3.11. 雷神トール、償いの誓いを交わすこと
夜。
トールは宛がわれた部屋の寝台に仰向けになっていた。
眠れなかったのは寝台が小さすぎて足が食み出しているせいでも、斧が付けた腕の傷が痛むからでもなかった。
昨晩、フレイドマルの家で起きた出来事。トールが殺した男たちの娘であり妹である女との出会い。リュングヘイド。その子どもであるシアルヴィとロスクヴァの無邪気さ。男たちの老いた両親。それらがトールの平穏を掻き乱していた。
「オッタルがね、すごいんだよ。オッタルは、叔父さんなんだけどね、えっと、えっとね、冬でも魚を獲るのがすっごく上手くてね、可愛くてね――」
ロスクヴァが無邪気に説明してくれた。どうやらオッタルが川獺の形をした亡者であることは彼女らの中で秘密になっているらしく、ロスクヴァが小さな口を開くたびにシアルヴィや彼女の母親がこちらに視線を向けてきていた。家族の危惧を知ってか知らずか、ロスクヴァは秘密を守り通し、オッタルが川獺であるということは言わなかった。
トールもトールで己の秘密を口にしたりはしなかった。ロキも。シアルヴィとロスクヴァがオッタルやフレイドマルの家族だと知ってから、彼女はずっと伏せ目がちになっていて、子どもたちの祖父母は旅の疲れではないかと心配していた。おかげでロキもトールも、部屋に引き上げることができた。いや、ロキは子どもたちと同じ部屋なので、もう少し気苦労が続くかもしれない。あるいは――あるいはあの無邪気さに癒されてくれれば良いと思う。なぜなら、オッタルとフレイドマルとレギンを殺したのは彼女ではなく、トールなのだから。
(殺さないことも、できた)
オッタルを殺したのは事故だった。川獺の姿をした亡者の存在など知らなかった。ただ生きるために精一杯だったところで獣を見つけたのだ。喰うために殺した。それだけだ。仕方がなかった。胸を張って言うことはできないが、それでも己を慰めることはできる。
だがフレイドマルとレギンは。
(あいつらは、ロキを犯そうとした)
彼女の友人であるトールには、憤るだけの理由があると思った。いまもその考えは変わらない。あいつらは、死ぬべきだった。殺したことは間違いではなかった、と。
本当に心の底からそう思うのであれば、こんなふうに後悔したりはしなかっただろうに。
ふたつ道があれば、どちらかが正しい道だと思ってしまうのが生きる者の性だ。だがどちらを選んでも後悔することはあるだろうし、道がふたつというのがそもそも間違いだということもある。もしフレイドマルとレギンを殺していなくとも、トールはいつか後悔していただろう。あんなけだものどもは、殺しておくべきだった、と。
結局残るのは、選択肢がふたつあり、トールは彼らを殺すことを選択したという事実だけだ。繰り返される戦争の中で、常にそうであったように――そうでなければ、殺されていた。これまでの戦争では。だが、だがフレイドマルとレギンは。
何を考えても袋小路に陥り、ぐるぐると同じ場所だけを回り続けていたとき、不意に部屋の戸が音もなく開いた。はじめ、ロキが入ってきたのだと思った。だが部屋に入ってきた人物は明かりも何も持たず、足音もせずにトールに近づくと、両手をトールの胸に目掛けて突き立てきた。
似たようなことが昨日もあったのだから、対応は簡単だった。トールは仰向けのまま、左手だけでその人物の腕を掴み、止めた。手は柔らかさがなく、細く、冷たく、ナイフを握っていたからにはロキではなかった。リュングヘイドだった。
リュングヘイドは舌打ちをすると素早くトールの身体に馬乗りになって、体重をかけて包丁を押し付けてきた。しかしそれでも女の細腕でトールに刃を突き刺すことは不可能だった。
「やめろ」
トールは呟き、リュングヘイドの手首を捻って包丁を奪う。
一瞬怯んだように見えたリュングヘイドだったが、包丁を奪い返そうと手を伸ばしてくる。無秩序な動きだ。なんの訓練も受けてはおらず、力任せとさえ呼べないほどのか弱さ。
「やめろ。あんたじゃおれは殺せない。なにがしたいんだ」
「巫山戯るな」リュングヘイドは震える声で言った。「あんたは……あんたはなに? 父さんや兄さんや、オッタルを殺したのはあんたでしょうに」
「知っていたのか」
トールは驚いた。食卓でのリュングヘイドはトールが彼女の家族を殺した犯人であることを知っている素振りはまったく見せていなかった。
「あんたの持ってきた食料を見た。新鮮な魚なんて、この季節このあたりじゃ取れない。そんなの持ってこられるのは、オッタルだけ。それに、それに………」リュングヘイドは両手でトールの首を掴む。「家は酷い有様だった。血だらけで……誰もいない。今度はどうする気、この家を襲うの?」
リュングヘイドは手に力を込めてきた。
彼女はフレイドマルの家に行っていたらしい。そして見たのだ。血塗れのフレイドマルの家を。フレイドマルとレギン、それにオッタルの死体はすべて埋めたが、凄惨な殺しがあったことは理解できたらしい。
「仕方がなかった」
トールはリュングヘイドの二つの手首を片手で掴む。彼女の腕はあまりにも細かった。トールはそのまま彼女を寝台に押し倒した。
「仕方なかった!?」体勢が逆転してもなお、リュングヘイドは強気な態度を崩さずにトールの拘束を外そうと暴れる。「そんなわけない。そんなわけないのに……あんたたちはなんなの。父さんたちを殺して、食料を奪って、それなのに簡単に分け与えて、シアルヴィやロスクヴァにはあんなふうに笑いかけて……」
「だから、仕方がなかったんだ」トールはもう一度繰り返す。おまえの父と兄はロキを強姦しようとしたから、などとは言えなかった。「確かにオッタルもフレイドマルもレギンも、殺したのはおれだ。だからロキは悪くない。それだけだ。事情があった」
「事情なんて………」だんだんとリュングヘイドの力が弱まっていく。彼女は諦めたのか、力なく顔を背ける。震え、泣いていた。「巫山戯ないでよ………」
トールはどうして良いかわからなかった。
今まで誰かを殺すとき、相応の意志と信念を持って命を奪ってきたつもりだった。命を奪うなりの責任を背負い、生きてきたつもりだった。フレイドマルとレギンを殺したときでさえも、そうだった。相対して死者と向き合ううちは楽だった。
それなのに、今回ばかりはどうして良いのかわからない。生者との向き合い方がわからない。
「すまなかった」
トールはそんな謝罪の言葉しか言うことができなかった。
「巫山戯ないでよ………」リュングヘイドは嗚咽交じりに言った。「わたしの家族を殺しておいて、そんな言葉で片付けようだなんて………」
「責任を取る」トールはリュングヘイドの手首を離す。「賠償はする。おれの叶えられる範囲内で、あんたの言うとおりにする。だが、今は駄目だ。ロキを仲間のところまで返さなくちゃいけない。彼女を無事に帰すことができたら、ここに戻ってくる。いくらでも賠償をする。山羊でも、金でも、土地でも、おれの命でも。おれに払える限りのことはする」
リュングヘイドはすすり泣いていた。