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犬の一生  作者: ブリキの
四、ラグナレク
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4.3. 雷神対世界蛇 - 3

雷神(トール)〉は現在の九世界がどれだけの窮地に立たされているのかはまったく知らなかったが、どれだけの危機であろうとも解決方法はわかっていた。


 このハンマーで。

 ミョルニルの一撃で。

 どうにでもなる。

 これまでずっとそうだった。だからいまも、そう信じて疑わなかった。


 遥か西の彼方まで〈世界蛇(ヨルムンガンド)〉を弾き飛ばした《雷槌ミョルニル》は稲妻を落としたのちにヴァルハラのトールのもとまで戻ってきた。さすがに距離が長かっただけ、戻って来るのに時間がかかった。

 イドゥンと別れてから己の館に戻り、馬に鞍を乗せたあたりでようやくミョルニルが戻って来る。短くなった柄を掴むと、第二平面ミッドガルドでの出来事を思い出さずにはいられない。戦争中、ミッドガルドに迷い込んだとき、トールとロキは協力し合った。互いに命を助け合い、なんとか生き延びた。巨人族の国ヨツンヘイムでは、いまと同じように〈世界蛇〉に襲われ、危うく喰われかけた。そのときに、歯から逃れるためにロキが《雷槌》の柄を切断したのだ。


 あのときに使われた〈神々の宝物〉が、シフを貫いたものときった同じものだ。


 トールは馬を走らせ、一望しやすいようにヴァルハラ都の小高い丘に戻った。朝焼け刻のヴァルハラは赤く染まっていた。燃えるように――奇妙なくらいに、赤く、紅色に。

 そしてトールはロキを見つけるよりも早く、西の端から駆けてくる獣を見つけた。〈魔狼(フェンリル)〉。〈世界蛇〉と同じくロキの胎から産まれた化け物。

 トールは《雷槌》の短くなった柄を片手で握りしめ、振りかぶった。


   ***

   ***


「フェンリル! フェンリル! おい、フェンリル!」

 一瞬でも腕の力を緩めれば振り落とされそうな加速を受けながら、ヘルは必死にフェンリルの背中にしがみつき、彼の名を叫び続けていた。

「わたしだ! ヘルだ! おい、止まれ!」

 だがどんなにか呼び続けても、フェンリルの疾走は止まらなかった。背中から落ちぬように、血や糞尿で汚れたその毛を掴むヘルには、彼の表情は見えない。


 フェンリルは《銀糸グレイプニル》の楔からは開放されていた。それはおそらくは、彼が拘束されていた洞窟を破壊して飛び込んできたヨルムガンドと、その身体に突き刺さっていた〈神々の宝物〉のためだろう。《雷槌ミョルニル》の雷撃はヨルムガンドだけではなく、近くにいたフェンリルにも伝わった。

 アース神族最強の戦士、〈雷神(トール)〉。〈巨人殺し〉とも呼ばれる戦士であり、人間奴隷の〈狼被り(ベルセルク)〉が主なアース神族軍の中で、最前線に立つ将であり、飛び抜けた力を持っていることは知っていた。

 その力がフェンリルにまで及んだ。

 雷の一撃を受け、ヘルに纏わり付いていた赤黒い触手はまるで瘡蓋(かさぶた)のように固まり、ぼろぼろと崩れた。ヘルに絡んでいたものだけではなく、フェンリルの身体から突き出ていた触手すべてが、浄化されるように崩れ始めていた。そしてその中からは《銀糸》の名に相応しい、白銀の糸が見えていた。

《銀糸》の拘束から開放されたフェンリルは四肢を踏み鳴らし、残りふたつの〈神々の宝物〉ーー《レーディング》と《ドローミ》の鎖をも己の力で引き千切ったーーいや、〈神々の宝物〉が壊れるわけがない。絡んでいた錘と鎖とを銀の糸が解いたのだ。《銀糸グレイプニル》が、もはやフェンリルの支配下にあるのは明らかだった。


 それは喜ばしいことで、だがフェンリルが突如として走りだしたのには焦った。咄嗟にその毛を引き掴んで背に乗ったが、どんなにか叫んでも、鎖と鉄球を引きずりながら疾走するフェンリルは止まろうとはしなかった。

(ヨルムガンドも心配なのに………!)

