3.15. 雷神トール、雷槌を手にすること
真っ暗な空間の中を〈雷神〉は漂っていた。目が慣れてくると、周りは黒というよりは紅だった。トールを包み、圧迫し、締め付け、脈動するグロテスクな空間――〈世界蛇〉の体内だ。
〈雷神〉は生きていた。〈泥の大巨人〉でも殺せるほどの毒がありそうな鋭い歯に引き裂かれることはなかったが、〈世界蛇〉に丸呑みされて――それでもまだ生きていた。喉を通り抜け、食道に入れば、嚥下されるたびに周辺の空間は狭くなっていき、身動きが取れなくなっていたが――それでもまだ生きていた。
トールは探していた。己の武器を。
「ミョルニル」
空間はぎちぎちと締まっていた。であれば、拳を振り上げて殴りつけるわけにもいかない。《雷槌ミョルニル》を呼ぶ手段は、だから、もはやまさしく呼びかけそれ以外にはなかった。ミョルニル、ミョルニル、とトールは繰り返していた。
「ミョルニル……!」
〈絞首刑台の主〉と行動をともにするようになってから、幾度ともなく危機は訪れた。それでも巨大な蛇に丸呑みにされるなどという危急の事態はこれまでにはなかった。
だが、不思議とトールは己の死を感じ取れなかった。
(おれがこんなところで死ぬはずがねぇ)
そんな想いが頭の中には渦巻いていた。
なぜならば、ロキをアースガルドまで送り届けると決めた。
なぜならば、リュングヘイドに償いをすると誓った。
なぜならば、アースガルドには――未だ待たせている相手がいた。
「来い! ミョルニル!」
口内から消化器官の奥へ奥へと押し込まれるだけ、視界は暗黒に近づいていた。だから轟音とともに手に飛び込んできたものが何なのかという情報を視覚では捉えることができなかった。それでも、トールにはわかった。〈雷神〉の手には《雷槌》があるものだから。この《雷槌》を持ってこそ、〈雷神〉は〈巨人殺し〉と化したのだから。
果たしてこの《雷槌》は〈世界蛇〉の体内のどこまで飲み込まれていたのだろう。消化器官の途中で引っかかってしまっていたのか、それとも糞になって尻の穴からひり出される寸前だったのか。どちらにしても、トールにはこの長年親しんだ〈神々の宝物〉の存在が、接吻をしてやりたいほどに嬉しかった。
あとは投げるだけ。そう、この狭い……一度手を伸ばしたら、元のように折り曲げることさえ困難な空間で。
果たしてどのようにすれば《雷槌》を投げられるのか?
簡単だ。トールは《雷槌》を握ったまま、両の腕、両の脚、己の武器たる四肢に力を込めて空間を広げた。ある程度押し広げたところで肘を突っ張り、《雷槌》を握る片手を自由にする。少々窮屈だが、これで十分。
いつものように――とはいかない体勢から投げつけられた《雷槌ミョルニル》は、しかしいつものように轟音を撒き散らしながら進んだ。稲光で一瞬だけ周辺の様子と《雷槌》が蛇の内壁を叩きながら向かう先が明らかになる。雷光とは青白い光とは明らかに異なる、穏やかな橙色の陽光。外だ。
身体中を内側から焼かれながら叩かれて悶える〈世界蛇〉のその大顎の内側に《雷槌ミョルニル》はぶち当たり、これまでよりも巨大な稲妻を落とした。
「戻って来い! ミョルニル!」
間違いなく、効いている。いや、効いていないはずがないのだ。だから、もう一度――!
食道を抜け出て口の中まで戻ってきたトールが呼び戻す前に、鋭い歯を持つ顎が口の外から戻ろうとしていた《雷槌ミョルニル》の柄を挟んだ。
ミョルニル、おい、戻って来い、ミョルニル――! 何度叫んでも、無駄だった。まるで手負いの鹿のように《雷槌》は蛇の大顎に挟まれたままで震えたが、それ以上は動かなかった。
どこにあるのかもわからない物を呼ぶよりも、視界の中に見えていながら手に取れない物を目の当たりにするほうが絶望感があった。
(いや、まだだ)
口までは来ている。だから《雷槌ミョルニル》を挟まれた顎から引きずり出すことができる――そんな考えは、〈雷神〉と〈世界蛇〉との体格差の間ではまったく役に立たなかった。いくら引っ張ろうとしても、ミョルニルはがっちりと抑え込まれていて、抜けない。柄は外側を向いているため、口内にいるトールからは柄を掴めず、〈神々の宝物〉を励起させることができない。殴りつけても、蹴りつけても〈世界蛇〉はミョルニルを離そうとしなかった。理解しているのだ。この〈神々の宝物〉がトールにとっての生命線だということを。
そのうちに、ミョルニルを噛み締めたままで〈世界蛇〉は大顎の先を天へと向けた。トールをまた喉の奥へと戻そうとしているのだ。食道へと落とし、そのまま消化してしまうつもりなのだ。トールは必至で己の武器であるはずの《雷槌ミョルニル》の頭部を握り、喉の奥へと落ちぬようにしようとした。脚を支える場所はもはやなく、槌だけを縁にトールの身体はぶらぶらと揺すられた。
(駄目か)
これが敗北か。こんな情けない恰好で、こんなふうに蛇に丸呑みされるだなんて馬鹿馬鹿しい状況で、死ぬか。
そう思ったとき、声が聞こえた。高い――どこか幼い響きのある女の声だった。
トールはのろのろと頭を上げた。噛み合わされた顎の隙間から僅かに見えていたのは、刀身。煌々と光る《炎斧レヴァンティン》の刃。
「トールっ! あとで文句言わないでね!」
ロキの声とともに、トールの身体は落ちていた。〈世界蛇〉の口内から喉へ、食道へと。
(ああ――そういうことかよ、ロキ)
トールが《雷槌ミョルニル》から手を離してしまったわけではなく、〈世界蛇〉が《雷槌》の柄から口を離してしまったわけではなかった。未だ蛇は柄を咥えていた。柄を。
だがな、〈世界蛇〉よ。
「馬鹿蛇が、おまえが咥えているのは柄だけだ」
ロキの《炎斧レヴァンティン》によって短くなった柄の《雷槌ミョルニル》を、トールは投擲した。これまでよりも巨大な稲妻が〈世界蛇〉の体内で巻き起こった。