1.12. 黄金の林檎イドゥン、巨人族の砦へ連れ去られること
イドゥンは部屋を出た直後に自己嫌悪に陥った。言いたいことを言い、したいように感情を爆発させ、あまつさえ勝手に部屋を飛び出した――一体なんのつもりなのだろうか。
確かに悲しかった。悲しかったが、だからといってその感情を表に曝け出して、なにを期待しているというのだろう。イドゥンの悲しみはチュールに共感できるようなものではない。誰にも共感できはしない。可能だとすれば《銀糸グレイプニル》で自由を奪われ、毎日天を仰ぐ〈魔狼〉くらいだろうが、彼の痛みに比べればイドゥンの痛みは微小なもので、彼のほうがよっぽど辛いに違いない。彼にとっては、イドゥンの苦しみなど存在しないようなものだ。
今の自分は――とイドゥンは己の両の手のひらを見下ろした。こうして自分の思うとおりに醜態を見せたり、身勝手に泣き出したりすることができる。それは素晴らしい。今まではできなかった、とても素晴らしいことだ。
では何が厭なのか?
何が悲しいのか?
結局、ここは自分の居場所ではないのだ。
それなのにこの場所を愛おしく感じてしまっている。まるでここが自分のあるべき場所であるかのように信じ込んでいる。それが厭なのだ。悲しく、辛いのだ。
イドゥンは己の頬を打った。自分の悲しさの源がわかると、それをとっぷり浸かるのは馬鹿らしいことだった。少なくとも今、イドゥンは自由であり、生きている。それは独眼の主神オーディンのおかげだ。そして生きている限りは、未来がある。それは素晴らしいことで、未来に向かって努力できるのだ。今は、まだ。
来客に対応したらチュールにきちんと謝ろう。そう思って玄関の戸に近づこうとしたとき、足が引っ張られるのを感じた。猪のグリンブルスティがイドゥンの足を引っ張ろうとしていた。
「グリンブルスティ? どうしたの――」
言葉を紡ぎきる前に、玄関が開いた。いや、木製のドアが弾け飛んで宙を舞い、灰色の巨大な蛇のようなものが這い寄ってきた。イドゥンの身体に巻き付いてくるそれは、羽毛だ。猛禽の羽。〈狼の母〉の。一度羽によって両手両足を拘束されてしまうと、もう動けない。全身に纏わりついているので、呼吸すらも苦しい。甘い香りがする。青い、若々しい香りではない。腐ったような、完熟した果実の臭いだった。
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冷たい風で目を覚ましたイドゥンは呼吸が止まりそうになった――空の上だ。眼下の地面は遠い。随分と――随分と高いところを浮いている。いや、飛んでいるのだ。背後から、抱っこされるように腹を抱えこまれている。背中には双丘の柔らかい感触があって気持ち良いのだが、指が食い込んでいる腹の肉が少し痛い。
「ロキ?」
空を飛んでいる原因である女に声をかけるが、反応はまったくない。
「ロキ、ロキ?」
〈狼の母〉は反応しないまま、翼を動かすことなく滑空するように空を飛んでいた。
(これは………)
ロキは友の声を無視するような人神ではない。彼女は初めて会ったときから何かを探しているらしいことに気付いてはいたが、イドゥンに危害を加えようとしているとは思えなかった。だから、催眠術にでもかかっているのか、そうでなければ――魔法だ。
(でも……、巨人族に魔法が使えるの?)
イドゥンは思い出す。かつてオーディンは言っていた。魔法が使えないからこそ、戦争が起こるのだ、と。
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「魔法って、そんなに便利なものなの? オーディンの魔法ってさ、結局、そんなに簡単に使えるものじゃないんでしょ? お話みたいに、呪文を唱えるだけで火を起こしたり、天気を変えたりとか、そういうことはぜんぜん無理で、ものすごく長い文字を書いたり、同じ周期で音楽を奏でたり、そういうことをしないと使えないんだから……使い難いんじゃないの? 確かに〈神々の宝物〉は便利だと思うけど、それなのに、魔法が使えないから、戦争が起こる、だなんて……」
と、かつてイドゥンは魔法についてそう批評したことがある。
「そういう意味でじゃない」とオーディンは言い返してきたものだ。「魔法を知らないというのは、つまりは世界の仕組みをしらないってことさ。世界がどうやって動いているか知らないし、〈力の滅亡〉のことも知らない。だから戦争なんてできる。ラグナレクのことを知っていれば、同じ世界で生きているもの同士戦う気にはならないだろう。外部の脅威があれば、内部の系では協力し合うものだからね。呉越同舟ってやつ。
まぁ、〈力の滅亡〉を信じられないのも当然さ。誰が信じられる? 〈火の国の魔人〉が何処からともなく攻めてきて、この宇宙を浄化しに来る、だなんてさ。だから困るのさ。常識外のことは、すべて魔法だ。魔法だったら、論理的に話すことはできない。相手も馬鹿じゃない。論理的ではないものは信じてもらえない。だから争いは起こり続ける。戦争は止まらない。それがアース神族とヴァン神族の争いであり、いつか起こるであろうアース神族と巨人族の争いなんだ」
「あなたはまるで戦争を起こることを止めるつもりがないみたいだね。というより、あなたが戦争を起こしているみたいだ」
イドゥンの思い付きの言葉に〈独眼の主神〉は何も答えなかった。
***
***
イドゥンはオーディンからは、魔法についても防御策は教えてもらっても、魔法の使い方については教えてもらえなかった。だがオーディンからは何も受け取らなかったわけではない。《金環ブリーシンガメン》と魔法の知識をイドゥンは貰っていた。
(もしロキを操っているのが魔法だったら、どうすればロキを助けられる?)
