1.5. 軍神チュール、黄金の林檎の守護を任ぜられること
フェンリル捕縛から9日後、チュールはヴァラスキャルヴの外環にある会議場に呼び出されていた。
「おぉ、来たか、まぁ座れ」
行き交うアース神族やその奴隷である〈狼被り〉たちの間をすり抜けて会議場に入ると、チュールをこの場に呼び出した本人である雷神トールが出迎えた。彼が言い切るまえに、彼から離れた椅子に座ってやる。
弓が撃てるほどに広い会議場にはトール以外のアース神族はいなかった。ならば公的な任ではあるまい。あるいはトールの私的な話か。であればわざわざ素直に呼び出しに応じる必要も無かったか――そんなふうに考えていたチュールは、トールの言葉を聞いて耳を疑った。
「巨人族と戦争が始まった」
「正式にか? ヴァン神族との戦争が終わってそう日も経っていないだろうに」
とチュールは驚いて聞き返した。
「まぁな。だがそういうことになっちまったんだ、仕方がない」
〈雷神〉はアース神族最強の戦士であり人望も厚かったが、戦略を立てたり、全体の流れをコントロールすることには向いていない。彼はあくまでも戦士だ。そして第一線に立つ戦士として、此度の戦を彼があまり良く思っていないことはその態度から明らかに感じられた。
――いや、彼はいつもそうだ。粗野で乱暴であり、アース神族最強という誉れ高い称号を受けながらも、戦争を好まないところがあった。
「で、なんだ?」チュールは尋ねる。これまで小競り合いが続いていた巨人族と戦争状態に入ったことは確かに大きなニュースではあるが、会議場にわざわざ呼び出して伝えるほどのことではない。「何か魂胆でもあるのか」
「そういう言い方をするなよ。ほら、あれだよあれ……ほら、特別任務ってやつだよ」
「特別任務?」
そんな単語がトールから出るとは思わなかった。というのも、昨今のアース神族の戦争といえば、大抵は彼が《雷槌ミョルニル》を投げて相手の砦を破壊してから、混乱に乗じて突撃すれば決着となるからだ。前回のヴァン神族との戦争でも、そうならなかったのは一度だけだ。だから戦において彼以外の神には任務も何もないものだ。
「そうそう、特別な任務のことだ。おまえ用の」
「どんな任務だ?」
期待とともにチュールは尋ねる。武勲を立てる良い機会かもしれない。
「うん。和平交渉ってことで、前にヴァン神族から二人こっちに来たろ。フレイとイドゥンのきょうだいだ。あの二人を巨人族の手から守る護衛任務だ。まぁ、一人は軍にいるし自分で身を守れるとして、もう一人だな」
チュールは最初に拍子抜けし、次に冷静になり、そして怒りを覚えた。
「それはだれが決めた?」
「おれだよ」トールは肩を竦める。「重要任務だぞ」
先の戦において終戦後、ヴァン神族と講和条約が結ばれたとき、約定を破られないようにとお互いの神族から位の高い人物の身柄を交換した。アース神族は将であったヘーニルとミーミルを送り、ヴァン神族から指導者の子であるフレイとイドゥンを預かった。
もしフレイやイドゥンに何かがあれば、ヴァン神族との争いが再開しかねない。現在巨人族と戦争が始まったばかりという状態で、機知に富むヴァン神族との戦争は厳しいだろうから、彼らを守るのが重要なことだということは子どもでもわかる。
だがそれは、わざわざチュールがやることのほどではない。そもそも二人のうち一人、フレイはトールに匹敵するほど強い。前回のヴァン神族との戦争の際に、トールの力だけではどうにもならなかったのが彼との戦だったほどなのだ。
彼の持つ〈神々の宝物〉はトールの《雷槌ミョルニル》ほど圧倒的な破壊力があるわけではないが、戦争下での有用性についてはミョルニルに匹敵する。もちろんフレイの強さについてはトールも言及していて、だからイドゥンのほうを守ってほしい、ということらしいが、護衛などつけなくても後方に下がらせておけば良いだけの話だ。フレイの妹ということだが、愚直な巨人族がヴァン神族とアース神族を仲たがいさせるためにわざわざイドゥンを狙ってくる、ということもあるまい。
「なんでおれなんだ」
「おまえになら任せられると思ったからさ」
とトールは事も無げに答えた。
(おまえになら?)
