2.13. 金の鬣フルングニル、赤球にて妖精王を貫くこと
父親とはほとんど会ったことがない。
小民族とはいえ、九世界のうちのひとつを治める指導者だ。忙しいのは当たり前だ。顔すら覚えていない父と、生死すら定かではない母から離れ、フレイは奔放に育った。自由を好み、放蕩を愛した。フレイが何を仕出かしても、父が何か言ってくることはなかった。
理由はわかっていた。父はフレイの力に目をつけていた。〈世界樹〉を動かす力を。
物心ついたときからそれは可能だった。手を動かすように、指を曲げるように、掌を開いたままで薬指と中指だけを離すように、できて当然のことだった。だがそれが異常な力であるということは幼心にも理解できた。何より、父から厳しく言われていた。神前でその力を使うな、と。
魔法といえば〈神々の宝物〉だ。〈神々の宝物〉の超自然の力は、その表面に刻まれた緻密なルーン文字によるものだといわれている――しかしフレイの身体にはルーン文字など刻まれていなかった。にも拘わらず、フレイは〈神々の宝物〉を介することなく、魔法の力を使うことができた。
〈世界樹〉は九世界のあらゆる場所を貫いている。であれば、この力は世界のあらゆる物に干渉する力であるともいえる。
そうした力を持ちながら、フレイは怖かった。己の異常な力が怖かったし、それを人に知られることが怖かった。とりわけ怖かったのは、父だった。言いつけを守り、神前でこの力を使えば何を言われるだろうかと思った――いや、言われるのが怖かったんじゃない。殴られるのが怖かったんじゃない。嫌われるのが怖かった。唯一の家族だったから。
世界が少しだけ変わったのは、父が少女を連れてきたからだ。身体が小さくて、どこもかしこも引っかかるところがないような体型の少女だ。栗色の長い髪はヴァン神族らしいものであったが、少女の瞳にはどこかヴァン神族とも、アース神族とも、あるいは人間族や巨人族とも違う色が見えた。
「この子はおまえと同じだ。だからおまえの妹として扱え」
父親が言ったその言葉の意味は、すぐに理解ができた。彼女――イドゥンの動きは鷹を掴むほどに素早く、その細腕は熊よりも力強かった。化け物だ。自分と同じだ――そう思うと、フレイはすぐに彼女を受け入れることができた。イドゥンは人懐こく、彼女のほうでもフレイを兄として受け入れてくれた。フレイとイドゥンとの間の垣根はすぐに取り払われた。
だから、父親との蟠りだけが残った。
自分も、自分も――イドゥンと同じく連れてこられた子どもなのではないのか、と。そして、彼はフレイやイドゥンの力を、己の欲のために利用しようとしているのではないのか、と。
疑念が解けぬまま前大戦――アース神族とヴァン神族の戦いの際、フレイは一度だけ神前で魔法の力を使った。いや、大っぴらに使ったわけではない。ただ、敵将である〈雷神〉の力があまりにも凄まじく、だからフレイは《雷槌ミョルニル》を避けるために、〈世界樹〉の根が障壁になるように少しだけ動かしただけなのだ。もしかするとトールはフレイの何らかの力に気付いているのかもしれない。が、少なくとも彼は何も言わなかった。
「フルングニル」もしトールが気付いていたとすれば。「おまえは」この力を目の当たりにする。「5人目だ」
人神の力では大地は揺るがず、海は飲み干せず、そして〈世界樹〉は絶対だ。如何に〈金の鬣〉の力が強かろうが、九世界を貫く〈世界樹〉の根を引き千切れるほどに強くはない。根よりも彼の身体のほうが脆弱だろう――だが根は鉄ではなく、岩でもない。がっちりと絡んでいるのではない限り、逃れる隙間は存在する。それが馬鹿力の男であれば、なおさらだ。そして〈世界樹〉の根が完全に絡むよりも早く、フルングニルは四肢のうち両足と右腕を逃れさせることに成功していた。だが、左腕は拘束から解けていない。解けてはおらず、絡んだ。完全に、ぎっちりと、隙間なく、絡んだ。もはや逃れられない。
それでもフレイは本能的な恐れを抱え、すぐさま剣へと駆けた。フルングニルの剣はフレイには重すぎる。必要なのは、弾き飛ばされたフレイの剣で、それはすぐ近くの地に突き刺さってはいたが、抜き、構え、そして振り下ろすにはひとつひとつ必要な動作があり、それだけの動作をするだけの時間は、一言〈神々の宝物〉の名を叫ぶのに比べれば遥かに長かった。
「来い、ギャルプグレイプ」
フレイの剣はフルングニルの左目を薄く切り裂き――それだけだった。相手を拘束しているという優越感が、攻撃よりも防御に意識を回せさせた。得体の知れない気配に振り向いたフレイの眼前に迫っていたのは、燃え盛る火球。〈神々の宝物〉。フルングニルの《赤球ギャルプグレイプ》。
咄嗟に剣の平でその軌道を逸らそうとしたが、ふたつ誤算があった。ひとつはその火球があまりに重かったこと。もちろん重量は考慮し、受けるのではなく逸らそうとしたわけだが、手が痺れるどころでは済まず、剣がまた跳ね飛ばされた。
