2.6. 雪目のウル、妖精王を呼び戻すこと
街を駆けるのに、自分の足の長さは向いていないと思う。これが森や雪原なら、木々の間を潜り抜けたり、雪の上を沈まぬように進んだりするのに便利だというのに。ウルは巨人族やヴァン神族に比べると頭ひとつぶんは低い己の背丈を恨んだ。未だ太陽が天頂に登り切っていない時刻なれば、占領下にあるスリュムヘイムであれど人の往来は絶えない。
幸いなのは、探す相手が行きそうな場所はおおよそ見当がつくということだ。食事処や茶店、色町、大通りなどを巡れば、大通りからは少し離れたところにある石垣の家グリョートナガルダルという食事処の中で、ようやくフレイを発見することができた。彼はひとりで、しかし不思議に愉快そうに食事を摂っていた。
「フレイ!」
ウルは客を迎え入れようとした店の女主人を無視し、彼の名を呼びながらできるだけ大股で近付く。
「おいおい、勘弁してくれよ」
とフレイはウルを見止めると、大仰に肩を竦めた。所作は道化染みていたが、その瞳は真剣だ。彼の言わんとしていることはわかる。彼がフレイであると、ヴァン神族のフレイであると、巨人族と敵対するアース神族に与しているフレイであると、そうを大声をあげて公言するなと、彼はそう言いたいのだ。
だが、いまはそんなことを気にしていられる事態ではない。フレイが巨人族たちにどう思われるかだなんんてことは小事であり、些末な問題だ。現在、スリュムヘイムには脅威が迫っている。
「急いでいるんです。戻ってください。金はぼくが支払っておきます。フレイ………フレイ?」
「待っていてくれ」
「フレイ、早く――」
「待ってろって!」
グリョートナガルダルという食事処には、フレイのほかに数人の客がいた。若い女主人もいた。彼らの存在を理解しながらも、フレイは怒鳴った。一度だけ。彼らに聞かれていたのに。いや、そもそもが彼が怒鳴ったところなど、そうそう見かけるものではない。アース神族とヴァン神族の戦争の際も彼は飄々としていて、であればこの空間に留まることが彼にとってはそれほど重要なことだったのか。あるいは、それだけこの場で己の名を呼ばれたくなかったのか。
ウルは頷いて一歩下がったが、店から出たりはしなかった。フレイを見返す。彼の感情がどうであろうとも、ヴァン神族の〈妖精王〉に、アースガルドで唯一、〈雷神〉に勝ちを得た男に働いてもらわなければならないのだ。であれば、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。
フレイは店を出て行かないウルを一瞥したのち、視線を女主人へと向けた。若い女だ。金髪の、左右が違う色の目の、巨人族の――美女だ。彼女は震えてはいなかったし、怯えてもいなかった。ただ碧と青の瞳は猜疑の色に彩られていて、フレイの視線はすぐにウルのところに戻ってきた。
「また来るよ、ゲルド」
ゲルドという名らしい女巨人に背を向けて、フレイは店を出て行った。ウルは一度店の中へと頭を下げてから、フレイに続いた。
「やれやれ、参ったな。えぇ? せっかく良いところだったんだ。こつこつと逢瀬を重ねて、いざこれからというところだったのに……台無しだ」
外に出て顔を顰めるフレイには、もはや店の中で見せた感情の昂ぶりの色は見えず、へらへらとした軽口の男に戻っていた。それは好都合なことだ――ああ、好都合なのだ。ウルはゲルドという女巨人とフレイとの関係については詮索したりはしなかった。アース神族の駐屯地へと歩を向けながら彼を呼び出した理由を伝える。
「巨人族が攻めてきました。現在スリュムヘイムの外に陣を敷いています」
「だが、攻めては来ない」フレイは鼻を鳴らす。「冷静に考えればわかりそうなもんじゃないか。人質だらけのこの状態で戦闘を起こそうとするやつがどこにいる? そんな発想に至るのはアース神族くらいだ」
「だからこそ追いつめられているこの状況では、敵は何してくるかわかりません。巨人族にこの情報が伝わっているかはわかりませんが、トールが戦えません。そのうえ、敵将はフルングニルという男だそうです。最強の巨人だとか。率いている軍自体も巨人族の中では選りすぐりの精鋭のようです。現在、シアチの館で作戦会議中です」
「最強の巨人だ? だとしても、アース神族最強の雷神ほどではないだろうに」
「そして、そのトールに勝ったことがあるのはあなただけです」
ウルが言ってやると、フレイは足を止めた。「あれは………」と言いかけたが、溜め息ひとつで誤魔化されてしまい、その先は言葉にならない。あれは、なんだろう。〈神々の宝物〉の相性の差か。攻める側と防御に回った立場の差か。当時の決意の差か。あるいは――。
そのこともウルは追及しない。過去には拘らない。当座を凌がなければ明日はない。スリュムヘイムは虹の架け橋ビフレストから最も近い街であり、巨人族との戦争では外せない重要な拠点となりうるのだ。砦が壊滅したとはいえ、再度奪還するには時間がかかるだろう。相手の電撃的な行軍速度を考えても、逃げる手はない。迎撃するしかないのだ。
駐屯地となっているシアチの館の一室、仮の作戦会議室としている扉の前にはチュールが立っていた。ウルとフレイを見止めると、呆れたように溜め息を吐く。
「間に合いました?」
とウルは切れる息を抑えながら尋ねる。
「お前ら、なにやってたんだ……。作戦会議なんて、とっくに終わったに決まっているだろう」
とチュールが答えると、「そりゃ残念」とフレイが肩を竦めて笑った。
「どうなったんですか」
「敵軍の確認からだいぶ経ったが、向こうは動きがない。こちらから攻撃を仕掛けるのも難しいということで、使者を出すことになった。使者はアース神族より同族のほうが良いだろうということで、ロキになった」
「ロキが!?」とチュールの言葉にフレイが反応する。「ロキはまだ怪我が――」
「歩くのには不自由がないくらいには治っているし、本人が望んだことだ。先の戦いのことに責任を感じているんだろう。それに、本当にフルングニルが率いているなら、使者に攻撃を仕掛けることはないと、ロキがそう言っていた。そういう手合いらしい」
チュールが流暢に説明したからには、フレイの反応を予想していたのであろう。彼はロキと交流を持つ数少ない存在だ。
「いちおう言っておくが、あいつは既に立った。いまから追っても遅いだろう。使者が戻るまではひとまず待機になる。おれはおまえらを待っていたが、ひとまず役目御免だ。寝る。じゃあな」
言うだけ言って、チュールは背を向けてしまった。宣言通りに寝るのだろう。
フレイはというと、大きく息を吐いてから、壁際に置かれていた椅子にどっかりと座った。物憂げな表情は、敵陣の只中に飛び込んでいく使者となったロキに対しての心配か。あるいはあの食事処にいた、ゲルドという女巨人に対する懸想か。
「フルングニルというやつは、どういうやつだ」
などと尋ねてくるからには、どうやら前者のようだ。
「さっきも言ったように、巨人族で最強の戦士ですよ。うちでいう、トール」
「性格は? ロキの話だと、卑怯なことはしないようだが」
「そこまでは………」ウルは首を振った。「いちおう最強の巨人で通っているのなら、相応に尊敬される人格なのでしょう。そう悪い性格ではないと思いますけど」
「そう悪いやつなんてなかなかいないけどな」