2.15. ノルウェー、トーン中央病院にて
中庭の樹々が赤く染まるだけ、地面が黄色く隠されるだけ、濁った色の中に苔の濁った緑色に点在するだけ、その白髪頭は目立っていた。すぐさまエレベータホールへと向かいボタンを押したが、3つあるエレベータはどれもずっと下の階を目指していて、なかなか降りてこない。エレベータを諦めて階段を駆け下りれば、途中で転げ落ちそうになってしまった。幸いバランスだけは取ることができて、両足で着地することができたが。足が痺れた。
それだけ急いだ甲斐あり、オードは上から見た白髪頭をトーン中央病院の中庭に見つけることができた。その人物はいつもと同じように、中庭に点在するベンチにひとりで腰掛け、杖の上に両の手を乗せて顎置きに使っていた。服装はいつものくすんだ青いコートで、鍔の広い帽子は被ってはいたが、その白髪を隠すには不十分だ。
「こんにちは」
とオードが声をかけると、それまで中庭のトネリコの樹を見つめていた老人は杖から手と顎を離し、その隻眼を向けてきた。
「こんにちは、オー。ディーはどうだい?」
老人の声はまったくしわがれていない。オードは公立校の小学7年生――つまり最高学年であるが、老人の声はオードと同じかそれより下の年齢にさえ聞こえた。容姿にしても、老人の顔には確かに生きてきた年齢を示す年輪のような皺が刻まれてはいるものの、表情や瞳は幼く、まるで子どもが老人の仮装をしているように見える。
だが老人の真っ白の長い髪は、作り物には見えなかった。
ディーとは妹のヘイドのことだ。「いつもと同じ」そしてこの返答もいつもと同じだ。
「そうか。9階から駆け下りてきたね。随分と危ないことをする」
「見てたの?」
「そうなんじゃないかと思った」
老人が悪戯っぽく笑うと、右眼が細まる。左眼は――左眼は見えない。長い白髪に隠されているからだけではない。老人はまるで海賊のような眼帯をしていて、眼の部分には赤く大きな瞳が描かれていた。初めて会ったとき「これは何の目だ」と訊くと、鴉だ、という返答が戻ってきた。兎なら可愛いと思ったが、鴉ではあまり可愛くないな、とオードは思ったものだ。
「帰っちゃうんじゃないかと思ったから急いだんだ」
「ぼくはいつでもここにいる」
「いないときもあるよ」
「そういうときもある」
老人は冗談めかして言ったが、表情はいつもの穏やかなままだった。この隻眼で白髪の老人と出会ってから言葉を交わした期間は、日数にすればほんの数日だ。しかしオードはこの人物に奇妙な好感を覚えていた。それは、老人とオードに共通点があるからかもしれない。オードの妹であるヘイドは病に侵されておりもう長いことを目を覚ましていない。ヘイドは新しい母の連れ子で、可愛らしく、天真爛漫で、新たな家族を迎えて兄となることに不安を感じていたオードともすぐに仲良くなったが、彼女の笑顔を見たのはずっと昔のことだ。彼女はもう長いこと歌っていないし、その瞳の色を見せていない。そして老人の大事な人も、同じように植物状態になってしまったのだという。
「だったら、帰ってあげたほうがいいんじゃないの?」とオードははじめ言ったのを覚えている。「傍についていてあげたほうが………」
「そうかもしれない。そうじゃないかもしれない。眠り続ける彼女がぼくの存在を感じ取れるのかはわからないし……ぼくが傍にいて嬉しく思ってくれるのかはわからない。だが何より大事なのは、帰らないんじゃない。帰れないんだということだ」
「お金がないの?」
と訊くと、老人は黙って首を振った。だからオードは恐る恐る尋ねた。
「……悪いことをしたの?」
犯罪者は時に国を離れることで身を隠すという話を聞いたことがある。北欧では移民をある程度制限してはいるが、入国そのものはそう厳しくはない。一度入国してしまえば、身を隠すことも容易いだろう。
「大丈夫、危害を加えたりはしないよ」と老人は口だけで笑んだ。「そう、そうだね……悪いことをした」
老人は多くを語らないため、オードは老人のことをほとんど何も知らない。名前も、年齢も。話し方は男性のようだったが、もしかすると目の前の白髪の老人は女性かもしれないとさえ思う。だから前回会ったときに、オードは手始めにと老人の名を尋ねてみた。すると返答はこんな調子だった。
「ぼくの名前? ぼくの名前が知りたいのかい? しかし、単純に教えるわけにはいかないな。いくつかヒントをあげよう。それで考えてごらん。
ヒント1、ぼくは片目で、老人だ。
ヒント2、ぼくの名前はここでは不吉だ。だから直接教えたくないとも思っている。
ヒント3、ぼくの名前はきみたちの名前に似ている」
老人は以前からこうした謎かけを好み、オーはそれを時間をかけて解決してきた。だが今回の謎かけの答えはさっぱりわからなかった。オードは適当に思いついた名前を幾つか挙げてみたが、老人は口元にいつもの笑みを浮かべたまま首を振るだけだった。
時間はいくらでもあった。ヘイドの病室で彼女の寝姿を黙って見守っているときは、幾らでも調べ物ができた。そうして今日という日を迎えた。
「ぼくの名前がわかったかい、オー?」
「うん。ヒントの1つ目はあなたの名前と同じ人物は隻眼で老人であることを示している。ヒントの2は、あなたの名前が北欧の死と詩の神と同じだからだ。ヒントの3、あなたはぼくのことをオーと呼び、ヘイドのことをディーと呼ぶ。オーとディー。それでわかった。あなたの名前は〈恐ろしき者〉、〈轟く者〉、〈絞首刑台の主〉、〈目覚めている者〉、〈万物の父〉、〈不平等な天秤〉、〈振るう者〉、〈眠りを齎す者〉、〈独眼の主神〉と同じ……あなたの名前はオーディンだ」
〈独眼の主神〉の口元に笑みが浮かんだ。それだけではなく、声をあげて呵々大笑した。それはオードがこれまで見たこともないような笑い方だった。