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犬の一生  作者: ブリキの
三、オッタルの賠償金
48/111

3.14. 狼の母ロキ、雷神の願いを聞き入れること

世界蛇(ミズガルズオルム)〉。

尾喰らう蛇(ウロボロス)〉。

 醜悪な姿で産み落とされ、親に見捨てられ、冷たい海の中で孤独を過ごす、ヨルムンガンド。ヨルムンガンド。ヨルムンガンド! ヨルムンガンドの金色の瞳が〈雷神(トール)〉と〈狼の母(ロキ)〉を見下ろしていた。

(これで3度目……!)

 スリュムヘイム攻め、ミッドガルドの海、そしていま。海に捨てられて以後、長いこと人神(じんしん)の噂に上るだけでその姿をあまり見せてこなかった〈世界蛇〉は、最近になって続けて姿を見せていた。その理由に、ロキは薄々気付き始めていた。そしてその答えは、〈世界蛇〉がなぜ《雷槌ミョルニル》を飲み込んでいたのか、という問いに対する答えとも同じだった。


 ロキと同じ黄金色の瞳で〈世界蛇〉が見下ろしていたのは、正しくはトールとロキではなかった。トール。トールだけ。ただ、じっと。

 スリュムヘイム攻めとミッドガルドに落とされた直後の海。ロキははじめ、ヨルムンガンドは自分の前に現れたのだと思っていた。産まれた直後にミッドガルドの海に落とされた〈世界蛇〉だが、本能的なもので自分の母親を感じ取り、ロキを追いかけているのだ、と。

 だがウドガルドに現れた〈世界蛇〉の黄金色の視線は、明らかにロキには向けられていなかった。そもそもスリュムヘイム攻めや海でも同じだった。思えば、〈世界蛇〉は〈雷神〉の現れる先に現れ続けてきた。


(ヨルムンガンドが追っているのは、トールなんだ………)


 そう、〈世界蛇〉が見下ろしているのは己の母などではない。自分の身体よりも遥かに小さな〈雷神〉なのだ。なぜヨルムンガンドがトールに興味を持っているのかはわからない。だが、物言わぬ金色の瞳がただただトールに注がれているのを見れば、誰もが納得するところだろう。

 ヨルムンガンドが惹きつけられたのは、彼の《雷槌ミョルニル》が呼び起こす稲妻に対してかもしれない。誰よりも目立つあの〈神々の宝物〉の一撃は、光輝き、熱を起こし、地響きを伝え、雷鳴を轟かせる。ミッドガルドの海へもトールの雷鳴は伝わっただろう。そんなトールの雷を、ヨルムンガンドは感じ取ったのだ。感じ取り、ただ興味を引かれたのだろう。花に蝶が舞い降りるように、羽虫が明かりに集まるように、亡者に〈火の国の魔人〉が群がるように。


 第四世界ヨツンヘイムの首都ウドガルドは大混乱に陥っていた。海を出で、山を越えてやってきたヨルムンガンドは己の身体が通るところあらゆる場所を薙ぎ倒していた。倒壊した家屋の下には怪我人や死体が潰され、瓦礫が積み重なった道を巨人族が逃げまどっている。もはや誰も彼もがトールとロキに気になど止めていない。ただひとり、〈世界蛇〉を除いては。

 巨人族から逃げる好機ではある。この混乱だ、きっと西へ抜ける関所も開いているに違いない。逃げ惑う市民に紛れ込めば、簡単にウドガルドを脱出できる。

 問題は、だから、頭上に輝く瞼のない瞳だけなのだ。視線を受け、トールもまたヨルムンガンドの姿を見据えていた。


 〈雷神〉はこれまでに二度、〈世界蛇〉と戦っている。


 一度はスリュムヘイム攻めの際、〈泥の巨人(ミストカーフ)〉に紛れてヨルムンガンドは現れたが、トールに二度ミョルニルを投げつけられてミッドガルドの海へと吹き飛ばされた。だがそのときはトールもヨルムンガンドの超重量の体当たりを受け、重傷の傷を負った。傷の度合いでいえばトールのほうが被害が大きかった。ヨルムンガンドは海へと押し戻されただけなのだから。

