァラスキャルヴを訪れたのだ。果たして一瞬前までこの部屋にいたらしい者たちがその呪力の根源なのかどうか、スルトには判断ができないかった。
ひとまずは炎による浄化を行いながら、確実にこの九世界を汚染する〈呪われた三人〉の追跡へと切り替えるが筋というところかもしれない。
「行け……炎よ」
スルトは《炎斧レヴァンティン》を振りかぶり、砕けた窓に叩きつけた。散った火花は分裂しながら見る間に膨らみ、人神の3、4倍ほどの大きさになるや、空を滑るようにヴァルハラ都へと降りて行った。