3.17. 世界蛇ヨルムンガンド、力の滅亡の引き金となること
シフという女性は明るい人柄だった。トールに対しては丁寧な言葉遣いながらも親しげな口調で、トールもそれを受け入れているようだった。つい先日、第一平面アースガルドに戻ってきたロキは知らなかったが、彼女はトールが負傷してグラズヘイムに戻って以来、ずっと看病を続けていたのだという。彼女は金の簪を黒髪に差していた。それはトールから貰ったものなのだという。彼女は、トールと恋仲なのだという。これまで長いこと、トールとともに暮らしていたのだという。そしてこれからも。
トールが治療を受けているヴァラスキャルヴを、ロキはシフとともに出た。アースガルドでのロキの棲み処はヴァラスキャルヴの尖塔であり、わざわざ外に出る必要はなかったが、彼女と話をしてみたかった。どうせ、このまま誰もいない塔に戻っても何もすることがない。
これまでまったく接点がなかった相手であり、しかもロキはといえば話下手だ。会話をしたいとは思っても、ろくろく話は弾むまいとは思ったが、そんなことはなかった。シフはよく喋った。ロキには直接会ったことはなかったが、トールから話を聞いて知っていたのだという。彼女はロキが巨人族であるということも知っていたが、それをまったく意にも介さず話してくれた。トールが好きになったのもよくわかるとロキは思いながら、改めてシフの姿を観察した。長い黒髪に可愛らしい顔立ちで、もちろん彼女には異形の翼なんてものは生えていない。
(こんなひとがいたなんて、知らなかったなぁ………)
ヴァラスキャルヴの尖塔に棲むようになってから、外に出る機会はといえば、トールやフレイなどが訪ねてきてくれるときくらいで、彼ら自身は気兼ねなく話してくれる存在ではあったが、ロキが疎まれている存在であるということを知っていた。であれば、誰かを共として連れてくるということもなかった。ロキはシフのことを――トールに大事な相手がいるということを知らなかった。
シフをトールの居住である〈雷鳴館〉まで送り届けてから、ロキは身体を浮かせる程度にまでは回復した双翼を広げて空に浮かび上がった。夜空を西に駆ける。
第二平面へと通じる〈虹の架け橋〉の傍ら、フェンリルが縛られている岩山のすぐそばの枯れ樹の枝にとまる。アースガルドは常に温暖だが、四季のあるミッドガルドにほど近いこの場所では、冬の冷気の流れを強く感じる。今ミッドガルドは冬の真っ只中だ。だがしかし、トールとともにミッドガルドにいたときも同じような寒さだった。
(〈剣の冬〉。〈斧の冬〉。〈狼の冬〉。3年、いや、4年続く冬………)
それが必ずしも予兆とは限らない。だが、これまで〈力の滅亡〉の前には先触れとして異常な現象ばかりが起こってきた。〈火龍〉の饗宴と炎の夜。虫たちの空。〈世界樹〉の騒めきと落葉。そして、いま起こりつつある〈冬の中の冬〉もこれまで起きた〈力の滅亡〉の予兆としてはあまりにもそれらしいように感じられた。
だが、それよりも。いま、耳に己の息子であるフェンリル狼の慟哭を、遠吠えを、地響きを、風穴の空いた岩盤から突き出す大量の触手を目の当たりにしながらも、ロキの心の中で占められていたのは〈雷神〉のことばかりだった。
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(おれは、馬鹿なことをしているのだろうか)
まだ痛む身体に鞭打って馬に乗り、身体を吹雪に晒しながら、トールはミッドガルドにいた。リュングヘイドとの贖罪の約束を果たすために――オッタルや彼女の家族を殺した償いをするために。
誰にも、何も言えなかった。シフにさえも。いや、彼女だから、か。何を言っても、この贖罪の旅を許してくれるとは思えなかったからだ。フレイやロキにも彼女への言伝は頼めない。彼らもこれからトールがしなければならない贖罪のことを聞いたのならば、きっと止めただろうから。
