3.2. 狼の母ロキ、雷神の宝物を探すこと
季節の移り変わりは第二平面ミッドガルドのものであり、第一平面アースガルドは常夏に近い。それでもふたつの平面は世界樹ユグドラシルを通じて繋がっており、互いに影響を受け合っている。だからその日は三度続いた冬のあとの〈冬の中の冬〉の訪れとともに大気が乾いていた。その乾いた大気を、一本の稲妻が切り裂き――そして第一世界グラズヘイムに落ちた。鋭い稲妻はヴァルハラの都中に響き渡り、ヴァラスキャルヴの540ある扉がびりびりと震えた。火花はそこらじゅうに飛び散り、ヴィグリード大草原の枯草は発火してその雷の恐ろしさを語った。森は焼け、地面は割れた。
そしてその大災害の起きた中心部で、赤髪と赤髭の〈雷神〉は女を抱きかかえて立っていた。彼の足元は陥没しており、近くには《雷槌ミョルニル》が落ちていた。
「ロキ………」
〈雷神〉は力なく膝をついた。彼自身の身体に傷はなかった――今は。古傷でいえば、身体中は傷だらけだ。既に血が止まり、肉が塞がっているというだけだ。どこもかしこも、傷がないところなんてない。戦漬けの神生だった。そしてその戦いは、守りたいものを守るための戦いだったはずだ。それなのに、トールはいちばん大事なものを守れなかった。
どうしてこんなことになったのだろう。トールは上空に迫りつつある巨大な〈世界蛇〉の影を眺めながら、そんなことを考えた。
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「だからさ、悪気はなかったんだよ。いや、おれだって言い訳がしたいわけじゃない。でも、状況が状況だろう? 思い出してみろよ、あのときはおまえとイドゥンが攫われて、助けに行こうと思ったら〈大きい野郎〉みてぇな馬鹿でかい泥の大巨人が何体も現れて、そのうえあの馬鹿でかい蛇野郎まで来やがった。あいつに一発ぶち込まれて、おかげで長いこと寝台の上が離れられなくなったほどの怪我を負いながら戦ったんだぞ? あの馬鹿蛇をぶっ飛ばしたあとはもう動けないかと思ったが、バルドルにせっつかれてスリュムヘイムの砦をぶち壊したんだ。あれでほんとにもう体力が切れた。ああ、わかるだろ? いや、おまえもあのときは怪我してて意識がなかったんだっけか」
「トール、言い訳はいいからちゃんと探そうよ。バルドルから怒られるだけじゃ済まないかもよ」とロキは言ってやった。
「探してるさ。探してはいるが……呼んでも飛んで来やしないんだ。どこ行っちまったんだよ、ミョルニルは」
ミョルニル、と己の愛槌の名を〈雷神〉が叫べば、それだけで老いた色合いの枯草が吹き飛び、雪が降るまえに餌を貯め込もうとしていた兎が仰向けに倒れてしまうものだ。ロキは耳を塞ぎたかったが、彼の背中に抱き着いている以上はそうはいかない。黙って雷鳴が通り過ぎるのを待った。
「ご覧のとおりだ」
トールは手綱から手を離して肩を竦めた。彼の巨大な馬は騎手が手を放そうが、大声で叫ぼうが気にせずに、スリュムヘイム北部のだだ広い草原を歩き続けていた。
〈妖精王〉と〈金の鬣〉との決闘から早九十日。アース神族は未だ第二平面ミッドガルドの最西端の街、スリュムヘイムに留まっていた。
スリュムヘイム攻防戦で受けた〈狼被り〉たちの傷は癒え、兵站は整った。次なる目的地も設定され、障害がないかどうか斥候も派遣している。それなのに進軍しないのは、たったひとつの理由からだった。
「ミョルニルが、なくなった」
その報告が為されたとき、〈雪目〉は信じられないという目でトールを見た。〈軍神〉は軽蔑の眼差しを向けてきた。〈槍の手〉はエールビールを喉に詰まらせて噎せ、〈無明〉は目を見開いたままで動かなくなった。〈裁き〉はロキの仕業と疑い、ロキはしばらくの間詰問されることとなった。
おおよそアース神族が似たような対応をした中、異なる反応を示したのはヴァン神族のフレイだけだ。彼は大爆笑した。「おい、トールよ、おれがユングヴィを失ったからといって、おまえまで真似しなくていいんだぜ」と。
「真似じゃねぇ。まじでないんだ」
「真似じゃないほうが問題だ」と言ったのはバルドルだった。「ないとは、いったいどういう意味だ? まさか失くしたという意味ではないだろうな? アース神族最大の武器を。最強の〈神々の宝物〉を」
《雷槌ミョルニル》が最強の〈神々の宝物〉であるというのは正しくはない。彼が独眼の主神オーディンから譲り受けたという《雷槌》は、トールが手にするまでの間は誰も使っていなかった。理由は単純で、扱いやすいようで使い手を選ぶからだ。ミョルニルに刻印されているルーン文字はいくつかの系統に分かれているが、最も重要なのは稲妻を巻き起こす機構だ。槌の平に一定の衝撃が加わると、所有者のルーンを稲妻と衝撃へと変換する。
その仕様上、接近戦はできない。自分も稲妻に巻き込まれてしまうからだ。投擲専用の武器ではあるのだが、これが重い。ロキでは柄すら持ち上げるのも困難であり、まともな人神ならこんなものを投げるという発想にすら至らないだろう。
だが〈雷神〉にはそれができる。ゆえにトールは〈雷神〉なのだ。ゆえにトールはアース神族最強の戦士なのだ。
ミョルニルが〈宝物〉最強なのではなく、トールはミョルニルの力を最大限に引き出しているに過ぎない。彼ならアース神族軍最強の戦士らしく、ほかのどんな〈神々の宝物〉でもうまく使いこなすだろう――だが戦力として明らかに弱体化するだろうというのは正しい。遠距離攻撃ができるというのはそれだけで戦場において有利だし、ミョルニルの稲妻は広範囲に渡る。アース神族軍は数的不利を覆い返すために《狼套ウーフヘジン》によって奴隷と化した人間族を〈狼被り〉として扱っているが、それで数的不利を完全に覆い返せるわけでもない。ミョルニルこそがアース神族の戦争と勝利を支えているのだ。
つまり、問題だ。そう、バルドルの言うとおり大問題なのだ。
大捜索が開始され、アースガルドに送り返されるところだったロキも、こうしてトールとともに捜索に加わることとなった。ロキには翼があり、誰にも行けないようなところに飛んでいったり、上から広い範囲を見渡すことができるからには、失せ者探しには打ってつけというわけだ。
口にはしなかったが、ロキは嬉しかった。先の〈黄金の林檎〉誘拐の罪は問われなかったものの、責任そのものは問われ、ロキは負傷した怪我が治り次第にアースガルドへ戻されることになっていた。だが急な任務を言い渡されたことで、まだ少しだけトールと一緒にいられることになったからだ。
決闘で左足を失ったフレイや、連れ去られた結果として第二平面ミッドガルドまでやってきたイドゥンも一緒にアースガルドに戻るのだから、戻ってもロキはひとりきりというわけではなかった。だがそれでも、たったひとり、長いことグラズヘイムの塔の中で暮らしていたロキに、初めて声をかけてくれたトールの存在は特別だった。ああ、特別だったのだ。