6.13: 竜殺しのシグルド、独眼の占い師に出会う過去のこと
「やぁ、そこのおにいさん! 素晴らしい英雄の相が出ているね! もう少しよく見せていただけないだろうか?」
そんな明るい声が投げかけられても、誰も振り返る者はいなかった。もちろんシグルドも。
第二平面ミッドガルドの東端、第五世界リュッツホルム。人間族たちが住まう世界というと上等のように聞こえるが、ミッドガルドの人間族の力は弱い。まず台頭しているのは〈第四世界〉の巨人族どもで、第二平面はあの巨躯と馬鹿力の彼らのものといっても過言ではない。ほとんどの期間を第一平面の神々たちと争い続けているので、第二平面東端に住まう人間族の世界には攻めてこないのは幸いではあるが、それでも馬鹿力の隣人がいるというのはぞっとしない。
次に第七世界ニダヴェリールの小人族たちだ。名前通り、彼らは矮小で卑小な存在ではある。だが彼らは恐るべき技術力を持っている――〈神々の宝物〉と呼ばれる魔法の道具がその結果だ。もちろんその呼称の通り、〈宝物〉は小人たち自身の力のみで作り出されたものではない。曰く、第一平面の神々がその作り方を教えたのだという。神々は小人たちを利用して魔法の道具を作り出し、小人たちにはほんの小さな恩恵を与えているつもりなのだろう。だが、おかげでミッドガルドは混乱している。特に力のない人間族は。
あとは第六世界スヴァルトアールヴヘイムの黒妖精族だが、あの排他的な集団は得体が知れないうえに、人間族に対して略奪や誘拐をすることをなんとも思っていない。こちらも黒妖精族に対して同様の態度で接しているために仕方がないところではあるが、あちらとは違ってこちらは〈世界樹〉から離れていてその恩恵を受けにくいのだから、文句のひとつでも言ってやりたい。
まぁ、ともかく、そんな奴らに囲まれているのが第五世界リュッツホルムだ。夏は暑く砂漠の砂が茹るようになり、冬になれば一転して吹雪が吹き荒れて凍えるほどになる、そんな世界だ。そんな世界の中央からやや西、〈第四世界〉にほど近い位置にある砂漠に囲まれた街、ラングホブデ。その繁華街となれば、土造りののっぺりとした家屋が連なる間に形成された市場には種々様々な露店が出ていた。天蓋を張ってその下で豚の丸焼きを作る店あり、出自不明な貴金属を売る黒い布地を被った正体不明の闇商人あり、馬や駱駝を預かって餌を食ませているすばしっこい小男あり、煌びやかな薄布だけを身に纏った奴隷商あり。その上には家々を繋ぐように綱が張られていて、そこに商品を吊っていたり、あるいは近くの家屋の洗濯物が干されていたりする。
とにかく雑多な場所だ。だから、声をかけられたからといって、それが自分に向けられたものであるなどとは思わない――思ったとしても「英雄の相が出ている」などという謳い文句に騙されたりはしないが。
しかしながら、砂漠用に隙間がない作りになっている外套の裾をぎゅっと握られて「無視しないでよ」などと哀願されれば、無視することは難しくなる。だからシグルドは、一度だけ後ろを振り返った。
裾を握っていたのは小柄な女だった――いや、女ではなく、子どもか。少女とも、少年にも見える。肌は人間族らしく砂漠の日射で焼けて浅黒いが、髪はすべて老人のような白髪だった。
とりあえず、小柄な体躯を上から見た。見下ろした。見てやった。一瞥したせいか、外套の裾を放してくれた。だからシグルドは無視してまた歩き出した。
「ちょっとちょっと……無視しないでって言ったでしょ!?」
子どもがまた裾を掴むが、シグルドは今度はそれも無視して引き摺って歩くことにした。相手が軽いので、苦にもならない。
「ちょっと――」
「おい、待て」
子どもの声を遮って投げかけられたその濁声は、明らかにシグルドに引き摺られていた子どものものではなかった。そしてその声はシグルドに向けられている――雑踏の中でもそのことはわかる。明らかな敵意があるからだ。悪意が向けられているからだ。
