4.9. 雷神対世界蛇 - 4
〈戦乙女〉は現在の九世界がどのような状況なのか、どのように対応すれば良いのかを知っていた。しかしそれらは自身が考え学んだものではなく、単なる伝聞によって得た知識だったため、迷いを抱いていた。
だがそれよりも彼女の目の前に重く伸し掛かっていたのは、死の舞踏を続ける〈雷神〉と〈世界蛇〉のことだった。
「最悪………」
第一平面アースガルド、第一世界グラズヘイム、広大な石壁によって守られた首都ヴァルハラ。幾重もの戦いを耐え抜いた石壁は、〈雷神〉と〈世界蛇〉の戦いによって、もはや用をなしていなかった。舗装された石畳は花が咲いたように砕け、家々は子どもが遊んだあとの雪原のように踏み潰されてしまっている。
〈力の滅亡〉が近いことをブリュンヒルドは悟っていた。とはいっても彼女には〈世界樹〉や九世界の状態を察知できるような力が備わっているわけではない。あくまで知識でそうなっていることが予想できるだけである。いや、もしかするともう始まっているのかもしれない。それだけ〈雷神〉と〈世界蛇〉の戦いはこの九世界に負担をかけすぎている。
ひとまずは〈火の国の魔人〉がまだ見えないことだけが楽観的になれる要素だ。九世界を浄化するためだけに存在するあの魔人が現れることが〈力の滅亡〉の発現の証左になる。彼女が現れるのは決まって世界を侵す存在、すなわち魔法や亡者の近くだが、これだけ巨大な〈世界蛇〉とそれに相当する稲妻を発生させている〈雷神〉なら真っ先に向かってくるはずだろう。
触れたものを燃やし尽くす〈火の国の魔人〉と戦えるという存在は少ない。ある程度まで足止めできるという範囲まで含んでも、〈世界蛇〉、〈雷神〉、〈黄金の林檎〉、〈狼の母〉といったところか。だが彼らでは足止めが限界であり、どんなにか努力しても対処するには至るまい。
〈火の国の魔人〉に対処できる希望があるのは、唯一〈妖精王〉くらいのものだ。〈火の国の魔人〉が最も忌み嫌いながらも、彼女の浄化の炎に耐性を持つ〈世界樹〉の根を操れる〈妖精王〉であれば、〈火の国の魔人〉に対して完全に対処ができる。だがそれも、彼が《妖剣ユングヴィ》を持ち、爽健であればという前提によるものだ。先の決闘でその両方を失った彼では、〈火の国の魔人〉に対処するには至らないかもしれない。つまり、〈火の国の魔人〉が出たら終わりだ。
ブリュンヒルドは倒壊した家屋の中で座り込んだままで趨勢を見守っていた。料理の最中だったのかもしれない、家屋の中で煌々と炎が燃えていた。近くではアース神族や人間族の死体が倒れている。それだけなら、まだ良い。
不味いのは《狼套ウーフヘジン》によって操られていた人間族の〈狂戦士〉が暴走していることだ。単純に機能不全を起こしたのか、〈世界蛇〉と〈雷神〉によって九世界が被害を受けていることに関連があるのか、あるいは別の場所で何かしら〈神々の宝物〉にその恩恵を与えている〈世界樹〉に影響を与えているような出来事が起きているのか。
自分が嘆くべきは〈雷神〉と〈世界蛇〉の戦いではなく、箍の外れた〈狂戦士〉どもに襲われることかもしれない、と思いながらブリュンヒルドは炎の明かりを受けて輝く己の長い銀髪を弄った。こんな急に新たな戦いが始まるとは想定していなかったため、頼りになる同行者とは離れてしまっていた。
九世界の崩壊が徐々に近づきつつあった。
***
***
巨大な狼がひぃひぃ言いながらうつ伏せになり、両の前脚で目を覆っているのは笑える光景だ。ぴんと伸びていたはずの傷だらけの立て耳は伏せられていて、とにかく情けない。これでも自分の兄だ。
「腕がっ、腕が落ちてるっ」
叫ぶフェンリルに「あんたが食い殺した男の腕だよ」と言うのは勘弁してやった。たぶん、言ってたら嘔吐して収集が大変だっただろうから。
代わりにヘルは彼の背に乗り、耳の裏に手を伸ばして撫で擦ってやった。
「ここは戦場だから、腕の一本や二本珍しくないだろう?」
「珍しくなくても、怖いものは怖い」
薄目を開いたフェンリルは、腕が今にも動いて掴みかかってくるとでも思っているのか、落ちている腕から一定の距離を保って円を描くように移動した。その警戒っぷりは面白く、ヘルは背中の上で笑わないようにするのに苦労した。
「ふぅ………」と腕があった場所を通り過ぎてフェンリルが息を吐いた。それがまた愉快だった。彼は地面に鼻先を当てて匂いを辿る。「うーむ、母さんのいる塔はどっちだろう。いろんな臭いがあってよくわからない」
「向こうだよ」とヘルは東を指差す。「でも道が崩れてるな。階段を登ってから中央のほうまで行けば、たぶん塔への入口があるはずだ」
「了解」
フェンリルが素直に従ったため、ヘルは嘘を吐いて外へ出るように誘導すれば良かった、と後悔しながら後ろを見た。特に何があったというわけではない。崩れた壁と天井。それだけ。
(あれ………?)
