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犬の一生  作者: ブリキの
一、ロキの子どもたちとフェンリルの捕縛
17/111

1.17. 黄金の林檎イドゥン、雷神と世界蛇の戦いを見届けること

 イドゥンはこれまで傷を負ったことがなかった。小さな部屋に閉じ込められ、動くことすら叶わない環境で、ただただ生きていた。孤独ならば、傷つけられることも、傷つくこともなかった。だから、だからこそ、だからっ、傷と痛みを知らず、知らないからこそ裂かれた皮膚や溢れ出す鮮血、ピンク色の肉や黄色い脂肪の中に見える白い骨は怖かった。

「ロキ、ごめんね。ごめんね」

 雷雨の中、ロキを背負って灯台の中へと入ったイドゥンは、頂上へと続く石造りの螺旋階段と採光用の小窓だけがあるだだ広い空間の中に、絨毯が敷かれている部分を見つけた。絨毯を取り去ると比較的清潔そうな石畳が現れたので、そこにロキをうつ伏せに寝かせ、衣服代わりに纏っていたシーツの結び目の解く。背中から生える左の付け根に下方から突き上げるように刺さった矢は、鏃がしっかりと傷口に食い込んでいて、雨で血は洗い流されたはずなのに、次から次へと溢れ出て来る血は未だロキの日焼けしていない白い背中を赤く染め続けていた。


 ロキの背に突き刺さった矢の箆を握る。

 刺さった凶器は抜かないほうが良いと聞いたことがある。刃物なり矢なりが止血弁になるからだ。だが飛び続ける間に傷口はどんどん深くなっており、もはや矢は弁の役目を果たしてはいなかった。でなくても、抜かなければ治療はできない。

「うぁっ――」

 鏃が肉から少しずつ抜けていくたび、静かに唸っていたロキの身体が水揚げされた魚のように反った。痛みを感じているのだ。ならばまだ意識は失っていないということだ。ならばまだ生きているのだ。ならばまだ、まだ大丈夫なのだ――イドゥンは己にそう言い聞かせながら、痛みに暴れようとするロキの身体を無理矢理に押さえつけた。身体が動かなくなると、ロキの猛禽のような羽だけが勢い良く広がった。小さかった羽は巨大になり、灯台の壁や天井まで届くほどに成長し、暴れ回った。壁を撫でる羽は耳障りの音を立てて蠢きまわり、字を書くように床を這いずった。


 既に血に染まっていたシーツでロキの傷口を押さえたが、もともと赤かった部分も白かった部分も、イドゥンの掌すら朱に染まっていき、血は止まらない。駄目だ――これでは駄目だ。ロキが、ロキが――死んでしまう。

 治す手立てはある。イドゥンは首に掛けなおした己の神々の宝物、《金環ブリーシンガメン》を胸元から取り出し、蓋を開く。円盤状のそれにはルーン文字が刻まれており、仕掛け針が刻々と半時計周りに動いている。これはイドゥンから吸い取った力だ。イドゥンが常に発散し続けている、余計な力。それを押し留めている。貯めこんでいる。


「いいかい、イドゥン――」

 《金環ブリーシンガメン》を見られるのはいい。外したときの力を見られるのも仕方がないかもしれない。だが、その真の力を見せては駄目だ。この宇宙を支えている大本であるブリーシンガメンの力を。なぜならば、それは誰もが喉から手が出るほど欲しがる力となりえるのだから。〈独眼の主神(オーディン)〉はかつてそう言っていた。

「どんなときでも?」

「どんなときでも、だ」

「たとえば誰かが大怪我をして、それで死にそうになっていたとしても?」

「そうだ」

「それがわたしやオーディンの大事なひとであったとしても?」

「……そうだ」

 

 イドゥンは忘れてはいない。オーディンの言葉。オーディンの恩。オーディンの目的。オーディンの力。

 だがどれを天秤に載せたとしても、ロキというひとりの生きた女性の命とは釣り合いやしない。イドゥンは《金環ブリーシンガメン》の鎖をほとんど引き千切るように取り、その文字盤をロキの傷口へと押し付けた。

 ブリーシンガメンが作られた本当の目的は、イドゥンの力を抑えるためでも、ただ溢れ出るエネルギーを貯めておくためでもない。そのエネルギーを使って、この宇宙を癒すこと。この九世界を癒すこと。ただそのためだけに片目を捧げて隻眼となったオーディンが、己の知り得る魔法を掻き集めて作り出した品だ。九世界を癒す力はもちろんその構成体である人神にも効果が及ぶ。


 見る間にロキの身体から溢れ出る鮮血は乾き、傷口の抉れた肉は反り返り始める。そうして傷口の下から新たな皮膚が盛り上がってきて――傷口だった場所は、周囲とは僅かに色の違うだけでほかには何も違いがなくなった。ロキの容態も安定しはじめ、今や暴れだすこともなく、ゆっくりと深い寝息を立てている。さすがに失った血液までは戻らないが、このまま安静にしておけばきっと大丈夫だろう。

 そんなふうに一息吐いたとき、灯台の外で雷鳴がした。すぐそばで雷が落ちたのだ。いや、トールの《雷槌ミョルニル》だろうか? もう一度雷鳴。不規則な雷は、自然現象ではなくトールの仕業だ。アース神族最強の雷神が戦っているのだ。

(でも、いったい誰と?)

