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犬の一生  作者: ブリキの
三、オッタルの賠償金
47/111

3.13. 雷神トール、巨人族に己の過去を見ること

 トールは走っていた。馬の足ではなく、自分自身の足で。ロキを背負いながら。

 右腕が重い。治癒しかけの右腕には矢が突き刺さっていた。背中にも、二本。矢を抜くと血が噴出した。無理に抜かないほうが良かったのかもしれない。言い訳をすると、走っていると尾羽が揺れ、さらに深く入り込んできそうで邪魔だったのだ。


 第二平面ミッドガルド、第四世界ヨツンヘイム――首都ウドガルドを越えることにトールたちは失敗した。巨人族の兵士たちは〈雷神(トール)〉と〈狼の母(ロキ)〉の顔を知っていた。〈巨人殺し〉の名はやはり偉大であり、〈狼の母〉の裏切りは第四世界では知れ渡っているらしかった。でなくとも、これだけ目立つ二人組が気付かれないはずがなかったのだ。

 巨人族たちは、おそらくウドガルドに入ってすぐに〈雷神〉と〈狼の母〉に気付いたのだろうが、すぐには襲ってきたりはせずに、ずっと動向を監視していたのだ。

 ウドガルドの関所や入った直後で攻撃をされなかったのは、トールたちが油断するのを待っていたからだろう。あるいは一般市民に反撃の手が及ぶのを恐れたのかもしれない。


 巨人族は《雷槌ミョルニル》が〈世界蛇(ヨルムンガンド)〉の腹の中にあることは知らない。

「やっぱり、そうなんだな」

 凍える海の中で起きた出来事を、トールは覚えていた。ミッドガルドに飛ばされたばかりのとき、強襲してきた〈世界蛇〉をトールは素手で追い払った。だがそんなことが可能なはずはなかったのだ。ヨツンヘイムまでの道中、ロキに聞いて《雷槌》の居場所を知った。

「だが、なんだってそんなところに……巨人族か?」

〈世界蛇〉の腹の中に手を出せる人神(じんしん)など九世界のどこを探してもいないのだから、考えてみればこれ以上ないほどの安全な隠し場所だ。

「それは、違うかもしれない」とロキが思案気に言ったのを覚えている。「ヨルムンガンドに何かを食べさせるなんて簡単なことじゃない。あれは……たぶんヨルムンガンドが自分で食べたんだと思う。スリュムヘイムの戦いのあと、ミョルニルがトールの手元に戻ってくるまえに………」

「そうか……まぁそうだな。巨人族がミョルニルを奪ったのなら、そもそも隠す必要はないわけだしな。自分たちで使えばいい」

 そう納得すれば、問題がひとつ残るだけだった。つまり、もし正体を隠しきることができず、巨人族に捕まってしまった場合、《雷槌ミョルニル》なしに〈雷神〉は戦わなければいけないということだ。もし、戦わなければいけないとすれば、だが。


 そして、戦う必要もないなどということはありえなかったのだ。


 第四世界ヨツンヘイムの首都、ウドガルドは周囲を山岳に囲まれている。より正確に表現するならばウドガルドが山岳に囲まれているというよりは、ミッドガルドを東西に分けている中央大山脈の中で、唯一盆地となっている場所が巨人族の国ヨツンヘイムの首都、ウドガルドなのだ。お伽噺によれば、かつて巨人族の中でも飛びぬけて巨大な、山ほどの大きさのある巨人〈大きい野郎(スクリューミル)〉が山の中に寝転んだことで窪みができ、そこがウドガルドの基礎になったという。

 その地形ゆえ、ウドガルドの出入りには門前の関所を通らなければ出入りできない。ほとんど垂直ともいえる山際を上り下りする命知らず以外は。であれば、どんなにか危険でも敵の只中に突き進むほか選択肢はなかった。

 目立たぬように、トールは馬から降り、疲弊しているロキは馬上に寝かせ、荷にかける布で彼女の姿を隠して細い路地を選んで進んだ。だがそうして気を遣う必要もなく、進むうちにしぜんと人気はなくなっていき、西門へと辿り着くまえに矢が雨霰のように降ってきた。


 巨人族は市民を避難させ、兵を建物の中に潜ませていたらしい。〈雷神〉と〈狼の母〉の存在を門前の関所で確認していて、その急いた様子を認識していたのだとすれば、なぜアース神族がミッドガルドのど真ん中にいるのかまでは理解できないにしても、西へと抜けようとしていることは簡単に推測ができたことだろう。兵を配置するのは簡単だ。

 不味いのは、ロキを背から振り落とした馬が逃げ出したことでも、降り注いだ矢に刺さったことでもなかった。明らかに戦闘状態に入ったのに、〈雷神〉が《雷槌》を投げていないということ、投げられていないということ、〈神々の宝物〉が手元にないということが発覚してしまったであろうことだ。《雷槌》を投げつけられないとなれば、もはや巨人族は〈巨人殺し〉を恐れまい。こんなふうに回りくどい手段で攻めてくることもなく、〈雷神〉に復讐の刃を突き立てようとするだろう。ウドガルドから逃げることに成功したとしても。

