4.2. 雷神対世界蛇 - 2
〈半死者〉は現在起きている状況に関しての知識をある程度は持ち合わせていた。だがその知識はあまりに生半可であり、人伝のその知識はこの状況を打開するのにはまったく役には立たなかった。
現在の彼女の頭の中を支配していたのは、同じ胎から産まれたきょうだいを救うことであった。
きょうだいの一人、〈世界蛇〉と呼ばれるヨルムンガンドに会うことは叶わなかった。ミッドガルドの海岸を渡り歩き人々の話を聞き歩いてみたものの、海の中を彷徨っているはずのヨルムンガンドに会うことは簡単なことではなかった。誰かの協力を募ろうにも、ミッドガルドには知り合いはいない。そもそもこれまでにないほどの厳しい冬に襲われたミッドガルドで活動をすること自体が容易ではなくなっていた。
もう一人のきょうだい、〈魔狼〉ことフェンリルの居場所はわかっていた。
アースガルドから追放されたのはヨルムンガンドが最初で、次がヘルだった。産まれてすぐにミッドガルドの海に捨てられたヨルムンガンドは捨てられる間際にその姿を見たことしかないが、フェンリルとヘルは同じ家に棲んだ期間は僅かだが見知った間柄であり、お互いのことを知っている。かつてのフェンリルはほとんど狼そのものの姿であった。柔らかそうな長い毛に覆われたその姿を、兄ながら可愛らしいと思ったものだ。
いま、目の前にいるフェンリルの姿はそれとはまったく違っていた。
第一平面アースガルド西の大草原に連なる岩山。そのうちのひとつの壁にある洞窟の中にそれは潜んでいた。空間すべてを埋め尽くすほどに肥大化した身体。異常に節くれ立ち、膨張した四肢。両手両足、そして頭で洞窟の壁面を叩き、地震かと思うほどの揺れを引き起こしている。鼻で風が巻き起こるほどの量の呼吸をし、口からは常に耳を塞ぎたくなるような唸り声を挙げ続けている。口の端や身体の様々な部位から血とも体液とも着かないような黒い液体が流れ続けている。その液体は岩肌を腐食させ、融解させているようだった。
(なに、これ………)
何よりもその容姿を醜くさせていたのは、全身から生える触手だった。ふさふさの白毛とはまったく違う、太く赤黒い、血管のような触手。それが口から、鼻から、眼窩と眼球の隙間から、尻の穴や全身の毛穴まで穴という穴から飛び出し、蠢いていた。触手は洞窟の床や壁面を叩くだけではなく、天井に開いた穴から伸び、近くを通りかかる鳥や獣を捕えているようだった。生き延びるために。
「フェンリル……」
ヘルの声に反応してか、触手が伸びてくる。それが自動的な反射反応なのか、フェンリルの意思によるものなのかはわからなかったが、その触手が小鳥のようにヘルを喰らおうとしていることは容易に理解できた。
手甲と槍で触手を叩き落すが、なおも触手は迫ってくる。一本一本が強靭なしなやかさを持っており、払いのけるのは困難だった。何よりその見た目の醜悪さがヘルには辛かった。
「フェンリル! わたしだ!」ヘルはフェンリルが意識を保っていることを期待して叫ぶ。「ヘルだ!」
フェンリルにその言葉はまったく届いていないようだった。地鳴りのような轟音のせいか、フェンリル自身の遠吠えのせいか、それとも声は届いても意識がないのか。
フェンリルを拘束し、全身から生え続けて蠢くあの触手について、ヘルには僅かながら知っていた。《銀糸グレイプニル》。臓腑に寄生し、その自由と血肉を奪う最悪の〈神々の宝物〉と聞いている。だがまさかここまで気味の悪い姿にするほど影響力があるとは。まるでフェンリルの全身が裏返り、血管が弾け飛んでいるかのようだった。ヘルはフェンリルがアースガルドで拘束されていることは知ってはいたが、己の目で見るまで、ここまで酷い状態であることは予想だにしていなかった。
どうすればいいのか。そのことについてもヘルにはいちおうの知識があった。一部の所有者の手から離れながらもその能力を行使する〈神々の宝物〉には所有権の定義があり、その所有権利者の命令に従って動いている。だから、その所有権利者による命令を妨害する程度の呪力を叩き込めれば、《銀糸》そのものは破壊できずとも、一時的に魔術の実行を止められるかもしれない。
だが――だが、ヘルにはそれだけの力がなかった。ヘルの身体は死にかけだ。〈半死者〉として生きているゆえ、己の身体を生かすことすらままならないヘルには、フェンリルを助けられない。
だんだんと洞窟の奥へ奥へと追い込まれていく。フェンリルの触手はいくつ叩き落し、切り落としても生えてきた。どんどんと数が増えていく。
背中に何かが触れる。壁だ。追い詰められた。
選択肢はもはやふたつしか残されていなかった。ひとつは、フェンリルを見捨てて逃げるということ。もうひとつは……もうひとつは、触手を突破してフェンリルを殺すこと。
フェンリルは苦しんでいる。殺して生から解放してやらない限り、寿命が来るまで彼はこのまま苦しみ続けることになるのだ。
きょうだいとして産まれ、僅かな期間とはいえ共に時を過ごした彼をこのまま放置していたくなかった。
ヘルはトネリコの樹を削り出して作った槍を振るった。切り落とされた触手が蚯蚓のように蠢く。踏み潰すと、赤黒い血が破裂した。いくつかの触手はヘルの身体に伸び、鎧を傷つけたが、もはやヘルは防御を忘れた。槍をきょうだいの心の臓に突き刺すために。
触手を掻い潜って接近し、ヘルは槍を掲げた。
目が合った。
フェンリルの眼球は白く濁ってはいたが、金色の瞳はヘルと同じだった。ヨルムンガンドとも、母――母と認めたことはないが、ヘルたちを産んだロキとも。
ヘルの槍にフェンリルの触手が絡みついた。一瞬の油断。手、足、首。四肢が拘束されたあとには、その命を締め付けんと力を籠めてくる。動けない。抵抗もできない。死ぬ。助けられなかった――フェンリルも、ヨルムンガンドも。
ヘルは眼前が白で塗りつぶされるのを感じた。
死。
死ぬというのなら既に何度も死んでもおかしくはないような経験をしてきた。そもそも半身はほとんど崩れ、無事な部分でさえ腐りかけて厭な臭いを発している。半分死んでいるといっても間違いではない。それでもヘルはここまで来た。ニヴルヘイムに落とされてなお、ユグドラシルを登ってここまで戻ってきた。だから、こんなところで死ぬはずがない。
白は死ではなかった。光。第三平面ヘルモードでは僅かにしか存在しなかったもの。衝撃よりも振動よりも音よりも早くやってきた光。
岩壁が、いや、洞窟全体が崩れる。身体が地面に叩きつけられた。痛い。痛いが振幅のある痛みは今までよりは心地良かった。
痛む身体を無理矢理引き起こす。崩れてくる天井の岩盤を受け止めて、周りを見回す。何が起こったのか。その答えは目の前にあった。
フェンリルを遥かに越える巨体、光る翼を持つ蛇がそこにいた。
(ヨルムンガンド……!?)
なぜヨルムンガンドが、いったい、どこから。
その疑問に対する回答を見つけるまえに、ヨルムガンドの巨体にこれまで見たこともないような巨大な雷が落ちた。