だからトールはただ、《雷槌ミョルニル》以外で己の唯一の財産ともいえる〈神々の宝物〉――今回の戦争での褒章として受け取った品をシフのために置いてきた。といっても、ただの布切れだ。真っ白で、刺繍がしてあって、綺麗だというだけだ。どうせ、トールには手拭いとしてしか使えないような品だ。いちおうは〈神々の宝物〉なので丈夫であり、価値があるものではあるのだが、喜んでもらえるかどうかはわからない。もしトールが戻らなければ、それが手切れとなるだろう。
ミッドガルドの人間族の女、リュングヘイドはいったいどんな贖罪を願うだろうか、と考えてみると、おそらくは死だろうと予想がつく。なにせ、彼女は一度トールを殺そうとしている。
しかし死を願われても仕方がないだけのことをトールはしたのだ。彼女の父を、きょうだいを殺し、あの貧しい村で生きるための生命線を潰した。ミッドガルドに波乱を齎し、一応は安定していた巨人族の国を滅ぼした。
彼女がいかなる願いを言ったとしても、トールは受け入れるつもりでいた。心残りは数数多あるものの、しかし自分が殺してきた巨人族たちに比べればたいしたことのない量だろう。リュングヘイドは、ロキを無事に送り返してやりたいというトールの願いを聞き届けてくれていて、少なくともその願いは達成できた。だから、もう思い残しはないとまでは言えないまでも、すっきりした気持ちで彼女のもとへと向かえる。
雪は深く、馬の歩みは遅い。リュングヘイドの村まで辿り着くのに長い時間を要した。その間も雪は降り続け、気温は下がり続けた。長いこと季節が動いておらず、ミッドガルドではもう4度も冬が続いているらしい。世界が枯れ果てそうな冷たさの中、トールは馬をたびたび休ませながら移動した。
リュングヘイドの村に辿り着く。雪が深いためか、周囲の状況が一変していた。ほとんど雪で覆われていて、屋根が倒壊した家もあるほどだった。リュングヘイドの家は大丈夫だろうか。彼女の養父母と、彼女の子らシアルヴィとロスクヴァは。
人の気配がまったくないことにトールは気付いた。
記憶を頼りにリュングヘイドの家を訪ねる。半壊していた。屋根は落ち、扉は外れている。雪の重みで崩れたのか、あるいは他に外的な要因があったのか。
ほとんど機能を果たしていない扉を外し、家の中に入る。屋根も壊れているので当然といえば当然だが、家の中には雪が大量に入り込んでいた。ぼろぼろの家具が目に付く。人気はない。リュングヘイドも、シアルヴィも、ロスクヴァも。家財道具がトールがいたときよりも少ないのが目に付く。食料もない。盗賊の襲撃にあって奪われたのか、それとも引っ越したのか。しかし引越ししたにしてはこの荒れ果てぶりは不自然だ。たとえ雪と風の脅威を考慮に入れたとしても。
他の家々を回っても見たが、すべて同じだった。誰の姿も、声もなかった。
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帰路に着く。往復でひと季節は十分に過ごしたはずだが、まだ冬は衰えることなく続いていた。
贖罪する機会を失い、死は免れた。リュングヘイドの村はきっと盗賊の襲撃に遭ってしまったのだろう。彼女らの消息はわからないが、おそらく殺されてしまったのだろう。その場では殺されなくとも、食料などを奪われて冬を乗り切ることはできなかったはずだ。シアルヴィやロスクヴァも。
あの無邪気な二人の子どもたちの死を思うと、生を得たことを完全に喜ぶことはできなかった。
だがどんなにか悔恨しようとも、アースガルドは安堵の息が自然に出るほどに暖かかく、トールはただただ己の生を実感した。
自分の屋敷である〈雷鳴館〉の厩に馬を入れながら、トールはシフに何と言おうかと考えた。結婚の約束をしておきながら、急に出てきた。彼女はトールをどんなふうに思っているだろうか。長いこと留守にしてしまった間に、トールに愛想をつかしてしまったのではないだろうか、などとありえそうにもないことを心配する。トールにとって、ふたり目の妻になる彼女はけして彼のことだけを盲目的に愛してくれる女ではないが、相応の信頼関係がある。