イドゥンは知識を総動員させて、ロキを助ける方法を考えようとした。まず使用されている魔法の形式を特定する必要がある。魔曲であれば一定間隔で曲を聞かせる必要があるはずだ。太陽の位置を確認すると、かなりの時間、第三世界アールヴヘイム沿いの森から飛んでいるはずだから、魔曲ではないだろう。となると魔術か。それならどこかに刻印があるはずだ。それを消せば魔術は解ける。
(とは言ってもなぁ………)
どこに刻印があるかはわからないし、皮膚に直接傷をつけて書かれていたのであれば消すことも難しいだろう。
(このまま連れて行かれてみたほうが良いのかな)
イドゥンをロキに誘拐させた相手が誰なのかはわからないが、単なる巨人族ではないだろう。魔法を知っていて、かつイドゥンを殺さずに誘拐させた人物だ。それが誰なのか、気になる。
危険な目に遭う可能性もあるが、そうなったら《金環ブリーシンガメン》を外せば良い。これはイドゥンが余計な力を放出してしまわないようにするためのリミッターとしても働いている。外すと疲れるが、短時間なら影響は問題ないはずだ。
ロキに抱きしめられたままでアースガルドとミッドガルドを繋ぐ虹の架け橋ビフレストを越えると、アース神族の砦が見えた。
(あぁ……そういえばスカートだったなぁ)
下方に見張りをしているアース神族が見え、気分が落ち込んだイドゥンだった。
(遠いのできっと大丈夫だよね………)
スカートを股で挟むことで可能な限り下着が見えないように努力している間に、アース神族の砦を通過し、予想通りに巨人族の砦へと向かっていく。砦の頂上には巨人族らしき兵隊が十人ほど待機しており、彼らは驚くでもなく、飛んでくるロキとイドゥンを見ていた。男性ばかりで、その名に恥じぬ屈強さだ。
(なんでそうやってじっくり見てくるのかなぁ………)
溜め息が出てきてしまう。
あの巨人族を倒して逃げることができるだろうか。一人や二人なら楽勝だが、武器を持っている相手が十人もいると一瞬では仕留めきれない可能性もある。でなくても鎧を着込まれていては、殴るにはこちらの手のほうが痛くなってしまうだろう。それにロキが狙われたりすると、守り切れないかもしれない。彼女の魔法も解いてやらなければいけないので、話し合いで納められるなら、そうしたほうが無難だろう。
(ひとまずは様子見だね)
イドゥンはすぐに《金環ブリーシンガメン》を外せるように警戒しながら、ロキの飛ぶままに任せた。彼女は巨人族の石造りの砦の頂上、待機していた巨人族の中央にゆっくりと降り立つ。周囲の武装をした巨人族が二人を取り囲むように円を作った。まったく、女ふたりにたいそうなことだ。足が地に着くと、ロキのふたつの膨らみが背中から離れた。
ロキのように、巨人族の女はアース神族やヴァン神族より背が低いが、巨人族の男は名前の通り背が高い。といっても身の丈には個人差があり、たとえばアース神族の雷神トールはアース神族の中でも巨人族に肩を並べられるほど体格が良いし、巨人族の中にも背丈は低い者がいる。
しかしイドゥンの目の前の巨人族は本当に背が高かった。他の巨人族より頭一つ分は大きく、しかし横幅はそこまででもない。ひょろ長と表現できる体格だが、身に付けている剣や鎧は豪華なもので、だからその巨人族がリーダーであろうと検討をつけることができた。
「手荒い招待で失礼をした」目の前の巨人族が低い声で言った。「わたしはシアチ。この砦、スリュムヘイムの長だ。あなたがイドゥンだな」
「招待は受けていません」
「それは申し訳ない。急だったのでな」
「あなたの目的はなんですか」
「アース神族の隻眼の主神、オーディンの行方を尋ねたい」
む、とイドゥンは唸った。まさかイドゥン誘拐の目的がアース神族の首長である〈独眼の主神〉だとは思わなかった。てっきりアース神族と和睦条約を結んだヴァン神族の首長の娘という立場ということで目をつけられたと思っていたのだが。
困ったのが返答だ。
(オーディンの行方なんて、知らないよ………)