言いたいことは違うだろう。おまえになら、ではなく、おまえでも、だ。
右腕を狼に食い千切られたチュールでも、その程度ならできるだろう、とトールは言いたいのだ。そう言って馬鹿にしているのだ。
――いや、彼が純粋にチュールのことを友人として心配して言ってくれているのはわかっている。実際、《魔剣ティルヴィング》を得たとはいえ、片手では今までのような戦い方はできない。如何にして片手で攻め、守るかを考えなければいけない。
〈雷神〉はアース神族最強の戦士だ。強く、貴く、皆に平等で信頼されている。
だが彼には弱者の気持ちがわからない。
ある意味では、彼が〈狼の母〉に対して付き合えるのもそういった理由からだろう。彼は巨人族の身でありながらアース神族に身を寄せるロキの持つ後ろめたさも、惨めさも嗅ぎ取ることができず、肯定的な面しか見ないのだから。たまに他人の弱さを感じるとこれだ。あまりにも相手の弱さを心配しすぎ、そして弱みをもっと弱くする。何も考えずに、無邪気に。
逆らっても無駄だ、とチュールは思った。彼は彼の正義以外は信じない。正義を押し付けることはないが、しかし自分の意見や考え方は変えない。結局考えを押し付けているのと同じことになるのだが。
「いつまでだ」
「今日から……まぁ、日は特に決めていない。ある程度戦況が落ち着いて、アースガルドでの安全が確保できるまでかな。イドゥンはアールヴヘイムの近くの森に家を建てて住んでいるって話だ」
正直なところ、トールの命令に逆らいたかった。
しかし命令違反をして最前線に勝手に行こうにも、隻腕のチュールは目立ちすぎる。他の人神に発見されて、トールに追いかけられるのが目に見えている。でなくてもチュールは〈軍神〉だ。命令には逆らえない。
第三世界、光の妖精の国アールヴヘイムの近くにあるという森へ向かう間中、チュールの気分は重かった。前線から外されて護衛という名の楽な、そして功のない任務につかされたことになったのもその一端ではあったが、気分を重くしていたのはそれだけではなかった。
フレイの妹が護衛対象であることが悩ましいのだ。
チュールはフレイが苦手だった。それはフレイがヴァン神族で、アース神族であるチュールとはかつては敵同士だったから、などという理由ではない。もっと単純に彼の性質だ。性格だ。いってしまえば、嫌いなのだ。
以前、ヴァン神族との戦争が終わってフレイがアース神の元にやって来た頃に、トールにそう言ってみたことがある。だがトールの反応は真逆だった。
「そうか? 良いやつじゃないか」と彼は言っていた。「まぁ、ちょっと変わってるけどな」
フレイの態度を変わっている、で済ませられるあたりが彼の懐の深さかもしれない。
石造りの建物が消え、〈狼被り〉の奴隷どもが消えても、ヴァルハラの都を囲む巨大な石壁は続いていく。一度石壁を超えたと思っても、二度、三度と現れる防壁は、攻撃的であると同時に臆病でもあるアース神族を表しているようにも感じる。先のヴァン神族との戦争で、最も外側と二番目の壁は半ば壊されてしまっており、それはまさしく戦争で荒廃した人神たちの内面のようだった。
ヴァルハラの都を出てアースガルドの大草原を駆け抜ける間、チュールはこの遥か西の同じような草原で追いかけ回したフェンリル狼のことを思い出していた。あの狼は、今も《銀糸グレイプニル》に拘束されているのだろう。心臓を締め付ける痛みに苛まされ、眠ることも、死ぬこともできず、永遠の苦痛を味わっているのだ――。
だんだんと景色が変わってくる。背の高い密な木々が多る一方で、獣の数は目に見えて減っていく。にも関わらず囁き声のようなものが聞こえ始め、風はないのに奇妙に草木が揺れていた。妖精の国アールヴヘイムが近い。国境線だの立て札だのがあるわけではないが、明らかに空気が変わっていた。
狼の遠吠えが耳を打った。
馬を止めて周囲を見渡す。ヴァン神族の指導者の子が住んでいる屋敷だ。相当巨大なものに違いないのだが、鬱蒼とした森林の中での見通しが悪すぎるうえ、太陽は沈みかけている。早めに見つけなければ今日は野宿だ。
そんなふうに思っていたところで、森の中に小さな白い屋根が見えた。馬首を屋根へと向ける。森の中では多数の気配を感じたが、何も襲いかかってはこない。アールヴヘイムの妖精たちをいまだ目撃したことはなく、本当にそんなものがいるのだろうか、と疑念にさえ思う。妖精などという生き物は怯えが生んだ空想なのかもしれない。
だがチュールは本能的な危険への意識をぬぐいきれず、腰に収まった二本の剣のうちの一本、《魔剣ティルヴィング》に手を触れていた。
白い屋根に近付くことで、その全貌が見えてくる。目の前に広がるその屋敷はチュールの想定していたものとはまったく異なっていた。
屋根だけではなく、手入れされた壁も白い。小さな窓からは高価であることが一目で理解できる緻密なレース付きのカーテンが見える。家の前には小庭があり、そこの花壇には赤や黄色の名前も知らない花が整然と植えられていた。野菜も。それほど大きな屋敷ではない。厩が見当たらなかったので、馬から下りて綱を白い柵に繋ぐ。目が痛くなりそうな白さだ。眩しい。
もしやこれがアールヴヘイムの妖精の家だろうか、などと考えながら敷地に踏み込む。やたらと緊張する。なんだこの家は。まさか巨人族の罠か。
入口らしきドアの上に掛けられていた呼び鈴を鳴らすと、中から足音が聞こえた。足音がするからには、中にいるのは翅の生えた妖精ではないようだ。
「はぁい」
高い女の声とともにドアが開いたが、チュールは相手の位置を一瞬見失った。
「えっと……、どちらさま?」
声のする方向から考えてやや下方を見ると、栗毛を三つ編みにした小柄な女がチュールを見上げていた。女というよりは、少女か。顔つきは幼く、瞳は大きく丸い。不思議に甘い香りがする。果物のような香りだが、甘酸っぱい匂いは、これまでチュールが嗅いだことのないものだった。やはり妖精の屋敷だったか。
「あー……」どう尋ねるべきか逡巡したが、チュールは直球で尋ねることにした。「イドゥンの屋敷を知っているか? ヴァン神族のイドゥンだ。フレイの妹の」
「ここだけど……、えっと、もしかしてあなたがチュール? 護衛の人だよね。よろしく。さぁ、入って入って」
「は?」
「わたしがイドゥンです」
自身がイドゥンであると言った娘はチュールの手首から先のない右手を掴むや、家の中に無理矢理引き入れた。
この強引さは確かにフレイの妹だ、と〈軍神〉は思った。こういうタイプは苦手だ、とも。