シグルドは身体を反転させた。相手を刺激させないようにゆっくりと、ではない。外套がぱっと広がるほどの勢いで、掴まっていた子どもの身体が浮き上がるのがわかった。外套が相手の視界を塞いでいる間に、腰帯に差していた剣を抜く――鞘ごと。そして鞘の平で背後から歩み寄ってきた濁声の持ち主の側頭部をぶん殴った。
「ぎっ」
馬鹿みたいな声をあげて倒れる男の容姿を確かめる。頭髪のない髭面は見たことのない顔だが、とりあえずは悪人面だ。軽装ながら帯刀しているのだから、堅気ではあるまい。ということは、殴っても問題がない。殺してもいないわけだし。とりあえず一安心だ。
倒れた男を検分していると、巻き込まれたくないということかシグルドの周囲からは人が遠のいていく。だがその中で、ひとり近寄る者がいた。
「いやぁ、助かったよ」というその高い声は、最初にシグルドに声をかけて、外套に追いすがってきた子どものものだった。あっけらかんとして言うことには、「品物を売っていたら、騙されたと言って追いかけてきたんだ。困るよね、騙したんじゃなくて、あっちに扱う力がないだけだというのに」
つまり、こののびている男が呼び止めたのは、シグルドの服に掴まっていた子どもだということか。
しばらく逡巡して、とりあえずは問題なかろう、と自分の中で決着をつける。先ほどのこの男は明らかに殺気を漲らせていた。この子どもに騙されたとして、それで追いかけるのは理解できるが、あれだけの殺意を向けるのは危険だ。であれば、それを止めたことは間違いではない。そう断じて自分を納得させる。
終わったことは、もう良い。シグルドは踵を返し、もともと向かおうとしていた方向――街を出る方角へと歩き出したのだが、数歩と進まずにまたしても外套の裾を掴まれた。
「おにいさん、助けてくれてありがとう」
振り返らずともわかる。先ほどの子どもだ。礼を言う。それは良い。問題は礼を言う態度ではないということだ。なんだ、この手は。ついてくるな。
無理矢理振り解こうとしたが、子どもらしい機敏さでちょこまかとシグルドに纏わりつく。駆け出せば引き摺られるのにも飽きて離してくれるような気もしたが、それはなんとも大人気ない。歩きながら考えたシグルドが出した結論は、無視しよう、というものだった。どうせどこかで諦めるだろう。多少重い荷物を引き摺っていると思えばいい。
「おにいさん、街を出るつもり?」
早速、街へ出るために歩いていると、子どもがそんなふうに問いかけてきた。もう外套は掴んでいないが、ぴょこぴょこと跳ねるようにシグルドの脇をついてくる。返答はしてやらない。
「この夏の盛りに徒歩で砂漠を渡るだなんて、正気じゃないよ。馬か駱駝がないと……ないの?」
ない。シグルドだって、何か乗り物があれば良いとは思うが、徒歩でしか移動しようがないのは、単に金がないからだ。貧乏なのだ。
「お金だったら出してあげてもいいけどね」
子どもが懐から小さな皮袋を取り出した。ずっしりと重いその中身は、金貨だろう。シグルドは足を止めてしまった。子どもの姿を見下ろす。最初に一瞥したときとは違い、じっくりと真正面からその顔を見据えたことで、瞳の色がわかった。大きな翡翠色の瞳は可愛らしさを感じるが、左目に黒い大きな眼帯がされているのがどこか歪に感じられた。
にっこりと子どもが微笑む。
「やっと見てくれたね………さて、おにいさん。先ほども言ったように、きみには英雄の相が出ている。この九世界の荒しまわる〈災厄〉たちを撃退する英雄の相だ。ぼくはそれに同行したいと思っている……もし承諾してくれるなら、金銭的な部分で手を貸してあげても良い。どうかな?」
シグルドは元来た道を歩くために反転した。馬を買うためだ。いや、その前に、と足を再度止め、隻眼の子どもに向き直る。
「シグルドだ」
そう名乗ると、子どもは片方しかない目を丸くした。そして言うことには「喋れたんだね……てっきり、口が利けないものだと思っていたよ」と愉快そうだった。明らかに年下の、幼ささえ感じさせる子どもに笑われたということで、腹が立たないでもなかった。
「ごめんごめん、よろしくね、シグルド。ぼくはオーディンだ」
そう言って微笑む子ども――オーディンの表情には、幼さの裏にある奇妙な妖艶ささえ感じずにはいられなかった。