ふと気になってヘルは後方を振り向いた。落ちていたはずの切れた腕は見えなかった。どこへ行ってしまったのだろうと探しているうちに視界が遮られてしまったため、ヘルはそれ以上、腕を探すことができなかった。
(ま、いいか)
まさか腕だけでひとりでにどこかへ行ってしまったなどということがあるはずがない。きっと見逃しただけだろう。あるいはフェンリルがひぃひぃ言いながら、無意識のうちに蹴とばしてでもしてしまったのかもしれない。
そんな思考を中断させたのは、今日二度目となる情けないフェンリルの叫び声だった。今度は「あひゃあ」で前回の「ひぃ」より情けなさがだいぶ向上している。
だが、声につられて顔をあげたヘルも、思わず声を漏らしそうになった。
ヴァラスキャルヴ。塔を囲む円状のその構造物は円弧に沿った長い回廊とその左右に部屋を持っており、外周部の階段を登りきった、おそらくは最上層は下とは少し違っていた。中央の塔へ至る架け橋があるためであろう、円弧の内側には部屋がなく、そのぶんだけ通路が広い。
そしてその広い通路の真ん中に豪奢な椅子があり、何かが腰掛けていた。人神。形はそれだ。亡者ではない。だが動かない。色もおかしい。焼けた肉のような色。僅かに残る頭髪は真っ白で、色や形がわからぬほど褪せた服の下の肉は薄く、骨に貼り付いている。木乃伊化した遺体だ。椅子の傍らの床には槍が突き刺さっていた。
「し、死体だ……」
と震える声でフェンリルが言った。また目を覆っている。わりと可愛らしい。
「なんでこんなところに? ちょっと近づいてみてくれ」
「やだ」
「なんで?」
「なんで近づかなきゃ駄目なの?」
「よく見えないだろう。なんでこんなところに死体があるのか気になるじゃない。調べてみないと」
「やだ。あれ、絶対動き出すやつだから」フェンリルが音を立てて深く息を吐く。「槍とか引き抜こうとすると絶対襲い掛かってくるやつだから」
いつのまにこんな臆病な兄になったのだろう、とヘルは思ったが、よく考えれば昔からこうだったように思える。優しいというより、臆病なのだ。自分も他人も傷つくのが嫌いなのだ。そしてマザコンだった。何も変わっていない。
ヘルは溜め息を吐いてから、狼の背から飛び降りた。ゆっくりと椅子に座る木乃伊へと近づいていく。特にこの場所が乾いているだとかいうことはないので、ここで死体を椅子に座らせても木乃伊は出来上がりはしないはずだ。ではなぜ、こんなところに。
近づくにつれて、木乃伊の状態がよく見えるようになってくる。瞼は閉じられ、当たり前だが身動ぎひとつしない。そして木乃伊は足に黄金色の脚絆を身に着けていた。ほかが風化しかけた服だったため、それはひときわ目立っていた。
(あの脚絆と槍は〈神々の宝物〉か……?)
〈神々の宝物〉にはたいていルーン文字が刻まれていて、それがまるで模様のように見える。そしてその木乃伊の所持品には見事な装飾が施されていた。しかも、そのうちの片方には見覚えがあった。
(《戦槍グングニル》……!?)
床に柄まで突き刺さっている槍の見惚れるほどの装飾は、投げれば狙った場所に必ず突き刺さるという《戦槍》で間違いない。
もっと近くで見てみようと思って踏み出そうとしたヘルは、何かに後方に引っ張られるような力を感じた。なんだ、まさか、槍の近くに佇むこの木乃伊が斥力を放っているとでもいうのか――と思いきや、単にフェンリルが後方から《銀糸グレイプニル》の束をヘルに絡みつけ、引っ張っていただけだった。
「あ、危ない」
「危なくないから離して」
しぶしぶといった調子でフェンリルは《銀糸》の拘束を緩めたが、命綱のつもりなのか、糸は絡めたままだった。まぁ、いい。ヘルは木乃伊の傍まで歩み寄った。もちろん、椅子に座るその姿に動きはない。床に突き刺さった《戦槍》を掴み、引っ張る。
(抜けない……)
両の手で掴んでも駄目だ。
「ちょっと引っ張ってくれ」
と槍の柄を掴んだままでフェンリルに頼むと、これ幸いとばかりにフェンリルは《銀糸》でヘルの身体を引っ張った。
だが槍が抜けるよりも、ヘルの手甲から槍の柄が抜けるほうが早く、彼女は尻餅をついた姿勢でフェンリルに引きずられることになった。
「駄目だな。抜けないな。よし、行こう」
とフェンリルはこれ幸いとばかりにヘルを己の背まで引きずり上げる。
「おい、待て。まだあの足甲を確かめては………」
「駄目。危ない。怖いし」
どうせ通常の〈神々の宝物〉は己の半身を生かす力すらないヘルには満足には使えないので、〈神々の宝物〉を放置してしまうことそのものは構わない。だが気になるのは《戦槍》と謎の足甲型の〈神々の宝物〉があんな場所に放置されていたことだ。傍らの木乃伊も謎だ。
だが、ヘルはいまは謎を追求することよりも、己ときょうだいと生かすために動くべきであると思っていた。だから思考を前に向けた。
「あれが動き出さないかどうか見張ってて」
フェンリルは木乃伊から一定の距離を保ったままで円を描くように通路の奥へと移動し、慎重な足取りでロキの住んでいた塔のほうへと脚を向けた。
「動かないよ」フェンリルの怖がりぶりが可笑しくて、ヘルは噴き出した。