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犬の一生  作者: ブリキの
一、ロキの子どもたちとフェンリルの捕縛
13/111

1.13. 黄金の林檎イドゥン、狼の母を救い出すこと

 瞳を動かす。首を動かす。身体を動かす――うん、大丈夫。大丈夫だ。イドゥンはさらに両の手首をぶらぶらと揺すり、つま先を床につけて片方ずつ足首も回した。身体は動く。まだ動くのだ。この世界なら、動くのだ。だから歩くことだって走ることだってできるし、部屋の中を見回すなんてことは簡単だ。ドアは一つだけ。窓も開け放たれたものが一つ。鉄格子が嵌っている。鉄格子の一つを掴んで、引っ張ってみる。もちろんびくともしないのだが、イドゥンの力を抑えている〈神々の宝物〉、《金環ブリーシンガメン》を外せば曲げるくらいのことは簡単だろう。流石に外すのには苦労するだろうが、少し曲げただけでもイドゥンの出っ張っているところがない身体なら外に出ることができるだろう。

 中から外へと視線を向ける。石造りの砦は一フロア一フロアが宮殿のように高く、それが四階といったところだろうか。高いが飛び降りられないほどではない。降りた先は砦の吹き抜け部分で、そのまま逃げるのには少し苦労するかもしれない。


 だがそのまえに、ロキを助けなければいけない。


 窓から離れ、ベッドを調べる。シーツは少し埃っぽい。肯定的な見方をすれば、倉庫にあったものをイドゥンのために引っ張り出してベッドメイクをしたということか。ベッドを動かそうとしてみるが、イドゥンの体重ではまったく動かない。もしかすると隠し通路でもあるかもしれないと思いつき、床に張り付いて軽く板を叩いてみるが、すぐに馬鹿馬鹿しいと思ってやめた。捕虜を閉じ込める部屋ならそんなものはあるはずがないし、あったとしてもイドゥンにそれを見つけられるような知識と技術はない。ここは正攻法で行くべきだろう。


「すみません、お手洗いに行きたいのですが………」

 入口のドアをノックしながら声をかけると、ドア越しに巨人族の見張りの返事が返ってきた。

「顔が洗いたいのなら水を――」

「トイレです」

 言い直すと鍵が回り、ドアが開かれた。屈強な巨人族の兵士がふたり、イドゥンを見下ろしている。見覚えのない顔だ。この部屋にイドゥンを連れてきた兵士とは別の兵士なので、人員はふんだんにいるのだろう。両者ともに武装はしていたが、部屋を出てきたイドゥンに対して、特別な警戒するはまったく感じられない。

(見張りはふたりで、ついてきたのはひとり………)

 思えば砦の屋上でも、警戒はイドゥンに対してというよりも周囲に対してしていたようで、つまりは交戦中のアース神族を警戒していたわけだ。

 つまり彼らはイドゥンの力を知らない。

 それも当然か。《金環ブリーシンガメン》を外したときのイドゥンの力、〈黄金の林檎〉とオーディンが呼ぶそれを知っているのは、アース神族の首長である独眼の主神オーディンや、ヴァン神族の首長でありイドゥンの保護者であるニヨルドなど、ほんの一握りの存在だけなのだから。


 だがシアチはイドゥンが〈隻眼の主神(オーディン)〉に近しい存在であるということは知っていた。《金環ブリーシンガメン》を外したときのイドゥンの力は知らずとも、オーディンと――あの〈恐るべき者〉と通じていると考えているのならば魔法に通じていると考えてしかるべきではないだろうか。相応の対策があっても良いだろうに、この無警戒ぶりは、イドゥンの容姿が幼い少女だから油断しているのだとすれば、シアチという男は懐が大きいのか、単なる馬鹿なのか。

 あるいは、とイドゥンが考えたのは、シアチは魔法についてはほとんど知らず、彼より上の立場の者に命令されているのではないか、ということだった。考えてみれば、ひとつの砦の長とはいえ、ただの巨人族が魔法に通じているというのも奇妙な話だ。それに彼は、自身がロキに魔法をかけたとは言っていなかった。

(見張りの人が、ウドガルドへ行けばとかなんとか言ってたっけ……)