確かにオーディンは姿を眩ましながらも、鴉を使いとしてたびたびイドゥンに連絡を取ってくる。だがそれはいつでも一方的で、こちらの返答を受け取ってはいない。それでもある程度はイドゥンの動向をやアースガルド、ミッドガルドでの情勢を知っているのだから、どこかで生きて見守っていてくれるのはわかる。だがオーディンの行方となると、イドゥンではとんとわからない。話を聞くなら、もっとアース神族上層部の人神に尋ねるべきではないのだろうか。彼らなら、オーディンの指導のもとでアースガルドの政を行っているはずだ。彼らよりイドゥンのほうが攫うのに楽ということだろうか。
少なくとも巨人シアチは、オーディンが姿を消してしまっていることを知っている。それは多くのアースガルドの神々にさえも知られていないであろう情報を、だ。彼はいったい何を考えているのだろう。和睦条約でも結ぼうというのだろうか。イドゥンは改めて巨人、シアチの顔を見上げた。兜で完全に覆える程度の短い髪。鋭い眼光。広く薄い唇。尖った顎。細く引き締まった、まるで針金みたいな身体。狡猾な軍人だ。考えていることは読めない。オーディンの行方など知らない、と正直に話してしまった場合の処遇がどうなるかは見当がつかないが、あまり良い展開にはならないような気がする。
答えあぐねていたとき、イドゥンは目の端で茫然自失のロキが巨人族に連れて行かれるのを見た。
「ロキを――どうするつもりですか?」
「あれは裏切り者だ。良いように使えるようにしてあるが、あなたを連れてくる以降のことには期待していない」
「なにをする気?」イドゥンは強い口調で言い返した。「ロキは兵士じゃあありません。裏切り者も何もない。連れて行くのを止めなさい。帰らせろ」
「意外に言いたいことを言うのだな」シアチは肩を竦めた。その間にロキと二人の巨人族は階段を降りていき、砦の屋上から見えなくなってしまう。「あなたには危害は加えない。安心しなさい」
「ロキをどうやって操ったの?」
「魔法だ」
あっさりとシアチが言ったのでイドゥンは驚いた。「魔法? あなたは魔法が使えるんですか?」
「あなたがあなたの知っていることを教えてくれなくては、詳しいことを答えることはできない。まぁ、そろそろ雨が降ってくるころだ。室内へと入ろうじゃないか」
まだ周囲には8人の巨人族がいた。手に武器は構えてはいないが、警戒を解いてはいない。逃げ出すのは難しいだろうし、今ここで逃げるわけにはいかない。イドゥンは頷き、前後を巨人族に挟まれて、ロキが降りていったのとは別の階段から砦の中に入ろうとしたとき、雨がぽつぽつと降り始めたが、シアチは微動だせずに砦の屋上で地平を眺めていた。
砦の中に入っても、前後の巨人族は警戒を緩めようとはしなかった。
(ロキは大丈夫かなぁ………)
先ほどのシアチという男が遠まわしにロキはもう用済みである、というようなことを言っていたのを思い出し、だんだん心配になってくる。こんなことになるなら、巨人族の砦に降り立つ前にロキを気絶でもさせて、アース神族の砦に飛び降りるべきだった。あの高度から飛び降りて無事かどうか怪しいが。
通されたのは倉庫でも営巣でもなく、中に机やベッドなどがある客間のような部屋だった。ドアには外からかかる鍵がついており、窓は鉄格子で塞がれているが、牢屋としては上等だ。
「ここでお休みください」イドゥンをこの部屋まで連れてきた巨人族の一人が言った。「お食事などは後でお持ちします」
「勝手に出て良いんですか?」イドゥンは尋ねる。
「いえ、駄目です」
「お風呂は?」
「砦に風呂はありません。お湯でしたらお持ちしますので、それで満足していただくほかありません」
「トイレは?」
「外に数人常に待機させておきますので、声をおかけください。お連れします」
「そういうの、厭なんですけど」イドゥンは堂々と言った。「一人で自由にさせてほしい。トイレくらいね。食事のメニューも自分で決めたいし、あ、着替えもないですよね」
「ウドガルドまで行けば何でもありますので」巨人族の兵士は部屋の外に出て行こうとする。
「ロキはどこへ連れていかれたの?」
イドゥンの声に反応することなく、巨人族の兵士らは外に出て行った。鍵が閉められる。音を立てて。