 二度目はミッドガルドの海へと《九環ドラウプニル》によって飛ばされた直後、ロキとトールを追いかけてきたヨルムンガンドをトールは素手の一撃で撃退した。正確にはヨルムンガンドの体内にある《雷槌ミョルニル》を励起させて、だ。

 どちらの戦いでも、〈雷神〉は〈世界蛇〉を追い返すことに成功してはいる。

 だが今回、トールの手には《雷槌ミョルニル》はない。二度目のときと同様、口内に入ればヨルムンガンドの体内にある《雷槌》の力を引き出せるかもしれない――が引き出せないかもしれない。

 〈神々の宝物〉の中にはフレイの《妖剣ユングヴィ》のように手元から離して運用することを想定しているものもあるが、そうではないものもある。《雷槌ミョルニル》は投擲するときは手に触れている必要があるが、着弾地点から手元に戻って来る機能もあるため、必ずしも手に触れなければ呪力が使えないわけではない。

「ミョルニル!」

 トールが手を掲げ、己の〈神々の宝物〉の名を高らかに叫ぶ――が、その名を持つ槌が〈世界蛇〉の体内から躍り出てくることはなかった。


 代わりに飛び出してきたのは〈世界蛇〉の口から空気が擦れる音。そして赤い舌。鱗に覆われた顎が二つに割れ、中から真っ赤な空間が現れる。

 蛇の素早さで接近した己の身体よりも遥かに巨大な顎を、トールは叫びとともにぶん殴った。〈世界蛇〉とトールとの間に電撃が走る。未だ〈世界蛇〉の体内には《雷槌ミョルニル》があるのだ。それが所有者であるトールの接近を感じ取り、励起しているのだ。


 ――だからどうした。


 絶望的な体格差を埋めるのに、その雷はあまりに小さすぎた。励起のための呪力は〈世界蛇〉の体内まで浸透しても、それは通常投擲するのに使う力と比べれば遥かに小さく、引き起こす稲妻も矮小だ。そもそもが、スリュムヘイム攻めでは《雷槌ミョルニル》を振るっていても、追い払うのは容易ではなかったのだ。海ではほとんど奇襲のようなもので、言ってしまえば――運が良かった。それだけだ。今度は〈世界蛇〉は怯むことさえなく、〈雷神〉の身体を飲み込んだ。

「おい、ロキ………」

 いや、飲み込まれてはいない。いまは、まだ。太い、しかし〈世界蛇〉に比べれば小さな小さな両の腕で、トールはその大顎を受け止めていた。

「ロキ、さっさと……逃げろ」

 絞り出すような声だった。声も、顎を受け止める両の腕も、踏みしめる両の足も、何もかもが震えていた。当たり前だ。〈世界蛇〉の大顎を受け止められる人神など、そうはいない。彼はずっとロキを気遣い続けてきた旅の疲弊を抱えながら、その大事を成し遂げているのだ。

 ロキは、己が何をすべきなのかわからなかった。何をしても、トールはもはや助けられないように見えた。

「そこのを……連れてけ」

 トールが顎だけで示した先には、もはや原型を留めていないテーブルの影に倒れる幼子の姿があった。倒壊した二階から落ちてきたのだろう。両親の姿は見えなかったが――瓦礫の中の血溜りが視界に入ったので、ロキはそれ以上親の姿を探さなかった。

「昔……昔は、おれの子は……守れなかった。妻も。だから――」 

 トールの声を背に、ロキは子どもを抱えて駆けた。ヨルムンガンドはロキに視線すらくれない。興味はただただ〈雷神〉にあり、それをを腹に収めることしか考えないらしい。


 もはや雷鳴は聞こえなかったし、稲妻が落ちることはなかった。〈世界蛇〉から遠ざかっても、その大顎が完全に閉じられる瞬間はわかった。


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