(いや、そんなことを考えるまでもないか)

 完全に周囲は敵に囲まれている。武器はなく、負傷していて、身体は長旅でろくに動いてはくれない。どちらにせよ、トールはもはや駄目だ。

 だがロキは。


 トールは逃げた路地の先で、手近な扉をぶち破った。錠は簡単に弾け飛んだ。

「ロキ……大丈夫か?」

 入った扉の中に敵影が見えないことを確認してから、ロキを背から下ろして声をかける。

 馬に乗せていた荷が盾になったらしく、幸いロキはあの矢の雨の中でも無事だった。彼女も同じく疲労してはいるが、彼女は〈巨人殺し〉ではなく、そもそもが巨人族だ。どうにかして、彼女だけでも生き延びさせることはできないだろうか。

「わたしは……」ロキは頷いてみせる。「それより、トールのほうが………」

「おれも大丈夫だ」

 調度品を見る限りでは、逃げ込んだ場所は民家らしかった。外の様子を窺う限りではまだ逃げ込んだ先が発覚しているようには見えないが、扉を破ってしまった以上は時間の問題だろう。トールはこの家からどうにか安全に逃げ出す算段をしようとして――二階へ向かう階段のところに立っている存在に気付いた。

 子どもだ。赤毛の――まだ言葉もたどたどしくしか喋れないくらいの、リュングヘイドの家のシアルヴィやロスクヴァよりも幼い、子ども。人差し指を咥え、己が目の当たりにしている存在が何なのかも理解できない、幼子。

 巨人族が攻撃を仕掛けてきたとき、トールは彼らが市民を避難させてから攻勢に出たのだと思っていた。だが考えてみれば、《雷槌ミョルニル》を恐れるならば九世界に安全な場所などありはしない。であれば、市民が避難するとはいっても建物の中に入れて外に出ないようにさせておくのがせいぜいだったのだろう。この家の場合は、二階に隠れていたというわけだ。


 ならば二階から駆け下りてきた若い女はあの幼子の母親だろう。ならば怒声とともに箪笥の影から飛び出してきた男は子どもと同じ赤毛なのだから、きっと父親だ。

(最初から出て来いよ)

 彼はあの幼子の父親かもしれない。アース神族が入ってきたら自分が退治してやるなどといって入口の近くに隠れ、それなのに実際に敵を目のまえにしてみると恐怖で動けず、ただ震えていたところで――己の子が危険に晒されようとしていることに気付いたのかもしれない。なぜだか、トールには目の前の男の気持ちが痛いほどにわかった。

「叫ぶな」トールはぶつかってきた男を殴りつけ、床に倒れたところで圧し掛かった。頭を掴んで威圧する。「動くな。声をたてるな。おれが誰だかわかるか。〈巨人殺し〉だ。アース神族の雷神トールだ。おまえの頭なんて簡単に潰せる。わかるか。抵抗するな。指先一つ動かさず、角杯みたいに黙ってろ」

〈雷神〉は己の腹に何かが刺さっているのを感じた。男の持っていた短剣か何かか。己の目で見ずともロキの視線と顔色の変化でその刃が十分に深く突き刺さっているのを理解していた。

(おれは……)

 幼子を抱きしめていた女が、男に向かって何か叫んだ。男の名かもしれない。男は、逃げろだとか、そんなことを言った。彼らにとって、トールはただの敵だった。侵入者であり、家族を侵す害悪だった。戦争の火そのものだった。〈雷神〉が消したりたいものそのものだった。

(おれは……)

「叫ぶな。声を出すな」トールは男に圧し掛かったままで、もう一度言った。「大人しくしていれば危害は加えない」

 男は言葉通りに大人しくしていたりはしなかった。自分が何かしなければ、己の家族が壊されてしまうと思っているのかもしれない。馬鹿馬鹿しいことだ、トールにはわざわざ彼の妻や子を手にかける理由などないというのに。

(おれは………!)

 だがこれまでにトールは数多くの命を奪った。戦場に立てば、大人も子どもも、男も女も関係がなかった。〈雷神〉は〈巨人殺し〉であり、勝ち続けることが戦争のない平和への道だと信じて戦ってきた。戦い続けてきた。ずっと、ずっと。

 だがその先に、本当に平和はあるのだろうか。


 トールは拳を男の顔の横に叩きこんだ。床が抉れ――そして雷が落ちた。〈雷神〉は何かを感じ取っていた。何か――外敵、あるいは戦場そのものに相当する何かが接近していることを。

 地面が揺れるとともに、甲高い、金属を擦り合わせられるような高周波が響く。


 天井がまるで砂造りであるかのように砕けた。二階のなくなった民家の天からトールを覗いていたのは――ああ、やはりおまえか――世界蛇ヨルムンガンドだった。

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