もうひとつの誤算は、その球がひとつではなくふたつであったこと。そう、これはフルングニルの《赤球ギャルプグレイプ》なのだ。それを決闘前に見ていたはずなのだ。であれば二つの鉄球が鎖で連結された形状だと覚えているべきだったのだ。
燃える赤球のもうひとつはフレイの頭に直撃するところだったが、亀のように首を竦ませることで寸でのところで避けられた。避けられた? いや、違う。遅れて気付いた。フルングニルの左手――〈世界樹〉の根で拘束され、身動きできなくなっていたはずの左手を、《赤球ギャルプグレイプ》が潰していた。潰れた手首の先から血は滴ってはいなかった。代わりに焦げた煙が出ていた。顔に苦悶はなかった。代わりに血に塗れた笑顔があった。
「巨人族にとって、殺すべきは〈巨人殺し〉ではなくおまえだったか」
炭化した左手は簡単に崩れたからには、もはやフルングニルはユグドラシルの根に拘束されていなかった。
〈世界樹〉の根は動く。フレイの意のままに、巨人を求めて――遅すぎる! 今度は不意打ちではない。警戒されていれば、根の速度など矢に比べれば簡単に避けられる。何より、フレイの手元には武器がなく、目の前の巨人を止めることはできなかった。もしあったとしても、もはや己の命を躊躇していない〈金の鬣〉を止めることはできなかっただろうが。
残ったひとつきりの手でフルングニルは《赤球ギャルプグレイプ》の鎖を握った。二つの球、ひとつの鎖。投擲される球体。赤熱する球体。これは《雷槌ミョルニル》と似た〈神々の宝物〉だ。だがそんなことがわかったところでどうしようもない。
フレイは飛び退いた。避けようとした。だがそれで簡単に避けられるのであれば、最強の巨人族の手になぞ収まっているはずがない。一つ目の球を避けたフレイの左脚の膝のすぐ下に二つ目の球が突き刺さった。あの男は頭がおかしい、とフレイは思った。この痛みと、熱と、衝撃とを受けて、顔を顰めるでもなく笑って見せた目の前の巨人族のことだ。フレイは己の左膝から下が千切れたのが見ずともわかった。いや、繋がってはいるかもしれない。たぶん、ぺらぺらになっている。木の皮みたいに。炭のようにぼろぼろかもしれない。焦げ臭いにおいがする。肉の焼ける匂い。フレイの身体の。嘔吐しそうになったが、吐いている余裕はなかった。投げた《赤球ギャルプグレイプ》が戻ってくるなどというのを待ったりなどはせず、フルングニルはひとつきりの手でフレイの頭に掴みかかってきたのだから。
片足だけになったフレイは避けられず、そのまま地に叩きつけられた。額が割れた。目の前が暗くなったり明るくなったりした。踏まれた。重かった。
「死ね、ヴァン神族のフレイ」
言葉が投げかけられたことで、フルングニルが《赤球ギャルプグレイプ》を拾い上げたのがわかった。投げられたのもわかった。温かいものが近づいてきたから。だが、その勢いは中途で静止した。
フレイが手を突いてのろのろと起き上がると、《赤球ギャルプグレイプ》は中空で曲剣にその鎖を絡ませ、赤球をその刀身に叩きつけていた。
(――ユングヴィ………!)
《妖剣ユングヴィ》は奇妙な〈神々の宝物〉だった。それはときに所有者であるフレイの意思に反して動いた。自動的に動く〈神々の宝物〉というのはさまざまだが、その共通項は所有者の意のままに動くという点だ。フルングニルは遠距離から声だけで《赤球ギャルプグレイプ》を操ったが、あれはおそらくは声の向きと視線で誘導ができるのだろう。《妖剣ユングヴィ》は違う。フレイが何もせずとも――たとえ寝ていても、敵が近づけば必要なように動いた。
いまも、ゲルドを守るようにとロキに託したはずなのに、こうしてフレイを守るために赤く燃える小太陽の前に立ち塞がった。
父から譲り受けた剣だった。九世界に3本しかない剣。〈三剣〉のうちの一振りだと教えられた。それが何を意味するのかは、未だにわからない。だが、とても貴重なもので、何より役に立った。
その〈三剣〉の一振りが、いまやその力を奪われつつあった。
〈神々の宝物〉は簡単には壊れない。〈神々の宝物〉には、そのもの自身を保護する魔法も刻印されているからだという。だからユングヴィも赤熱する鉄球を受け止め続けることができる。だが鎖はいまや刀身全体に絡み、鉄球は枷となっていた。しばらくの間、剣はもがいていたが、やがて動かなくなった。まるで死んだように。
フレイは落ちていた剣を杖代わりに立ち上がった。〈神々の宝物〉を挟んで向かい側では、フルングニルも己の剣を拾って構えていた。片足と片腕、互いに身体の一部を失った。だが戦いを終わらせるには十分ではなく、また打ち合い、血を流し、片方の命が完全に失われてから長きにわたる剣と血の舞踏はようやく終わりを告げた。