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犬の一生  作者: ブリキの
四、ラグナレク
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4.7. 妖精王対火の国の魔神 - 4

世界樹の管理者(ニヨルド)〉は事態は把握しており、その対処法さえも知っていた。九世界ではヴァン神族の首長という立場である彼は、しかし動かなかった。己の息子ということになっているフレイとその妻の苦しみを感じながらも動かなかった。いや、動けなかった。彼には事態に対処をするだけの力はあったが、為すべきことは見つけられていなかった。

 だからただ、ただ……事の趨勢を見守っていた。


   ***

   ***


 未明のことだった。


 声が出なかった。身じろぎもできなかった。何も見えなかった。だから痛みを紛らわすことすらできずに、ゲルドはただ耐えていた。

「おまえはフレイを愛する」

 その声は、まるで己が心の中で呟いたかのように感じられた。フレイ……フレイ。あの男。ゲルドをアース神族から助けてくれたヴァン神族。アース神族と同行はしてはいるが、けっして彼らと志を同じくしているわけではない民族。優しくて、ちょっと間の抜けた男。

「おまえはフレイを愛する」

 声は繰り返した。ゲルドは背中に焼け付くような痛みを感じた。背中に何かを刻まれているのを感じた。

 フレイをわたしが愛する?

 ありえない。なぜならゲルドは巨人族の〈金の鬣〉ことフルングニルの妻だからだ。彼が明日、決闘する相手と婚姻しているからだ。ゲルドが心の底から愛する男性は、フルングニルただひとりだからだ。

「おまえはフレイを愛する」

 声はゲルドの内側へ内側へと入っていくと同時に、背中に刻まれた傷も皮膚の表面ではなく肉へ骨へと食い込んでいくのがわかった。


 陽が昇ってから、ゲルドはたったひとり、寝台の上で目覚めた。周囲には誰もおらず、戸も窓も閉まっていた。部屋のどこかしこにも荒らされた形跡はなく、静かな夜があっただけのはずだった。

 寝間着の下に指を這わせる。背中に傷も跡もない。

 だがフルングニルの死の報を聞いたあとでも涙が一滴も流れなかったことで、ゲルドは己の身に起きた出来事が事実だと悟った。


   ***

   ***


「それが、この魔術の刻まれた経緯です」

 巨人族の女ーーゲルドだとかいったか、それが語った内容を聞きながら、〈火の国の魔神(スルト)〉はフレイを一瞥した。目を見開く彼の表情に刻まれているのは憤怒や不快感ではなく、単純な驚愕だ。これは嘘ではあるまい、とスルトは思った。フレイはこの女が、さながら〈神々の宝物〉のように魔術を刻まれ、彼を愛するようになったなどとは知らなかったのだ。フレイを愛するようにだとかいう巫山戯た魔術を刻んだのは、この場にいない第三者に違いない。

「で、それは誰だ。魔術を刻んだものは誰だ」

 問いに対し、ゲルドは首を振る。「わかりません」

「誰だ」

「わからないんです………」

 ゲルドはあくまで魔術を刻んだ者の名を答えることを拒んだ。

(魔術が刻まれた事実や刻まれた内容については話すが、誰が刻んだかまでは話さない、と………)


 考えられるのは3つ。単にゲルドが嘘を吐いているか、ゲルドは魔術を刻まれるときに相手の顔を見なかったか、でなければ、魔術の中に刻んだ者を黙秘するようにという呪言が含まれているか、だ。そしてスルトは、最後の可能性が正しいような気がした。

 だがそうなると、疑問が湧き起こる。

 人神の身体に魔術を刻んだのだ。秘匿にするのは当然だ。だが隠すのならば、魔術を刻まれたことそのものを隠せばよいのではないだろうか? スルトのように魔法を察知できる存在との接触や人質をとられることを警戒していたとしても、魔術を刻まれたが他のことは何も覚えていないということを喋らせればよいだけで、その魔術がどんなものなのかまでは言う必要がなかったはずだ。少なくとも、魔術を刻んだ者がフレイのためにゲルドの心を操ったのであれば、死ぬまでそれは秘密にしておくべきだったはずだ。

 まるで、そう、これは死の間際にフレイを絶望に陥れるための罠のような………。


 スルトは首を振った。考えるのは〈火の国の魔神〉の役目ではない。為すべきは、汚れた魔法を焼きつくし、浄化すること。たとえこの九世界そのものが崩壊することになったとしても。

 もはやこれ以上情報は引き出せぬとみて《炎斧レヴァンティン》を引いたとき、スルトはぶつぶつと何かを唱えるフレイの声が聞こえた。嘘だ、嘘だと彼は言っていた。

「フレイ、本当のことです。わたしはフルングニルの妻でした」

「嘘だ………」

「ごめんなさい、フレイ………。でもーーー」

 ゲルドが何かを言いかけていたが、スルトは気に留めなかった。そのまま《炎斧》の切っ先で彼女の胸を貫いた。血は吹き出さなかった。浄化の炎がまるごと焼き払ったから。

「あなたのことはいつしか本当に愛するようになっていました」

 それが末期の言葉となった。


「フレイ、いまの言葉が真実だと思うか。あの女の心の底からの想いだと思うか。今際の際の言葉なら信じられると思うか」黒く炭化した穴から《炎斧》を抜き、動かなくなったゲルドを抱きかかえたまま身じろぎもしないフレイに問う。「〈世界樹〉がある限り、九世界は魔法の支配からは逃れられん。あの女の言葉が真かどうかは、もはや――」

「黙れ」

 言葉が遮られたとき、スルトは目の前の男に得体の知れない感覚を感じた。これまでに薄っすらと漂っていた魔法の香が強くなるのを感じた。溢れるようなルーンを感じた。


〈世界樹〉の根がこれまでとは打って変わった蛇のごとき速さで滑り、スルトの馬に絡んだ。先ほどもこの攻撃は受けた。だが今度の根はあまりにも早く、落馬するよりも前にスルトの四肢に根が巻き付いた。浄化の炎でも焼き切れない〈世界樹〉の根は、スルトにとっては天敵だった。

 次から次へと地面から生える根が槍のように鋭くなり、四肢を拘束されたスルトの全身のあらゆる箇所を貫いた。根は表面を焼かれながらも腹側から背中側へと貫通し、巻き付かれた部分は肉も骨も砕いて小枝のように補足されたあとにばらばらにされた。根は原型を留めていないスルトの身体を地面に叩き伏せた。僅かに煙が起こり、あとには不快な臭いだけが周囲に漂った。


   ***

   ***


 フレイはゆっくりと立ち上がった。


 身体が重かったのは、ゲルドの遺骸を抱いているせいではなかった。〈世界樹〉の根が以前よりも素早く、強靭に操れるようになった一方で、その魔法はフレイの身体にこれまでとは比べ物にならないほどの負担をかけるようになっていたのだ。

 それでも、行かなければならない。力を使わなければならない。

 目の前にひときわ巨大な根が突き出てきたので、それに触れる。扉のように根の表皮が剥がれると、中には人神ひとりが入れるような空間が広がっていた。甘く輝くその中に、眠っているように見えるゲルドの身体を収めた。表皮の蓋を閉めると、根はゆっくりと地の中へと戻っていく。


 そしてその場から立ち去った。今度この場に戻ってくるときは、彼女の命を――彼女の偽りのない心を助ける方法を見つけたときだろう。

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