ヴァルハラ都に入り、トールは己の家の戸を開いた。アース神族軍の将の家として宛がわれた、トールひとりで住むには大きすぎる屋敷。その屋敷に入ったところで、女はうつぶせに倒れていた。長い黒髪はアース神族を示すものだった。背中まで突き抜ける傷跡は死を告げるものだった。そして抱き起したその女の顔は、己の妻になる女性のものだった。
「シフ」
呼びかけても返事はなかった。瞼は閉じられたままで、よく動く唇も開かれぬまま。死んでいた。胸に、傷があった。いや、傷とさえ言えないような穴。黒く焼き焦げた穴は背中まで貫通していた。
トールはシフの遺骸を抱きかかえて、覚束ない足取りで屋敷を出た。常夏のアースガルドの空は青く澄んでいた。
「シフ………」
トールは彼女の穴に指を這わせた。硬く、触れると炭化していてぼろぼろと崩れた。ただ焼かれたのでは、このような傷口になるはずがなかった。だが熱せられた火箸を突っ込まれたにしろ、こんなふうに炭化したりはしないだろう。いったい何があったのか。
指はシフの胸元の穴に、衣服ではない何かを感じた。引っぱり出してみれば、彼女の胸の穴と同じように焼き焦げた布だった。胸元に入れていたのであろう。こんな布を――ただの布切れではない。トールは気付いた。刺繍も、色も、そして――《雷槌ミョルニル》を叩きつける。雷が落ちる。だがシフの胸元にあった布には、一切の傷も焼け焦げもなかった。ただ、彼女の胸に空いた傷口と同じ焦げ傷以外には。
(〈神々の宝物〉は簡単には壊れない)
それはそういった魔法がかけられているからだ、と聞いたことがある。
だがトールは知っている。〈神々の宝物〉を破壊する〈神々の宝物〉があることを。
《炎斧レヴァンティン》。
ロキが持つあの手斧は、第二平面のヨツンヘイムで、トールの《雷槌》の柄を切断した。そのため、いまや《雷槌ミョルニル》は両手で扱うことができないほどに柄が短くなってしまっている。
「ロキなのか」
シフを抱き、トールは問う。己に。
結論は出た。
「ロキ………」
怒りとともに再度叩きつけられた《雷槌ミョルニル》は、これまで誰も見たことがないような雷を生み出した。
***
***
かつて見た稲妻よりはるかに明るく、かつて聞いた雷鳴よりもはるかに大きなその雷を見て、〈世界蛇〉は歓喜した。
もっともっと近くで見たい。ヨルムンガンドはそう思った。以前にあの小さな〈雷神〉と戦ったときの傷はヨルムンガンドを苦しめていたが、いまはそれさえも気にならなかった。あの綺麗なにょろにょろを目の前で見ることができると思えば。あの光輝くにょろにょろとまた出会えるのであれば。
第一平面アースガルド。ヨルムンガンドはその名を知らなかった。第二平面ミッドガルドの海に住まうヨルムンガンドにとって、天高くにあるその平面はあまりにも遠かった。だが、だが――ヨルムンガンド自身にも忘れかけていたことだが、ヨルムンガンドには翼があった。
双翼を羽ばたかせ、ミッドガルドの海からアースガルドの大地まで飛ぶ。金色の光が落ちた地点に、小さな建物を見つけ、その前には小さな小さな生き物がいた。いつも金色のにょろにょろがあると、その近くにいる生き物。小さくて、でもとても強い生き物。
〈世界蛇〉は歓喜に震えた。ああ、やはり、やはり――これなのだ。これが金色のにょろにょろなのだ。これが、己の仲間なのだ。
そんなふうに喜ぶヨルムンガンドは、巨大な槌を受けて弾き飛ばされた。目の前が真っ白になった。地面に叩きつけられた衝撃で、アースガルドの大地がぐらりと揺れ、山は崩れ、河は震えた。燃える架け橋ビフレストの色はだんだんと色褪せていった。狼の鳴き声が響いた。ヨルムンガンドはひときわ大きく鳴いた。今まで冷え切っていた地面が急に燃え盛った。空気は熱で温められ、光は歪む。何かが燃えていた。第一平面アースガルドが燃え盛っていた。
〈力の滅亡〉の始まりだった。