 巨人族だ――と当たり前に考えることはできない。というのも、雷鳴が二度聞こえてきたからだ。トールの《雷槌ミョルニル》は一撃必殺の業物であり、巨人族の砦がどれだけ巨大だろうが一撃で粉砕する。その強大さゆえ、戦況が乱戦になれば使用が難しくなるほどであり、であればひとつきりの巨人の砦に雷神の稲妻が落ちたのならば、二度目の投擲はありえない。あの砦の長であったシアチが〈巨人殺し〉の《雷槌ミョルニル》を防いだのか、それとも第三者が戦場に介入したのか。


 灯台の外に出れば、すぐさまその理由が明らかになった。

 灯台を取り囲む9体の泥の大巨人。天を衝くほどに巨大な魔法で作られた生命体。泥の〈ミストカーフ〉。そのうちの一体の泥の巨人の胸が唐突に炸裂した。次に《雷槌ミョルニル》が既に頭と片腕を失っていた泥の巨人の胸を貫いた。

 どちらの泥の巨人も、その胸の内から赤黒い血を噴出させながら崩れ、土塊に戻っていく。泥の巨人ミストカーフの弱点は心臓だ。だがそれは魔法を知る者しか知らないはずで、そもそもミストカーフ自体が魔法で作られているのだから、魔法を行使できる者しか作れないはずだ。では、誰が? 既に魔術が施された道具である〈神々の宝物〉を使わずに魔法を行使できるのはオーディンを含む3人――〈原初の三人〉だけのはずなのに。


 心臓が弱点であるとトールに示唆した存在は、イドゥンの高い視力で突き止めることができた。豪雨で曇る視界、彼方のアース神族の砦の上、鎧を着込んだ雷神トールの傍らに石の塊にしか見えない姿が見えた。白きヘイムダル。独眼の主神オーディンがもっとも恐れる存在であり、唯一予想不可能な存在。彼なら魔法も使えるのだろう。

 だがヘイムダルが泥の大巨人ミストカーフの弱点を教えたのであれば、彼が泥の大巨人を作り出したのではありえない。誰かもうひとり、魔法を使える存在がこの場にいる。まさか、オーディンが――。


 思考は甲高い鳴き声とともに降り注いだ塩辛い雨によって遮られた。既に雨雲によって太陽は遮られていたが、海から顔を覗かせたその巨体は辺り一面を黒く黒く染め上げていた。

 純白の羽を持つ〈世界蛇(ミッドガルド蛇)〉。

 ちろちろ動く細い舌を垂らす世界蛇の黄金色の眼はどこを向いているのかよくわからない。しかしイドゥンはその細長い瞳孔と一瞬目が合ったような気がした。

「ヨルムンガンド………」

 イドゥンはほとんど無意識にその名を呟いていた。これだけ巨大な蛇なのだから、賢くて、言葉が通じるのではないかという期待があった。

 蛇の返答はなかった――雷神の一撃がその身体を打ったから。

 目を瞑らずにはいられない稲光が撒き散らされ、爆音とともに近くの泥の巨人を巻き込んで倒れれば、辺り一面に巨大な窪みができた。


「イドゥン!」

 稲妻を間近で聞いたあとだったため、馬の嘶きとともに発せられたその声を理解するのには苦労した。息を切らせながらも、泥だらけの道を駆け抜けてきてくれたのは軍神チュールであった。アース神族が助けに来てくれたことで、イドゥンはようやく安堵の息を吐くことができた。

「チュール……、良かった。ロキが怪我をしているの。手当てはしたから、ひとまずは大丈夫だと思うけど――」

「おまえは」

「え?」

「おまえはどうだ。どうだというのは……、それは、つまり、怪我がないかということだ。大丈夫か」

「うん、わたしは大丈夫だよ」とイドゥンは慌てて頷いた。

「そうか。それは………」チュールの次の言葉が出てくるまでには時間がかかった。「それは、良かった」

「うん……、ありがとう」

 それでほかのみんなは、アース神族軍や兄のフレイは、とイドゥンが尋ねようとしたとき、爆音とともに土塊の雨が降った。音をしたほうに視線を向ければ、世界蛇ヨルムンガンドは爬虫類らしい無表情で起き上がっていた。腹が黒く焦げ付いてはいるものの、大きな被害を受けた様子はない。

「まずい――」

 チュールが何か言い切るよりも疾く、疾く、世界蛇の身体がくねり、一息にアース神族の砦を破壊した。頂上にいたトールやヘイムダルも、瓦礫の中へと消える。


「トールが………」

 呟いたのはイドゥンだったが、たぶん雨に打たれたままあんぐりと口を開けているチュールも同じ気持ちだっただろう。《雷槌ミョルニル》を持つ、アース神族軍最強の戦士、雷神トール。〈巨人殺し〉。それがあんなにあっけなくやられてしまうだなんて、と。

 邪魔者がいなくなったことを主張するかのように、世界蛇ヨルムンガンドは蛇の姿に不釣り合いな純白の翼を広げて甲高い声で咆吼した。


 その天に向けられた顎に――稲妻が降り注いだ。顎を打ち抜かれて、まるでバク宙するように奇妙な動きでヨルムンガンドは空に舞い上がった。《雷槌ミョルニル》。

 雨で土煙が洗い流されれば、倒壊した砦の瓦礫の中に人影があった。立っていたのは、アース神族軍最強の男。雷神トールその者以外にありえない。鎧の一部が剥がれ、血が滴ってはいるが、己の両足でしっかりと立っており、一撃を喰らわせて宙に浮いている世界蛇を睨んでいる。

 至近距離。であるがゆえ、《雷槌ミョルニル》が投げてから手元に戻るまでの時間も短い。


 二投目の稲妻は逆さに浮いた蛇の額を捉えた。直撃した稲妻は世界蛇さえをも軽々と吹き飛ばし、翼持つ蛇の巨体は海の彼方へと消えていき、見えなくなった。

〈世界蛇〉が見えなくなると、雷神トールは崩れ落ちた。兜で隠れていない口元の動きは豪雨と距離があるせいでよく見えなかったが、「楽勝だったな」と言ったに違いない。

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