 これまで何度も戦っているとはいえ、〈雷神〉の一撃、しかもこれまで見たことがないほどの目の眩むような雷を受けて、無事であるはずがないのだ。ようやく会えたもうひとりのきょうだい、ヨルムンガンドとは、しかしその状態を確かめることすらできぬままにフェンリルの背に乗ったヘルは移動し続けていた。

 周囲の風景を確かめる。まだアースガルド大草原だが、フェンリルの鼻先の方向には半ば壊れた巨大な石壁が立ち並んでいた。

(ヴァルハラの長城か………)

 どうやらフェンリルが目指しているのは、第一世界グラズヘイムのようだ。アース神族たちに拘束されたというフェンリルにとってはあまりに危険過ぎる目的地だ。それなのに、なぜ、グラズイヘイムへ?

「フェンリル!」ヘルは背中の上からフェンリルの身体を叩く。手甲で皮膚を突き刺して刺激する。「そっちは駄目だ! 止まって! 殺されるだけだ!」

 考える必要もなかった。彼は母親のことを溺愛していた。〈狼の母(ロキ)〉をーーヘルやフェンリルの母親を探すつもりなのだ。


 母さん。

 声が聞こえた。低い声が。それがフェンリルの喉奥から漏れているのだと、ヘルは遅れて気づいた。

 母さん、母さん。


 この状況では正気とは思えない行動だが、どれだけの長い間、彼は《銀糸グレイプニル》に拘束され続けていたのだろう。腹の中を食い破られ、肉を内側から押し破られ、眠ることすらできぬ痛みに苛まされ続けていたのだろう。正気を失っていても、それは当然だという気がした。

「やめて、フェンリル! 母さんは助けてくれない! 何もしてくれないの! 無駄なの! 殺されるだけ! ねぇ、死にたくないでしょう!?」ヘルは必死に叫ぶ。「だから止まって! 止まってよぉ………」


 これまでの度重なる戦争さえも生き抜いたヴァルハラの長城は、フェンリルにとってはなんの障害にもならなかった。彼は一足でそれらを飛び越えた。

 だが三度目に石壁を飛び越えようとした際、目の前に光り輝くものが迫っていることに彼の背中のヘルは気づいた。ミョルニル。雷神の武器。フェンリルを開放したはずの〈神々の宝物〉が、今度はフェンリルに刃を向けていた。当然だ。ヘルたちは亡者であり、神でも人でもない。ミョルニルがフェンリルを解放したのはあくまで偶然であり、神々にとってはフェンリルやヘルは恐るべき対象なのだ。


 石壁を超えるために跳躍したフェンリルには、ミョルニルは避けられるはずがなかった。そして〈ミッドガルド蛇(ミズガルズオルム)〉の異名をとるほど巨大なヨルムガンドと比べれば遥かに小さなヘルやフェンリルがその直撃を受ければ、跡形もなくなるであろうことは簡単に予想ができた。

 ヘルはこれまで必死で生きてきた。そう、生きようとしなければ必ず死ぬ環境だった。いつか……いつか幸せになれることを祈って生きてきた。きょうだいを助け、平穏な暮らしができることを夢見ていた。

 だが、駄目か。ヘルは何もできなかった。


 ヘルは瞼を閉じた。そして待った。訪れる死を。

 だが死よりも早く、フェンリルが地に着地した。目を開けば、その理由は明らかだった。アースガルド大草原西でミョルニルの一撃を受けてひくひくとしていたヨルムガンドがいつの間にかフェンリルたちに追いついていて、投擲された《雷槌ミョルニル》をその大顎で受け止めていたのだ。


(嘘………)


 ヘルはヨルムンガンドがアース神族軍最強の戦士、トールの一撃を受け止めたことに驚いているのではなかった。

 ヨルムンガンドがヘルとフェンリルを守ってくれた。

 きょうだいを守ってくれた。

 嬉しかった。たとえそれが勘違いであり、ヨルムガンドが好敵手であるトールを求めて追いかけてきただけだということに気づいたあとでも。


 ヨルムンガンドを振り返ることなくフェンリルはそのまま疾走し、ヴァルハラの都を駆け抜けたあとは中央の巨大な為政者の館、ヴァラスキャルヴに突っ込んた。

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