 ウドガルドは第二平面ミッドガルドの巨人族の国、ヨツンヘイムの首都だ。ということは、そこにいるシアチよりもっと上の立場、アース神族のオーディンやヴァン神族のニヨルドに相当する神物の力なのかもしれない。ほとんどの期間を第一平面アースガルドで過ごしてきたイドゥンのヨツンヘイムに関する知識は少ないため、巨人族の指導者に関してはよく知らない。もう少しこの世界のことを勉強しておくのだったな、とイドゥンは溜息を吐いてから頭を振り、トイレを出た。

 部屋への帰路、三人の巨人族の兵士とすれ違った。彼らはイドゥンを一瞥し、お互いににやにや笑い、小声で何かを話す。気分が悪いな、とイドゥンは彼らから視線を合わせないようにしたが、位置が接近したとき、彼らの話す会話がほんの少しだけ聞こえた。


 兵士のうちの一人は、あの女のほうが、と言っていた。

 イドゥンとすれ違って、あの女のほうが、と言ったのだ。彼らはイドゥンと他の女性を引き合いに出し、下卑た笑いで比較し優劣をつけたのだ。あの女、というのは彼らの仲間ではないのだ。仲間ならばあんな下品な態度でイドゥンと比較したりなどしないのだ。

(ロキ――!)

 ロキだ。彼らはロキに会っている。そう、少なくとも彼らは、砦の頂上にロキとイドゥンが降り立ったときには見なかった顔だ。ならば、彼らがやって来た方向に、ロキはいる。

 イドゥンは深呼吸をしながら、やや斜め前を歩く見張りの巨人族の兵士に呼吸を合わせる。歩幅と歩く速度もあわせようとしたが、足の長さがあわなかったので諦める。

 イドゥンの部屋の前まで辿り着く。もう一人の兵士が彼女の部屋の前にいる。兵士が何か言おうと口を開きかけたとき、イドゥンは手を動かした。肘を曲げる。首に手を当てる。口を開く。背中側にまわし、《金環ブリーシンガメン》を外す。


 身体が加圧されたような感覚。イドゥンはまず目の前の男の膝裏を蹴った。落ちる顎に対して片足を添わせ、ぴんと爪先を伸ばす。もう一人の兵士の鳩尾に伸ばした手の甲を当てた。

 そのまま横に一回転。

 短いスカートが一度広がり、三つ編みにした髪が揺れてふたりの巨人族は薙ぎ倒される。たぶん、己らの顎や腹に丸太がぶち当たったかのような感覚を味わったことだろう。動くものが周囲にないことを確認してから、二人の兵士を引き摺って部屋の中へと入れる。念のため二人の呼吸を確かめ、兵士のズボンのポケットから鍵束を奪う。鎧を奪って変装できないものか、と一瞬考えたが、どう考えてもサイズが合わない。無駄なことをやっている暇はない。イドゥンは部屋を出て、鍵を閉めた。

 さきほど三人の兵士がやって来た方向へと走る。いつもよりずっと足は軽かった。

 突き当たり。階段が上下。下りだ。営倉や牢屋などは下にあるものだ。ロキがいるのならば、そこだ。

 段を二つ飛ばしに駆け下りる。下へ、下へ。

 下へ。


 最下層に降りた。臭いが違う。地下に特有の湿っぽい、じめじめとしたものではなく、甘ったるい香りが漂っている。香でも焚いているようだ。いや、香よりもっと甘い――腐った果実のような。その香りが強くなる方へと進んでいくと、女の声と、複数の男の声が聞こえてきた。

 汚らしい牢屋の中にロキと、他に三名の巨人族がいた。近付くイドゥンの存在には気づかずに、彼らはただただ行為に耽っている。

 イドゥンは深呼吸をしてから、男の一人の尻を蹴り上げた。蹴られた男は丸出しの尻を天にして頭から床に落ちた。それでようやく彼らは背後に忍び寄っていた存在に気付いてくれたが、もう遅い。巨人族の屈強な肉体を、今は辛うじて包んでいるだけの衣服を引っ掴み、床に叩きつける。最後のひとりはズボンを履こうとして足が縺れ、転んでいたので、対処が楽だった。巨人族の三人の男たちは倒れて動かなくなった。

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